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2020.04.08
朝鮮通信使89
尾張藩の朝鮮通信使接待
朝鮮通信使一行が、大垣を出ると美濃路から東海道へと進み尾張名古屋に向かう。約40㎞の道のり、大垣を早朝に出発したとしても、到着は夜半になる強行軍の旅である。
通信使一行の宿館は、城下大須の大雄山性高院とその周辺の寺院である。性高院は、家康の4男で早逝した松平忠吉の生母宝台院の菩提を弔うために建立された。第2次大戦中、軍事道路拡張のため名古屋大学付近に縮小移転した。

朝鮮通信使楽隊
尾張藩は、62万石の大藩、徳川御三家の一つである。徳川家雄藩の威信・名誉・面子をかけて通信使一行の接待にあたった。
通信使が名古屋に近ずくと、藩は「盗賊の他、すべてあばれ者はこの際、是非を論ぜず召し捕え候」と町触れ、予備拘禁令まで出していた。
尾張藩は、藩内915ヵ村の内813か村に通信使を迎えるために国役を課し、漁村には木曽川など河川の船橋仮設のため、船ならびに水夫・人足を加役した。村民にとっては大変な負担であった。
通信使が到着し、正使が性高院の正門をくぐると鉄砲がいっせいに号砲をうちは放った。士卒隊が夜を徹して寺町一帯を巡回し、それに鉄砲隊、火消隊まで配備されたという。
尾張藩が、通信使一行の道中安全と彼らの接待にいかに配慮、気配りをしたか窺い知るところである。
尾張藩士の朝日重章は、御畳奉行を務めながら名古屋の文人仲間と交流をもち、歌舞伎、浄瑠璃、文学など元禄時代の生活を満喫していた。彼はその過程で見聞した全てを27年間にわたって記録し続けた。その日記『鸚鵡籠日記』の中に尾張藩の朝鮮通信使接待の様子が詳しく記されている。
1711年、8次通信使を迎えたとき、「朝鮮人の好む鹿の肉を供するため、6月には2千5百人の勢子が平山谷で棚落しという捕獲法で鹿16頭を生け捕りした」(『鸚鵡籠日記』)と記録している。通信使一行が名古屋に着く4か月前から接待用の食肉の確保・準備をしていたのである。
実際に通信使に饗されたご馳走は、「正使への下行(たまもの)を予見るに、鴨1、真鴨1、このしろ5、たこ1、ぼら1、鯛1。この他鹿足1、鶏2羽、忍にく酒、味醂酒、酢、油,醤油各少徳利1つ宛入る。塩は籠に入。味噌は小樽に入。白米は鳫に入。副使、従事官へも同じ」と書き、その豪華な食事メニューに驚きを示している。
性高院は、詩文の唱和、書画の揮毫を求めて北陸、東海から学者、文人、町人がおしかけ混雑した。応対する通信使の文人たちは、一睡もできず筆をおく暇もないありさまであった。

性高院における詩文贈答の図『尾張名所図会』
重章は「その根気は称賛すべきものである」と感嘆しながら、自らも書画の揮毫を求めて長い廊下を行ったり来たり、目付けから「遠慮すべし」と注意されるが、朝鮮の文人との出会いを一生一代の栄誉と考える彼は、暁になって通信使から絵4枚を入手した。
「御目付50人、目付代わる代わる席々を見回る故予席に不入。暁方少のひまありて絵を4枚得たり、うち1枚は人形を逆さに書す」と書き、ようやく通信使から得た書画を手にした朝日重章の得意満面な姿が思い浮かぶ。
重章は通信使たちは、「いずれもいずれも容儀しずかに、君子の風あり、唐士人礼儀の国也と称美せしも虚ならざるにや。其のつかさつかさも科高きはいともおごそかに見えたり」と好評している。
通信使側から見た尾張藩の印象はどのようなものであっただろうか?
3次(1624年)通信使の副使姜弘重(カンホンジュン)は、「黄昏に名古屋に到着した。人家はどこも灯火を揚げないところはなく、また松明で道を照らして、明るいことは白昼のようであった。宝台院に宿舎を定めた。・・この地は土壌が肥沃で、村落も繁盛しており、城下は人家数万余戸あると言う」(『東沙録』)
9次(1719年)通信使製述官申維翰(シンユハン)は、「黄昏に名古屋に着いた。州俣からここまで尾張州である。繁栄はほとんど大阪と白昼する。藩主は・・関白の近親にあたり、雄府である。使館は性高院で、私の座室も傑客で高潔、ちまたを俯瞰できる。ここに来ると詩を乞う人々が人垣をつくっている」(『海遊録』)
11次(1765年)通信使正使趙厳(チョオム)は、「灯火をともして町の中を進み、性高院に到着した。館所は広大であり、人々の繁盛は京・大阪に匹敵する。ここが尾張藩主の城下町で城郭・楼閣はきわめて壮麗である。雄府と言えよう」(『海搓日記』)
いずれも朝鮮朝廷に報告するための公式文章のようなものであろう。
しかし、同じ11次通信使の書紀(3使より下位)金仁謙(キムインキョム)の次の文章がおもしろい。
「人々の容姿もすぐれて、これまた沿道随一であろう。わけても女人がみなとび抜けて美しい。明星のような瞳、朱砂の唇、白玉の歯、蛾の触角に似た細い眉、秋の蝉の羽のように透き通った額、楊貴妃も万古より美女とのほまれ高いが、この地で見れば色を失うのは必定」(『日東壮游歌』)と日本の女性に関心を示し、楊貴妃より日本の女性がより美しいとその美貌に魅了されたことを吐露ししている。
儒教思想で凝り固まった通信使高官が、日本女性に特別な関心を抱き、世俗的な観察描写していることに驚かされる。
朝鮮通信使は、尾張藩名古屋に大きな足跡を残した。通信使沿道の地域の中では、尾張藩は比較的に多くの文献、絵図、遺墨などの資料を保管・保存していた。
朝鮮通信使関連刊行物
『尾張名所図会』、『尾張名家誌』、『名古屋叢書』
朝鮮通信使関連絵図
「朝鮮人御饗応七五三膳部図」、「朝鮮人物旗仗轎輿之図」、「朝鮮来朝道絵図」、「名古屋東照宮祭礼絵巻」、「唐人行列図」、「張州雑誌」、「韓使來聘図」等々
多くの書、絵図は蓬左文庫(尾張徳川家の旧蔵書)で閲覧出来る。
追記、
1624年、徳川家康3回忌を機に東照宮祭礼(名古屋祭)が始まった。この年に第3次朝鮮通信使一行が訪れ、その豪華華麗な行列は名古屋城下の町民に強烈なインパクトを与えた。
その後、東照宮際礼は年々規模が大きくなり、その過程で朝鮮通信使風の衣装を纏った「唐人行列」や「唐子遊び山車」などが登場し、異国情緒豊かな彩りを見せたのであった。
東照宮祭礼は、毎年、神輿ととに9両の山車が連なり、6000人余りの町民が練り歩く豪華絢爛な祭であった。壮厳な祭礼は名古屋最大の年中行事として定着していた。

東照宮際 江戸時代『尾張名所図会』
明治維新後、紆余曲折を経ながらも祭りはつづけられたが、第二次大戦中、創建時の東照宮と山車が戦災で全焼してしまった。

写真 東照宮祭 明治時代
戦後、名古屋東照宮祭礼が復活し、毎年とり行わているが残念ながらかつて「唐人行列」、「唐人山車」の面影はないという。

最近の名古屋まつり
最近、「東海地方朝鮮通信使研究会」が発足、定例会を開き通信使に関わる資料の調査、研究が積み重ねられ、本『朝鮮通信使と名古屋』が出版された。
江戸時代、朝鮮通信使が名古屋に残した歴史の遺産を知る好著である。
つづく
朝鮮通信使一行が、大垣を出ると美濃路から東海道へと進み尾張名古屋に向かう。約40㎞の道のり、大垣を早朝に出発したとしても、到着は夜半になる強行軍の旅である。
通信使一行の宿館は、城下大須の大雄山性高院とその周辺の寺院である。性高院は、家康の4男で早逝した松平忠吉の生母宝台院の菩提を弔うために建立された。第2次大戦中、軍事道路拡張のため名古屋大学付近に縮小移転した。

朝鮮通信使楽隊
尾張藩は、62万石の大藩、徳川御三家の一つである。徳川家雄藩の威信・名誉・面子をかけて通信使一行の接待にあたった。
通信使が名古屋に近ずくと、藩は「盗賊の他、すべてあばれ者はこの際、是非を論ぜず召し捕え候」と町触れ、予備拘禁令まで出していた。
尾張藩は、藩内915ヵ村の内813か村に通信使を迎えるために国役を課し、漁村には木曽川など河川の船橋仮設のため、船ならびに水夫・人足を加役した。村民にとっては大変な負担であった。
通信使が到着し、正使が性高院の正門をくぐると鉄砲がいっせいに号砲をうちは放った。士卒隊が夜を徹して寺町一帯を巡回し、それに鉄砲隊、火消隊まで配備されたという。
尾張藩が、通信使一行の道中安全と彼らの接待にいかに配慮、気配りをしたか窺い知るところである。
尾張藩士の朝日重章は、御畳奉行を務めながら名古屋の文人仲間と交流をもち、歌舞伎、浄瑠璃、文学など元禄時代の生活を満喫していた。彼はその過程で見聞した全てを27年間にわたって記録し続けた。その日記『鸚鵡籠日記』の中に尾張藩の朝鮮通信使接待の様子が詳しく記されている。
1711年、8次通信使を迎えたとき、「朝鮮人の好む鹿の肉を供するため、6月には2千5百人の勢子が平山谷で棚落しという捕獲法で鹿16頭を生け捕りした」(『鸚鵡籠日記』)と記録している。通信使一行が名古屋に着く4か月前から接待用の食肉の確保・準備をしていたのである。
実際に通信使に饗されたご馳走は、「正使への下行(たまもの)を予見るに、鴨1、真鴨1、このしろ5、たこ1、ぼら1、鯛1。この他鹿足1、鶏2羽、忍にく酒、味醂酒、酢、油,醤油各少徳利1つ宛入る。塩は籠に入。味噌は小樽に入。白米は鳫に入。副使、従事官へも同じ」と書き、その豪華な食事メニューに驚きを示している。
性高院は、詩文の唱和、書画の揮毫を求めて北陸、東海から学者、文人、町人がおしかけ混雑した。応対する通信使の文人たちは、一睡もできず筆をおく暇もないありさまであった。

性高院における詩文贈答の図『尾張名所図会』
重章は「その根気は称賛すべきものである」と感嘆しながら、自らも書画の揮毫を求めて長い廊下を行ったり来たり、目付けから「遠慮すべし」と注意されるが、朝鮮の文人との出会いを一生一代の栄誉と考える彼は、暁になって通信使から絵4枚を入手した。
「御目付50人、目付代わる代わる席々を見回る故予席に不入。暁方少のひまありて絵を4枚得たり、うち1枚は人形を逆さに書す」と書き、ようやく通信使から得た書画を手にした朝日重章の得意満面な姿が思い浮かぶ。
重章は通信使たちは、「いずれもいずれも容儀しずかに、君子の風あり、唐士人礼儀の国也と称美せしも虚ならざるにや。其のつかさつかさも科高きはいともおごそかに見えたり」と好評している。
通信使側から見た尾張藩の印象はどのようなものであっただろうか?
3次(1624年)通信使の副使姜弘重(カンホンジュン)は、「黄昏に名古屋に到着した。人家はどこも灯火を揚げないところはなく、また松明で道を照らして、明るいことは白昼のようであった。宝台院に宿舎を定めた。・・この地は土壌が肥沃で、村落も繁盛しており、城下は人家数万余戸あると言う」(『東沙録』)
9次(1719年)通信使製述官申維翰(シンユハン)は、「黄昏に名古屋に着いた。州俣からここまで尾張州である。繁栄はほとんど大阪と白昼する。藩主は・・関白の近親にあたり、雄府である。使館は性高院で、私の座室も傑客で高潔、ちまたを俯瞰できる。ここに来ると詩を乞う人々が人垣をつくっている」(『海遊録』)
11次(1765年)通信使正使趙厳(チョオム)は、「灯火をともして町の中を進み、性高院に到着した。館所は広大であり、人々の繁盛は京・大阪に匹敵する。ここが尾張藩主の城下町で城郭・楼閣はきわめて壮麗である。雄府と言えよう」(『海搓日記』)
いずれも朝鮮朝廷に報告するための公式文章のようなものであろう。
しかし、同じ11次通信使の書紀(3使より下位)金仁謙(キムインキョム)の次の文章がおもしろい。
「人々の容姿もすぐれて、これまた沿道随一であろう。わけても女人がみなとび抜けて美しい。明星のような瞳、朱砂の唇、白玉の歯、蛾の触角に似た細い眉、秋の蝉の羽のように透き通った額、楊貴妃も万古より美女とのほまれ高いが、この地で見れば色を失うのは必定」(『日東壮游歌』)と日本の女性に関心を示し、楊貴妃より日本の女性がより美しいとその美貌に魅了されたことを吐露ししている。
儒教思想で凝り固まった通信使高官が、日本女性に特別な関心を抱き、世俗的な観察描写していることに驚かされる。
朝鮮通信使は、尾張藩名古屋に大きな足跡を残した。通信使沿道の地域の中では、尾張藩は比較的に多くの文献、絵図、遺墨などの資料を保管・保存していた。
朝鮮通信使関連刊行物
『尾張名所図会』、『尾張名家誌』、『名古屋叢書』
朝鮮通信使関連絵図
「朝鮮人御饗応七五三膳部図」、「朝鮮人物旗仗轎輿之図」、「朝鮮来朝道絵図」、「名古屋東照宮祭礼絵巻」、「唐人行列図」、「張州雑誌」、「韓使來聘図」等々
多くの書、絵図は蓬左文庫(尾張徳川家の旧蔵書)で閲覧出来る。
追記、
1624年、徳川家康3回忌を機に東照宮祭礼(名古屋祭)が始まった。この年に第3次朝鮮通信使一行が訪れ、その豪華華麗な行列は名古屋城下の町民に強烈なインパクトを与えた。
その後、東照宮際礼は年々規模が大きくなり、その過程で朝鮮通信使風の衣装を纏った「唐人行列」や「唐子遊び山車」などが登場し、異国情緒豊かな彩りを見せたのであった。
東照宮祭礼は、毎年、神輿ととに9両の山車が連なり、6000人余りの町民が練り歩く豪華絢爛な祭であった。壮厳な祭礼は名古屋最大の年中行事として定着していた。

東照宮際 江戸時代『尾張名所図会』
明治維新後、紆余曲折を経ながらも祭りはつづけられたが、第二次大戦中、創建時の東照宮と山車が戦災で全焼してしまった。

写真 東照宮祭 明治時代
戦後、名古屋東照宮祭礼が復活し、毎年とり行わているが残念ながらかつて「唐人行列」、「唐人山車」の面影はないという。

最近の名古屋まつり
最近、「東海地方朝鮮通信使研究会」が発足、定例会を開き通信使に関わる資料の調査、研究が積み重ねられ、本『朝鮮通信使と名古屋』が出版された。
江戸時代、朝鮮通信使が名古屋に残した歴史の遺産を知る好著である。
つづく
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