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     朝鮮通信使の箱根山越え

 江戸幕府は、朝鮮通信使を国賓として迎え、江戸までの道中各地の主な藩で歓迎し、使節員一行を饗宴・接待した。また、長い道中における一行の安全のための警護を徹底し、難所とされる場所では事故が起きないよう万全な対策を講じたのである。

 朝鮮通信使一行が、清見寺を出て興津から由井に入る境界付近は、左はそそり立つ断崖、右は太平洋の荒波が打ち寄せる海岸で、波にさらわれないようわずかな道を波が引く時に一気に渡らなければない難所だった。そのため危険な「親知らず子知らず(親不知)」の場所と云われた。(大井川・箱根とともに東海道3大難所とされた)

   安藤広重
      由井「親不知」海岸 安藤広重画
 
 江戸幕府は、大行列で通過する通信使一行の不慮の事故を避けるために新しい道(迂回コース)を切り開いた。
 1607年、第1次通信使の往来の際に開通した新しい道の頂上は富士山がよく見える薩埵(さった)峠である。今日では、江戸時代の日朝の友好を伝える碑が建てられている。

  薩たる峠
      薩タ峠から富士山眺望

 薩埵峠を越えた通信使一行は、富士川の船橋を渡り千本松原という景勝地を進み三島で宿泊。翌日早朝に出発、いよいよ東海道最後の難所である箱根山越えである。

  千本松原
      千本松原の風景 三島市

 箱根山は標高約1400㎡の急坂がつづく険しい山、普通の登山者でも難儀であるのに重い荷物を持つ人、輿を担ぐ人たちにとっては大変な苦労であったと思われる。

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       使節員の輿を担ぐ人たち

 第9次(1719年)朝鮮通信使の製述官申維翰(シンユハン)は、輿を担ぐ人たちの様子について、
 「険にして峻、輿を担ぐ者は力を極めて登り、たびたび人を変えては休息する。それでもなお、呼吸が喘急である」と書き、険しい山道で輿を担ぐ人たちの苦労を思いやっている。 

 江戸幕府は、通信使一行が箱根の山を登る前に道路状況を確かめ、雪の日や雨の日に対処し、使節員が滑ったり、転んだりしないように竹を切って坂道を絨毯のように敷き詰めて舗装・道路整備を行ったのである。

 第3次(1624年)通信使の副使姜弘重(キムホンジュン)は、
 「麓から頂上まで四里(1・6㎞)を下らなかった。昨夜から雪が降り、嶺の道がひどくぬかるみ、竹を切って雪をおおったので、乾いた地を踏むようであった。一夜の間にこれをととのえたが、たとえ命令が神速であるとはいえ、また物力の豊富な事がわかる。その道に敷いた細竹は、皆矢を作るものであり、嶺の上には人家が数十戸あった」(『海搓録』)と書き、突貫工事で道路舗装が行われたことを伝えている。

 第5次(1643年)通信使の従事官申竹堂(シンチュクダン)は、
 「嶺の道は険しくて長く、時に長雨の季節なので泥土のぬかるみが脛までも沈めた。数里の間を行く道には、皆竹を編んでしいてあったが、その尽力を多く浪費したことを見る事が出来る」(『海搓録』)と書き、大勢の人が動員され、大変な経費負担であったことを感じとっていたのである。

 記録によれば、竹道の敷き替えに投じられた人員は約3000人。工費は約130両。これを負担したのは、箱根からほど遠い西伊豆~南伊豆(今の宇久須・松崎・南伊豆・下田・河津)の85の村々であった。幕府の命令により、箱根から離れた伊豆の人々が、東海道の整備に駆り出されていたのである。

 通信使一行が箱根峠の頂に着くと、眼前には神秘的な芦の湖と富士山が広がっていた。
 やがて、箱根の関所である。江戸時代の箱根関所は、通行人の取り調べが厳しかったことで有名である。この関所は江戸を守る関門として「入鉄砲に出女」と云われるほど身分や男女問わず厳しい通行検査が行われた。

  関所跡
           箱根関所跡

 朝鮮通信使一行の大行列は、誰も検査されることなくそのまま通過した。いわゆるフリーパスである。
 
 江戸幕府は、正式な外交関係の唯一の国家である朝鮮と善隣友好関係を構築するため、朝鮮通信使に対して最大級の接待、待遇をしていたのである。

 徳川幕府による朝鮮通信使の日本招聘は、諸大名や民衆に幕府の威厳を示すものであるとともに“善隣友好・誠信外交”を象徴するものであった。

 12回の朝鮮通信使が往来した江戸時代の260年間、日本と朝鮮との間で平和が保たれ、政府間の書簡の交換と文化交流、交易が行われた。

 しかし、明治維新後、政府内に「征韓論」が起こり、日朝関係は急速に悪化した。明治政府は、徳川幕府の対朝鮮との善隣友好関係を否定し、朝鮮通信使を「朝貢使」と蔑み、日朝の平和的な交流の歴史を矮小化したのであった。

 そして長い間、とくに日本の朝鮮植民地化(朝鮮併合19の10~1945年)などのために、朝鮮通信使は日本の歴史の中に埋没し、朝鮮通信使に関する歴史研究も行われなかった。関係文書などの保存もしっかりされていない状態にあった。

 1960年代に入って、朝鮮通信使に光をあてたのは李進熙、辛基秀、姜在彦氏ら在日コリアン(朝鮮・韓国人)学者、研究者たちであった。これに触発されて、日本史の大家・上田正昭、仲尾宏氏ら学者が加わり、江戸時代の善隣友好の使節団・朝鮮通信使の歴史が燦然と輝くようになった。

 朝鮮通信使に関する書籍の出版が相次ぎ、通信使が遺した書画などの展示会、通信使ゆかりの地での朝鮮通信使の行列を真似たパレードなどのイベント開催、通信使の記録映画も製作・上映などにより朝鮮通信使の認知度は急速に高まっていった。
 つづく
 
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