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      朝鮮通信使と清見寺

 朝鮮通信使一行が江尻宿を出発して、最初に立ち寄る先は徳川家康ゆかりの清見寺(静岡県清水興津)である。

  総門扁額
        清見寺 総門の扁額

 家康は幼少の頃、駿府を支配していた今川氏の人質になり、当時の清見寺住職太原和尚の教育を受けた。

 また、将軍を秀忠にゆずり引退したのち、大御所として駿府に隠せいした際には、家康は清見寺の大輝和尚に帰依し、たびたび清見寺に来遊したという。この寺の庭園は家康の設計によるものと伝えられている。

 清見寺は、東海道筋の駿河湾を望む風光明媚な高台にあり、眼前に三保の松原が連なっている。

 1600年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、ただちに朝鮮との講和・和平交渉を対馬藩に命じた。家康の隣国朝鮮との友好策とリーダーシップにより、朝鮮通信使が来日するようになった。(参照、朝鮮通信使2)

 1607年、第1次朝鮮通信使の来日の際、大御所として駿府に居た家康は、江戸での国書交換の任務を終え帰路、駿府に着いた通信使一行をもてなした。一行に船を提供して富士山を望む駿河湾を遊覧させた後、駿府城において歓待したのであった。朝鮮との国交回復と友好関係の樹立にかける家康の強い意志を伝える機会となった。(参照、朝鮮通信使7)

  駿河湾1
     駿河湾からの富士山眺望

 豊臣秀吉の朝鮮侵略による後遺症が残る時期、初めての日本を訪問する朝鮮通信使一行にとっては、警戒心を抱いての訪日だった。

 江戸における秀忠の歓迎と駿府における家康の歓待を受けた使節員たちは、再び日本が朝鮮を侵略する意思がないことを確信し、家康・秀忠父子への信頼を一層深めたのであった。通信使一行は、朝鮮を出発する時から抱いていた警戒心と緊張を駿府においてようやく解いたのであった。

 使節員が清見寺に遺した詩文はそれを物語っているようである。

 第4次朝鮮通信使から江尻の宿場に泊まるようになったが、江戸への往きも帰りも一行は清見寺に立ち寄り、住職や近隣の寺僧、文人らと筆談唱和、書・画・詩の文化交流を活発に行った。

    北斎絵
    清見寺 日朝文人の交流 葛飾北斎画

 第1次から11次まで(1607~1764)の(2次は京都、12次は対馬まで)の往来で、朝鮮通信使一行は清見寺に立ち寄り交流を通じて書・画・詩・扁額など多くの作品を遺したのであった。

 その殆どは文化財・寺宝として現在まで保存されている。その中でよく知られている2、3の文化財を紹介する。

 まず、清見寺の山門に掛かる扁額「東海名区」、本堂に掛かる扁額「興国 朝鮮正使翠屏」、鐘楼に掛かかる扁額「瓊瑶世界 螺山」などの書は全て使節員の手によるものである。

   清見寺3
     清見寺本堂の扁額 チョヒヨン書

 清見寺を讃える詩文・3篇が刻板となって方丈に掛けてある。呂祐吉・慶暹・丁好寛の名があることから、1次(1607年)の使節員の作品であることが解る。

 清見寺に「山水花鳥図押絵屏風4曲」が寺宝として保存されている。

 その寺宝の由来について次のような話が伝えられている。
 11次通信使の正使の趙厳(チョウ・オム)が「清見寺は日東(日本)の神山(仙人が住むところ)として有名」、「前に大海を臨んで限界寺宝としている、後ろに山、関屏(屏風のようにかこんで)花林を成す」とのべた。 
  この時、清見寺の僧が製述官南龍翼(ナム・リョンイク)に「本寺を朝鮮の洛山寺に似ていると言ったので、是非一行中の画人に洛山寺の画を描いてくれるよう」所望した。この願いはかなえられて「金剛山、洛山寺の屏風4曲」が描かれた。作者は画員金有声(キム・ユソン)である。

 このように清見寺は、さながら朝鮮通信使の歴史資料館といっていいほど、珍しい絵画、書、扁額を見ることができる。

  清見寺4
     朝鮮通信使の漢詩刻版 清見寺

 2017年10月、江戸時代の朝鮮通信使関係資料・日韓合計333点がユネスコの「世界の記録遺産」に登録された。(参照、朝鮮通信使1)その内、朝鮮通信使が清見寺に遺した48点が含まれている。

 因みに登録名称は「朝鮮通信使に関する記録-17世紀~19世紀の日朝間の平和構築と文化交流の歴史」となっている。

 「世界遺産」登録をうけて、清見寺は、広島県福山市鞆浦にある福禅寺、岡山県瀬戸内市牛窓にある本蓮寺と共に朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定された。清見寺は再び脚光を浴びるようになった。

 朝鮮通信使の足跡を示す文化財は、日朝、日韓関係の改善と友好平和に向けての貴重な資料・教材となるだろう。

  つづく

 
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