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     第12回朝鮮通信使

  「天明の大飢饉」による延期

 1786年、将軍徳川家治が死亡し、養子の家斉(いえなり)が14歳で11代将軍となった。家斉就任とともに家治時代の田沼意次が老中を追われ、白河藩主の松平定信が老中首座となり、幕政の実権をにぎった。

  家斉
      11代将軍 徳川家斉

 将軍が新たに就任すれば、朝鮮側はこれを祝う通信使を2、3年以内に派遣するのが恒例であった。
 幕府は、新将軍を祝賀する使節を招聘するよう、対馬藩主宗義功(そうよしかつ)に命じた。
 対馬藩は朝鮮側と交渉を開始したが、すぐさま松平定信から「朝鮮通信使の招聘を延期せよ」との命令が伝達された。

 この時期、日本は浅間山噴火による被害と東北地方を中心に凶作がつづき「天明の大飢饉」(1782~87)が襲い深刻な状況にあった。飢民は草根木皮で延命して、各地で百姓一揆が起きた。都会では米価が暴騰し買い占めに抗議する暴動・打ちこわしが続出していた。
 1788年には京都で大火災が発生し、市街地の4分の3が焼けて京都御所・二条城が焼失したという。幕府の財政悪化は深刻であった。 

  2004年
     浅間山噴火  2004年
  
 老中松平定信は幕府の財政を立て直すための緊縮政策・「寛政の改革」を推し進めるとともに対馬藩に対して、
 「大飢饉で、下々が困窮し、宿駅も衰微して、その接待を担当する諸大名も不如意であるから、しばらく通信使の派遣を延期」(『通航一覧』)するよう朝鮮と交渉するよう命じたのであった。

 この頃、対馬藩も朝鮮貿易が衰退し財政難に陥っていた。

 対馬藩主は、通信使の派遣をしばらく待つよう朝鮮国に手紙をかいた。
 「本国は近年、凶作に見舞われ、穀物の実が熟さず、百姓は貧しさのどん底にあえいでいます。大君の新たな政治は、自愛深く、役人はそれに従い、行っていることといえば、もっぱら百姓の救済のみであります。しかしながら、残念なことに今はその甲斐なく、努力の実が結んでいないこの時期に、貴国の大使が厳かにいらっしゃれば、百姓は困難に処するので、、」(『通信使初登録』1789年)

  松平
     老中首座 松平定信

 このような延期の要請に、朝鮮側は新井白石による一方的な「聘礼改革」(参照「朝鮮通信使」37,38)のおしつけによって強いられた苦い経験から日本側の本意を疑ったのであるが、今回ばかりは隣国の事情を理解し延期を承知したのであった。
 これまで、11回の通信使派遣の交隣において、恒例と礼を主要な徳目としてきた朝鮮は、時期の決定は幕府と対馬の事情を受け入れ一度たりともおろそかにしなかった。

 ところが、朝鮮が通信使派遣の延期を受け入れた直後、松平定信は次回の通信使聘礼(国書伝達式)は江戸ではなく、対馬で行うことを決定して、対馬に朝鮮と交渉するよう命じた。
 松平定信は、凶作のため通信使のもてなしは難義であるが、みだりに延期することもできず、対馬で聘礼(易地聘礼)=「易地通信」を行うように提議したのであった。

 1791年、対馬は使者を朝鮮に送り倭館に滞在しながら交渉にあたらせた。朝鮮側は、聘礼の延期からさらに「易地聘礼」へと変えた日本側の真意を疑い反発して交渉すら応じなかった。

  海峡
      朝鮮-対馬ー日本
 
 1793年、松平定信が失脚したが、「易地聘礼」は幕府、対馬双方ともに「経費節約」・益になるというので、朝鮮との交渉を粘り強くつづけた。
 
 朝鮮朝廷の財政事情も苦しい状況にあった。そのため朝鮮側も「易地通信」は通信使派遣費用を削減できるメリットを感じていた。
 
 幕府ー対馬ー朝鮮の3者の間で、書契の交換や使者が海を往還して「易地通信」をめぐり、20年以上の長い
交渉がつづけられた。
 つづく

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