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2020.07.12
朝鮮通信使99
映画『江戸時代の朝鮮通信使』上映
京都市北区に高麗美術館を設立(1988年開館)した在日コリアン一世の鄭詔文(チョン・ジョムン、1918年 - 1989年)は、日本国内に散在する朝鮮の美術品を収集する過程で、肉筆の絵巻『朝鮮人大行列図巻』(全8巻)を入手(1977年)した。

高麗美術館 京都市北区
この絵巻を見に来るよう連絡をうけた朝鮮通信使の研究家の在日コリアン2世・辛基秀(シンギス)は、鄭詔文の家にかけつけ部屋いっぱいに広げられた絵巻をみて驚いた。全長120mに及ぶ朝鮮通信使一行の行列風景を描いた絵巻、それまで見たことのない見事な大絵巻であったからである。
そこには、通信使三使(正使・副使・従事官)をはじめ、対馬藩主や案内・警備・荷役人夫など行列に加わる4600人ほどの人物が描かれていた。一人一人の表情も生き生きと極彩色で描かれ、単なる絵巻と云うより江戸時代の記録映画のようなものであった。
絵巻は、尾張徳川家の姫君が京都の近衛家に嫁ぐときに持参した宝物で、木箱に明治44年(1911年)に二条城の蔵から民間に払い下げたと墨書で書かれていた。
1911年は、日本が朝鮮を植民地統治した翌年、江戸時代の善隣友好の証拠となる絵巻は、朝鮮を支配していく上で邪魔な遺品、価値のないものとばかりに払い下げられたようである。美術商も何が描かれているのか理解できず、買い手もつかないまま美術古物店を転々として、70年後に鄭詔文のところにたどりついたようである。
映画製作の経験がある辛基秀は、この壮大な絵巻物を何度も見るうちに、この絵巻を縦糸に、これまで各地で見つかった絵画や祭礼の際の行列・唐人踊りなどを横糸に記録映画を作れば、いいものができると確信をもった。
辛基 秀の映画製作構想を聞いた鄭詔文は、絵巻を京都7条の表具師墨申堂に依頼して、半年かけて修復作業行い、購入時の金額よりはるかに高い300万円で完成させたという。
やがて、辛基秀は『江戸時代の朝鮮通信使』のタイトルの映画を企画、監督の滝沢林三と高岩仁、清水良雄ら少数スタッフで映画撮影にとり組んだ。対馬から江戸に至る朝鮮通信使が旅した海路・陸路のコースをたどり、長距離・長期間にわたりロケが行われた。
鄭詔文が修復した『朝鮮人大行列図』は、東映の太秦撮影所に持ち込み撮影したという。
1979年、製作費千百万円、上映時間50分のドキュメンタリー映画「江戸時代の朝鮮通信使」が完成した。
1960年代まで、朝鮮通信使の存在が一部の学者以外ほとんど知られていなかった。
朝鮮通信使に関する記録や事績は日本の歴史書、辞書からかき消され、教育現場では「神功皇后の三韓征伐」、「豊臣秀吉の朝鮮征伐」、「加藤清正の虎退治」などが教えられていた。
戦後、30年以上経ったが、明治以降の「征韓論」からはじまる、朝鮮、朝鮮人に対する差別・蔑視・偏見の朝鮮観が日本社会の中に根づよく残っていた。
このような日本社会に潜む状況を認識していた辛基秀は、朝鮮通信使の史料や遺跡など掘り起こすのために全国を駆けずり回り、映画製作に情熱を燃やしたのであった。
辛基秀は映画上映にあたり、
「朝鮮と日本の善隣友好関係が260年も続いたことをきちんと伝えることで、日本の誤った朝鮮観を正す一助にしたい」と語った。
1979年、映画「江戸時代の朝鮮通信使」が大阪の中心地・御堂筋にある朝日生命ホールに600余名の観衆をあつめて一般公開された。
映画の反響は大きかった。
「主題と方法とが一致したドキュメンタリーの勝利で、ある時期における朝鮮が日本にあたえた文化的、学術的影響の足跡を辿ったのみでなく、両国民がもっと深い人間的基盤でかかわりあったことの輝かしい1ページをわたしたちに教える」などの感想文がよせられた。
また長年、朝鮮通信使の翻訳や研究をしてきた姜在彦(カンゼオン)は、
「自分でも通信使関係の翻訳をして朝鮮と日本の友好の歴史を紹介してきたつもりだが、人々に伝えるという意味では活字には限界がある。この映画ができたことによるインパクトはとても大きく、教科書にまで登場するようになった。それまでは江戸時代の絵巻物や屏風に外国人が描かれていても中国人か南蛮人かの区別しか分からない程度だったのだから」と語った。
朝日新聞は3月26日付の社説「映画『朝鮮通信使』を見て」で、
「最近、在日朝鮮人と日本人の映画関係者、音楽家、学者らが協力したドキュメンタリー映画『江戸時代の朝鮮通信使』をみる機会があった。高松塚が古代の日朝交流史のあかしであるとするなら、これは近世の日朝関係を見直すきっかけとなる映画だと思う、、、いま必要なのは不幸な過去以外に、長い平和な友好の歴史があったことを知り、不孝な事件は時の権力者による例外的な事件であったことを認識することである。そうした時期があったことを持ちだしても不幸な事件の免罪符になるとは思わない。だが歴史の正しい認識が、偏見を正し、双方の理解に大きな役割を果たすだろうことも事実である。『朝鮮通信使』はわずか50分の作品である。だがこの映画が語りかけるは重い。われわれの朝鮮観はどうして形成されたか、長い徳川期を通じて友好関係にあった日朝関係がどうしてゆがんでしまったのか、われわれはいま一度、考えてみる必要がありそうだ」
その後、映画『江戸時代の朝鮮通信使』は、対馬、下関、岡山牛窓、大阪、京都、彦根、岐阜、清水、東京へと通信使ゆかりの地で上映され、仙台や他の地域、学校や団体などでも上映された。文部省選定映画となり、韓国ではテレビで全国放映された。何処の映画上映会も好評を博し大きな反響を呼んだ。
反響を呼んだ理由について、辛基秀は、
「日本人の場合、最大の理由は、こんなにも明るく、けんらん豪華な交流があったことを知らなかったという衝撃でしょうね、それも、知らさのていなかったということがわかって、もうひとつ驚きが大きくなる。日朝関係の歴史といえば、秀吉の朝鮮出兵、明治以降の征韓論、日韓併合といった暗い面ばかり教えられてきた。明暗のコントラストがあまりにも大きすぎる。ある雑誌編集者が”このような歴史的事実について、ほとんど無知であった私自身が恥ずかしい、、、目のウロコが一枚一枚はがされた”と感想を寄せている。日本人の反応はこの言葉に代表されていますね」と、
在日コリアン(朝鮮人・韓国人)のある女性は、
「映画を見ている間に、日本に対してばくぜんと積もり積もった憎しみが少しずつ消えてゆき、終わったあとは不思議とやさしい気持ちでした。日本と朝鮮は親友だったんだ。いやそれ以上のものなんだ。私は日本人を愛しているのかも知れない。とすがすがしく考えることが出来てうれしかった。もしこの映画を日本人が見たならば、やはり朝鮮に新愛の情を抱くでしょう」という感想文を書いた。
日本生まれ育ちの在日コリアン2世の筆者も、映画『江戸時代の朝鮮通信使』を見て感動を覚えた。早くにこの映画の存在を知っていれば、筆者はこの「朝鮮通信使」のブログ記事は掲載することはなかった思う。筆者の100回に及ぶ記事は、この50分の映画の中にすべて擬縮されていると言える。いや100回の記事より、一編の映画のインパクトははるかに大きい。
ドキュメンタリー映画『江戸時代の朝鮮通信使』の中から15枚の画像をカットして動画風に編集してみた。映画と比べられるものではないが、高麗美術館所蔵の「朝鮮人大行列図巻」の一端として見てほしい。
つづく
京都市北区に高麗美術館を設立(1988年開館)した在日コリアン一世の鄭詔文(チョン・ジョムン、1918年 - 1989年)は、日本国内に散在する朝鮮の美術品を収集する過程で、肉筆の絵巻『朝鮮人大行列図巻』(全8巻)を入手(1977年)した。

高麗美術館 京都市北区
この絵巻を見に来るよう連絡をうけた朝鮮通信使の研究家の在日コリアン2世・辛基秀(シンギス)は、鄭詔文の家にかけつけ部屋いっぱいに広げられた絵巻をみて驚いた。全長120mに及ぶ朝鮮通信使一行の行列風景を描いた絵巻、それまで見たことのない見事な大絵巻であったからである。
そこには、通信使三使(正使・副使・従事官)をはじめ、対馬藩主や案内・警備・荷役人夫など行列に加わる4600人ほどの人物が描かれていた。一人一人の表情も生き生きと極彩色で描かれ、単なる絵巻と云うより江戸時代の記録映画のようなものであった。
絵巻は、尾張徳川家の姫君が京都の近衛家に嫁ぐときに持参した宝物で、木箱に明治44年(1911年)に二条城の蔵から民間に払い下げたと墨書で書かれていた。
1911年は、日本が朝鮮を植民地統治した翌年、江戸時代の善隣友好の証拠となる絵巻は、朝鮮を支配していく上で邪魔な遺品、価値のないものとばかりに払い下げられたようである。美術商も何が描かれているのか理解できず、買い手もつかないまま美術古物店を転々として、70年後に鄭詔文のところにたどりついたようである。
映画製作の経験がある辛基秀は、この壮大な絵巻物を何度も見るうちに、この絵巻を縦糸に、これまで各地で見つかった絵画や祭礼の際の行列・唐人踊りなどを横糸に記録映画を作れば、いいものができると確信をもった。
辛基 秀の映画製作構想を聞いた鄭詔文は、絵巻を京都7条の表具師墨申堂に依頼して、半年かけて修復作業行い、購入時の金額よりはるかに高い300万円で完成させたという。
やがて、辛基秀は『江戸時代の朝鮮通信使』のタイトルの映画を企画、監督の滝沢林三と高岩仁、清水良雄ら少数スタッフで映画撮影にとり組んだ。対馬から江戸に至る朝鮮通信使が旅した海路・陸路のコースをたどり、長距離・長期間にわたりロケが行われた。
鄭詔文が修復した『朝鮮人大行列図』は、東映の太秦撮影所に持ち込み撮影したという。
1979年、製作費千百万円、上映時間50分のドキュメンタリー映画「江戸時代の朝鮮通信使」が完成した。
1960年代まで、朝鮮通信使の存在が一部の学者以外ほとんど知られていなかった。
朝鮮通信使に関する記録や事績は日本の歴史書、辞書からかき消され、教育現場では「神功皇后の三韓征伐」、「豊臣秀吉の朝鮮征伐」、「加藤清正の虎退治」などが教えられていた。
戦後、30年以上経ったが、明治以降の「征韓論」からはじまる、朝鮮、朝鮮人に対する差別・蔑視・偏見の朝鮮観が日本社会の中に根づよく残っていた。
このような日本社会に潜む状況を認識していた辛基秀は、朝鮮通信使の史料や遺跡など掘り起こすのために全国を駆けずり回り、映画製作に情熱を燃やしたのであった。
辛基秀は映画上映にあたり、
「朝鮮と日本の善隣友好関係が260年も続いたことをきちんと伝えることで、日本の誤った朝鮮観を正す一助にしたい」と語った。
1979年、映画「江戸時代の朝鮮通信使」が大阪の中心地・御堂筋にある朝日生命ホールに600余名の観衆をあつめて一般公開された。
映画の反響は大きかった。
「主題と方法とが一致したドキュメンタリーの勝利で、ある時期における朝鮮が日本にあたえた文化的、学術的影響の足跡を辿ったのみでなく、両国民がもっと深い人間的基盤でかかわりあったことの輝かしい1ページをわたしたちに教える」などの感想文がよせられた。
また長年、朝鮮通信使の翻訳や研究をしてきた姜在彦(カンゼオン)は、
「自分でも通信使関係の翻訳をして朝鮮と日本の友好の歴史を紹介してきたつもりだが、人々に伝えるという意味では活字には限界がある。この映画ができたことによるインパクトはとても大きく、教科書にまで登場するようになった。それまでは江戸時代の絵巻物や屏風に外国人が描かれていても中国人か南蛮人かの区別しか分からない程度だったのだから」と語った。
朝日新聞は3月26日付の社説「映画『朝鮮通信使』を見て」で、
「最近、在日朝鮮人と日本人の映画関係者、音楽家、学者らが協力したドキュメンタリー映画『江戸時代の朝鮮通信使』をみる機会があった。高松塚が古代の日朝交流史のあかしであるとするなら、これは近世の日朝関係を見直すきっかけとなる映画だと思う、、、いま必要なのは不幸な過去以外に、長い平和な友好の歴史があったことを知り、不孝な事件は時の権力者による例外的な事件であったことを認識することである。そうした時期があったことを持ちだしても不幸な事件の免罪符になるとは思わない。だが歴史の正しい認識が、偏見を正し、双方の理解に大きな役割を果たすだろうことも事実である。『朝鮮通信使』はわずか50分の作品である。だがこの映画が語りかけるは重い。われわれの朝鮮観はどうして形成されたか、長い徳川期を通じて友好関係にあった日朝関係がどうしてゆがんでしまったのか、われわれはいま一度、考えてみる必要がありそうだ」
その後、映画『江戸時代の朝鮮通信使』は、対馬、下関、岡山牛窓、大阪、京都、彦根、岐阜、清水、東京へと通信使ゆかりの地で上映され、仙台や他の地域、学校や団体などでも上映された。文部省選定映画となり、韓国ではテレビで全国放映された。何処の映画上映会も好評を博し大きな反響を呼んだ。
反響を呼んだ理由について、辛基秀は、
「日本人の場合、最大の理由は、こんなにも明るく、けんらん豪華な交流があったことを知らなかったという衝撃でしょうね、それも、知らさのていなかったということがわかって、もうひとつ驚きが大きくなる。日朝関係の歴史といえば、秀吉の朝鮮出兵、明治以降の征韓論、日韓併合といった暗い面ばかり教えられてきた。明暗のコントラストがあまりにも大きすぎる。ある雑誌編集者が”このような歴史的事実について、ほとんど無知であった私自身が恥ずかしい、、、目のウロコが一枚一枚はがされた”と感想を寄せている。日本人の反応はこの言葉に代表されていますね」と、
在日コリアン(朝鮮人・韓国人)のある女性は、
「映画を見ている間に、日本に対してばくぜんと積もり積もった憎しみが少しずつ消えてゆき、終わったあとは不思議とやさしい気持ちでした。日本と朝鮮は親友だったんだ。いやそれ以上のものなんだ。私は日本人を愛しているのかも知れない。とすがすがしく考えることが出来てうれしかった。もしこの映画を日本人が見たならば、やはり朝鮮に新愛の情を抱くでしょう」という感想文を書いた。
日本生まれ育ちの在日コリアン2世の筆者も、映画『江戸時代の朝鮮通信使』を見て感動を覚えた。早くにこの映画の存在を知っていれば、筆者はこの「朝鮮通信使」のブログ記事は掲載することはなかった思う。筆者の100回に及ぶ記事は、この50分の映画の中にすべて擬縮されていると言える。いや100回の記事より、一編の映画のインパクトははるかに大きい。
ドキュメンタリー映画『江戸時代の朝鮮通信使』の中から15枚の画像をカットして動画風に編集してみた。映画と比べられるものではないが、高麗美術館所蔵の「朝鮮人大行列図巻」の一端として見てほしい。
つづく
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