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2020.05.08
朝鮮通信使93
朝鮮通信使の大行列を支えた人々
朝鮮通信使を語るとき、彼らの京都ー江戸間の陸路の旅・豪華な大行列を支えた無数の人々のことを忘れてはならないだろう。
朝鮮通信使一行が、名古屋を出発すると岡崎、豊橋を経て浜名湖西畔の新居宿に着く。新居宿は、箱根の関所と共に東海道に設置されたもう一つの関所であった。
この新居宿は、京都の淀から朝鮮通信使一行の行列を担ってきた人馬が交替して、新しい人馬によって一行が江戸に向かう中継地となっていた。

朝鮮通信使行列 荷を担ぐ農民たち
朝鮮通信使一行の江戸往来のために、おびただしい数の人馬が調達された。
8次通信使の場合、往復とも人足300人、寄人足1万~1万2千人、馬8千~9千8百匹が調達された。これらの人馬だけでなく、物資の搬送、滞在・宿泊、船橋の架橋などにかかる費用は全て東海道筋大名の負担であった。
それに加えて幕府は、淀ー新井、新井ー江戸の2区間で用いられる鞍置馬(くらおきうま)320匹を、南は九州肥後の細川氏から北は盛岡の南部氏に至る東海道筋以外の大大名に提供させた。
鞍置馬は朝鮮通信使三使や上官、そして対馬藩主、以酊庵の僧、幕府派遣の碩学僧たちが乗り、馬一匹におよそ8人の足軽が付添った。
通信使の行列に調達された人馬の費用は莫大なもので、一種の軍役負担としてそれぞれの大名領地の農民に臨時の「村役」として課せられた。
人馬調達の命令を皮肉る狂歌が残されている。
”唐人ハよどの川瀬の水車
きょうもくるくるあすもくる
唐人が来るとわいへど馬ばかり
きりがなけれハ下々のめいわく”
(『静岡県史』)
人馬の提供を強いられた農民の不満の声が、朝鮮通信使一行が通過する沿道の村々の片隅からひそかに聞こえてくるようである。
朝鮮通信使の豪華な行列は、沿線農民らの重い負担のもとに行われたことを物語っている。
新井宿から浜松への行く手に「今切の渡し」(参照、朝鮮通信使22)があり、船で渡らなければならない。将軍家の通過や朝鮮通信使往来など特別な「大役」の場合、「寄せ船」制が発令され、三河、遠江の沿海の浦々に常置されている渡し船120艘とは別に200~300艘が調達されたという。
通信使が往来するたびに、新井宿の商人が浦々の船調達を請け負って莫大な利益を上げたと伝えられている。

朝鮮通信使・名古屋ー静岡間行程図
朝鮮通信使一行が「今切の渡し」を渡り、しばらく進むと天竜川、船と船を連結し設けられた臨時の川船橋を渡り掛川に到着する。

現在の「今切の渡」付近
翌日は最大の難所大井川(参照、朝鮮通信使21)を渡る。
大井川の流れがあまりにも急なため、千数百人の水切り人夫が動員され、上流と下流に並列して水の勢いを弱めて通信使一行を渡らせた。

急流大井川の風景
9次朝鮮通信使製述官・申維翰(シンユハン)は、大井川を渡る様子を
「流れは急にして矢の如く、船橋を施設しえない。故に白木の台の4面に欄干を設けたるもの十余部造る。国書を入れた輿および三使の乗る籠はそれぞれ一架に乗せて、それを担ぐ者数十人、一行の鞍馬・行李を扶護して渡る者は合わせて千余人の多きにいたる」(『海遊録』)と書いている。
船橋仮設のために動員された船頭や人足、急流を遮るために臨時に動員された農民も大変な数であったと想像される。

大井川渡川絵図
大井川を渡り終えると駿河(静岡県)最大の宿泊地、50軒の宿が軒を連ねる江尻(現清水市)に到着する。
朝鮮通信使一行が宿泊した寺尾家には、江戸時代の宿泊者名簿が残され、通信使員の名前が各年度ごとに記録されている。
朝鮮通信使一行が通過した名古屋から江尻までの間、彼らの足跡ともいえる書、画、詩など交流の記録などが見つからない中で、寺尾家の記録に記された宿泊名簿だけが明確な彼らの足跡として残しているのである。
朝鮮通信使一行の大行列が、京都ー江戸間10回の往来を大きな事故なく無事に果たせたのは、それを支えた沿道の農民、漁民、町民たち民衆の労苦があったからこそであろう。
つづく
朝鮮通信使を語るとき、彼らの京都ー江戸間の陸路の旅・豪華な大行列を支えた無数の人々のことを忘れてはならないだろう。
朝鮮通信使一行が、名古屋を出発すると岡崎、豊橋を経て浜名湖西畔の新居宿に着く。新居宿は、箱根の関所と共に東海道に設置されたもう一つの関所であった。
この新居宿は、京都の淀から朝鮮通信使一行の行列を担ってきた人馬が交替して、新しい人馬によって一行が江戸に向かう中継地となっていた。

朝鮮通信使行列 荷を担ぐ農民たち
朝鮮通信使一行の江戸往来のために、おびただしい数の人馬が調達された。
8次通信使の場合、往復とも人足300人、寄人足1万~1万2千人、馬8千~9千8百匹が調達された。これらの人馬だけでなく、物資の搬送、滞在・宿泊、船橋の架橋などにかかる費用は全て東海道筋大名の負担であった。
それに加えて幕府は、淀ー新井、新井ー江戸の2区間で用いられる鞍置馬(くらおきうま)320匹を、南は九州肥後の細川氏から北は盛岡の南部氏に至る東海道筋以外の大大名に提供させた。
鞍置馬は朝鮮通信使三使や上官、そして対馬藩主、以酊庵の僧、幕府派遣の碩学僧たちが乗り、馬一匹におよそ8人の足軽が付添った。
通信使の行列に調達された人馬の費用は莫大なもので、一種の軍役負担としてそれぞれの大名領地の農民に臨時の「村役」として課せられた。
人馬調達の命令を皮肉る狂歌が残されている。
”唐人ハよどの川瀬の水車
きょうもくるくるあすもくる
唐人が来るとわいへど馬ばかり
きりがなけれハ下々のめいわく”
(『静岡県史』)
人馬の提供を強いられた農民の不満の声が、朝鮮通信使一行が通過する沿道の村々の片隅からひそかに聞こえてくるようである。
朝鮮通信使の豪華な行列は、沿線農民らの重い負担のもとに行われたことを物語っている。
新井宿から浜松への行く手に「今切の渡し」(参照、朝鮮通信使22)があり、船で渡らなければならない。将軍家の通過や朝鮮通信使往来など特別な「大役」の場合、「寄せ船」制が発令され、三河、遠江の沿海の浦々に常置されている渡し船120艘とは別に200~300艘が調達されたという。
通信使が往来するたびに、新井宿の商人が浦々の船調達を請け負って莫大な利益を上げたと伝えられている。

朝鮮通信使・名古屋ー静岡間行程図
朝鮮通信使一行が「今切の渡し」を渡り、しばらく進むと天竜川、船と船を連結し設けられた臨時の川船橋を渡り掛川に到着する。

現在の「今切の渡」付近
翌日は最大の難所大井川(参照、朝鮮通信使21)を渡る。
大井川の流れがあまりにも急なため、千数百人の水切り人夫が動員され、上流と下流に並列して水の勢いを弱めて通信使一行を渡らせた。

急流大井川の風景
9次朝鮮通信使製述官・申維翰(シンユハン)は、大井川を渡る様子を
「流れは急にして矢の如く、船橋を施設しえない。故に白木の台の4面に欄干を設けたるもの十余部造る。国書を入れた輿および三使の乗る籠はそれぞれ一架に乗せて、それを担ぐ者数十人、一行の鞍馬・行李を扶護して渡る者は合わせて千余人の多きにいたる」(『海遊録』)と書いている。
船橋仮設のために動員された船頭や人足、急流を遮るために臨時に動員された農民も大変な数であったと想像される。

大井川渡川絵図
大井川を渡り終えると駿河(静岡県)最大の宿泊地、50軒の宿が軒を連ねる江尻(現清水市)に到着する。
朝鮮通信使一行が宿泊した寺尾家には、江戸時代の宿泊者名簿が残され、通信使員の名前が各年度ごとに記録されている。
朝鮮通信使一行が通過した名古屋から江尻までの間、彼らの足跡ともいえる書、画、詩など交流の記録などが見つからない中で、寺尾家の記録に記された宿泊名簿だけが明確な彼らの足跡として残しているのである。
朝鮮通信使一行の大行列が、京都ー江戸間10回の往来を大きな事故なく無事に果たせたのは、それを支えた沿道の農民、漁民、町民たち民衆の労苦があったからこそであろう。
つづく
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