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     朝鮮通信使の兵庫津寄港

 室津を出航した朝鮮通信使大船団が明石海峡にさしかかると、明石藩の迎護船に先導されて兵庫津へ向かう。
 
 兵庫津は、奈良時代に行基が設けた摂播五泊の一つ、大和田泊と呼ばれた。平安時代末に平清盛が日宋貿易のために整備し、室町時代には足利義満の日明貿易の拠点として栄えた。

  兵庫津
       江戸時代の兵庫津

 江戸時代には兵庫津と呼ばれ、西国各地から大坂入りの船舶の寄港地として、また山陽道もこの地を通り海運と陸運の結節点として活気に満ちた港町であった。

 朝鮮通信使一行は毎回往路、復路とも兵庫津に寄港して、幕府所定の本陣、脇本陣、浜本陣と呼ばれる宿泊所に一泊した。
 
 幕府は大阪から役人を派遣して尼崎藩とともに施設の設営、接待方法など細々と指示した。
 それらの内容は、この地の町衆の自治組織であった岡方惣会所や北浜惣会所の「朝鮮人御用覚日記」に書きとめられている。

 朝鮮通信使兵庫津入港の様子を伝える絵巻が、尼崎藩主を祀る桜井神社宝物館に保存されている。
 極彩色で描かれた全長50mの絵巻は、尼崎藩が朝鮮通信使を出迎え、大阪まで護行する船の配置図で、700隻の船と乗員3000名が米粒のように細々に描かれていると言う。

  桜井神
        桜井神社 尼崎市

 実際に通信使を迎えるために動員される船や人員は厖大で、8次通信使の場合、船901隻、水主6274人、これに大阪の町奉行・尼崎藩主・対馬藩主の見分、鷹・馬の搬送などの船舶が別に必要であったため尼崎、西宮の両港から調達した。

 江戸までの使行した最後の通信使となった11次(1764年)の一行が兵庫に入港したのは夜の11時頃だった。

 正使の趙厳(チョウオム)は、「港は深くて広く千万隻は収容が可能であり、燈燭が互いに連なって、月と共に光を競い村や町が点在して人々の群れが山の如くであり、大変富んだ地である」(『海搓日記』)と記しているように、朝鮮通信使が入港した頃の兵庫津は繁栄していた。

 その後、幕末の開国時に神戸港が外国船の停泊地に指定されたのをきっかけに、兵庫津はその地位を神戸港に奪われることになった。

  神戸港
         現在の神戸港地図

 現在、兵庫津は神戸港の西、JR山陽線兵庫駅東側一帯にあたり、戦災やたびたびの埋め立てで往時の面影はない。
 
 今日では、朝鮮通信使正使が宿泊した兵庫宿本陣が西国街道の神明町あたりとされること、

 朝鮮通信使関係の文書が神戸市文書館に所蔵されていること、

 2001年にオープンした「尼信文化基金展示館」に桜井神社所蔵の「信使來聘自兵庫至大阪引船図」、「尼崎城朝鮮の間配置図」などが展示されていること、

  兵庫津2
       現在の兵庫津の風景

  神戸港2
       現在の神戸港の風景

 これらのことから、国際交流が殆どなかった 江戸時代、外交の使節団として朝鮮通信使が兵庫津に上陸し、地元の人々と交流した歴史的事実はハッキリと確認することができる。
   つづく
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