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    朝鮮通信使の小田原・相模路への旅


 朝鮮通信使一行は、東海道最後の難所・箱根を越え、急坂を下りて小田原に着き、小田原城南の大蓮寺に宿泊した。第2次通信使以降の宿泊所は城周辺の茶屋になった。

 翌朝、小田原を出発すると大磯、藤沢を経て戸塚、保土ヶ谷、神奈川へと進む。そして通信使の旅は、いよいよ最終コースとなる江戸の入口・六郷川(多摩川)にさしかかる。この小田原・相模路にも朝鮮通信使の足跡がいくつか残されている。

 小田原は、箱根の嶮を控えて江戸の西入口を押さえる要衝であった。そのため幕府は老中歴任者や譜代大名ら重臣を城主に配置した。

 幕府は、朝鮮通信使が箱根に到着する3ヵ月前に、江戸から問慰使を小田原藩に派遣して迎接準備を急がせた。

 箱根を下る途中、湯本のほど近くに北条氏の菩提寺・早雲寺がある。通信使はこの寺に立ち寄った形跡はないが、どうしたことか寺の山門に「金湯山 朝鮮雪峰」の扁額が掛けられている。雪峰は5次(1643年)、6次(1655年)通信使の書記・金義信の号である。おそらく早雲寺の僧が通信使の宿舎を訪ねて揮毫してもらったものと思われる。

  早雲寺1
      早雲寺の山門・「金湯山」 箱根

 小田原から六郷川に至る道路整備や輸送、とくに東海道を横切る酒匂川(さかわ)と馬入川(相模川)に船橋を架ける工事は沿線の 村々から多くの人馬が動員された。

 馬入川は相模第一の大川で、両岸の河原に土盛をした台場を造り、長さ300m、幅3mの船橋を架橋した。並べられた船の数は69隻~90隻である。ところが1748年、10次通信使が到着直前にせっかく完成した架橋が流されてしまった。
 
  再度の架橋を造るため緊急に相模国203ヵ村、武蔵国の36ヵ村から多くの人馬動員の「御用」が課せられた。前年が凶作であったため農民は食糧難に喘ぎながら負担であった。
 そのため、大住郡北矢名村や高座郡の村々から藩に対して拝借金を願い出たり、通信使宿泊・休憩所の「賄御用」の御免を願い出ている。

 こうしてせっかく掛けられ船橋は通信使が通るときのみ使用された。何とも効率の悪い、もったいない船橋架橋であった。幕府が、朝鮮通信使をいかに特別な待遇で迎えたか窺い知るところであるが、負担を背負わされた村民の不満の声も聞こえてくるようある。
 
 このような苛酷な負担にもかかわらず、村民たちは異国の賓客・朝鮮通信使一行が到来すると、快く歓迎し、華やかな大行列に驚嘆したのであった。
 国府津(神奈川県大磯町)の国府祭に通信使の行列をまねた「唐人踊り」が行われいたという。

 相州淘綾(ゆるぎ)郡山西村の名主志澤家に残されている「覚書」によれば、小田原の「松屋御茶屋」に立ち寄った通信使の下官20数人が茶をゆるゆると呑みながら、日本語での会話を楽しんだと書き記されている。通信使と村民らの和やかな交流の場が想像される。

 初代将軍徳川家康が駿府に隠居中、2代将軍秀忠のはからいで第一次朝鮮通信使一行は江戸からの帰途、鎌倉へ立ち寄り鶴岡八幡宮や頼朝廟、鎌倉大仏など見学したことが記録されている。

 六郷川の渡し場(現川崎市川崎区)は相模国と江戸との国境である。ここに徳川将軍の命をおびた使者が通信使一行を出迎えた。
 通信使一行が6郷川を渡る様子について、9次通信使の製述官申唯翰は、
「川の広さ四五百歩、彩船四隻が待つ、一は国書を奉じ、二つは使臣が分乗した。広大ではないが金彩漆光が照り映え、華麗である。また緒船集まること雲のごとく、人馬や行李を積んだ」(『海遊録』)と書いている。両岸には、ひと目見ようと見物人が押し寄せていた。

  多摩川
  六郷川の渡し場の風景 絵

 六郷川を渡った通信使一行は、夕刻に品川の東海寺玄性院に着き一泊する。東海寺に掛かる扁額「海上壇林」は、箱根の早雲寺の扁額と同じ五次通信使の書記金義信の書である。

 ソウルを出発して、海路、陸路3000㎞、2~3ヵ月の長旅を終えた朝鮮通信使一行は翌日、いよいよ江戸市中入りする。
   つづくspan>





 
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