FC2ブログ
    鞆の浦は「日東第一景勝」

 朝鮮通信使船団が下蒲刈を出航すると、次の寄港地は鞆の浦(鞆の津)である。   

  福禅字1
      断崖に建つ福禅寺

 鞆の浦は、広島県福山市の南、沼隈半島の南端に位置する史跡が多い港町である。大阪へ上る船、九州へ下る船も満潮に乗って入港し、干潮に乗って港を出る潮待ちの良港である。
    
 朝鮮通信使一行の宿舎となった福禅寺は鞆港の東端・海を見下ろす断崖の上に建っている。福山藩水野勝種は本堂に隣接するところに、通信使のための迎賓館・「対潮楼」を特別に設けた。

 対潮楼の座敷からは、東に仙酔島、弁天島、西側に巴形の鞆港、大小さまざまな島と、遠く四国の連山をパノラマのように眺望できる。その絶景はしばし時のたつのを忘れさせるという。ここに宿泊した朝鮮通信使一行はその景観を激賞し、その感激を詩文に書き残した。

  対潮楼
       対潮楼からの眺望

 1711年、第8次朝鮮通信使の正使ら上官8人が、福禅寺楼閣からの眺めは日本一であると衆議一致し、従事官・李邦彦(リ・バンオン)が「日東第一景勝」(日本一の景勝)と書いた六字の書を額装にして客殿に掲げた。 

 それから100年後、李邦彦の書の傷みがすすみ、なくなるのを心配した福山藩は、木額の「日東第一景勝」を作製して掲げた。その木額が今日まで客殿に掲げられている。

  書家2
      福禅寺扁額 李邦彦書
 
 1748年、第10次朝鮮通信使の正使・洪啓禧(ホンケヒ)は、海岸の崖上に立つこの書院造り客殿を「対潮楼」と命名した。そして子息の書家・洪景海(ホンキョンヘ)は、特別に準備された木の硯に墨をたっぷり含ませた特大の筆で「対潮楼」の字をいっきに書き下ろした。福山藩が扁額に仕立てて座敷に掲げた。その扁額は今日まで続けて掲げられ有名となっている。

  書家
      10次朝鮮通信使 洪景海書

 洪啓禧は、次のような漢詩文を書き残した。
「楼は鞆浦の東南間の崖上に在って、山の一つの麓が海に臨んで絶え、曠然として高い楼閣がその上にそびえている。前の使臣が此処に来て語った者は、皆この寺の楼を洞庭湖の岳陽楼に比べており、今見るに過ぎたる言ではない。雲が通り過ぎ、月が上ると甚だ広い蒼波が絹を広げたようで、千百隻の帆掛け船が岸の下に停泊し、点々と燈火を掲げて即ち下界の星の光が有るので、人として飄々として神仙になって天に登る気分になる」(『奉使日本時見聞記』)

 1812年、福山藩儒の管茶山は、漢詩と書の普及をめざして、拓本刷りができるよう通信使の漢詩を模刻して木版を製作した。町人たちは競って通信使の漢詩集を木版に作成した。

 福禅寺には数多くの陰刻、陽刻の木版が保存されており、対潮楼の座敷内には多くの漢詩文の扁額が掛けられている。芸術性の高い通信使の漢詩文作品が4方の壁にズラリと並び見学できるようになっている。

 江戸時代、対潮楼の漢詩文や遺墨を鑑賞するために、全国の有名無名の詩人や書家が訪れた。また、対潮楼で詩会もたびたび開かれた。対潮楼には通信使の漢詩の韻をふんで作詩された作品も残されている。
 福山藩校の塾生たちは、漢詩や書を学ぶため訪れ、対潮楼は移動教室のようであったと言う。

  鞆の浦
     生きた通信使博物館・鞆港の風景

 現在、鞆町は江戸時代の建物や波止場、雁木、常夜灯、町並、道路も当時のままであり、往時の姿で朝鮮通信使がパレードをしても、全く違和感のない風情だという。

 福禅寺は、1940年「鞆朝鮮通信使宿館跡」として広島県史跡に指定され、1994年には「朝鮮通信使遺跡鞆福禅寺境内」として国の史跡に指定された。

 1990年、広島県史跡「鞆朝鮮信使宿館跡」保存修理工事が開始された。福禅寺は資金が足りず全国的な募金活動に依存すことになった。、地元の「対潮楼の解体再建を支援する会」や「対潮楼再建カンパの会」(青丘文化ホール・辛基秀)を中心に全国的なカンパ活動が展開された。朝鮮通信使の研究者や通信使ゆかりの地域から積極的な支援もあって目標額が達成された。
 1993年、新装なった「対潮楼」が完成した。


  せとないかい
     瀬戸内海 鞆の浦付近地図

 福禅寺は、境内に通信使の遺品が数多く存在することから生きた博物館として注目されている。

 最近、朝鮮通信使が残した日・朝親善の生きた博物館・福禅寺対潮楼を訪れる外国人観光客が増加しつづけている言う。
 つづく

 
Secret

TrackBackURL
→https://tei1937.blog.fc2.com/tb.php/678-d615cef1