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2019.07.26
朝鮮通信使60
不幸な事件起る
1764年4月7日、江戸からの帰り大阪に到着した2日目の夜、北御堂の宿舎で11次通信使の都訓導(将校)崔大宗(チェデジョン)が殺害される事件が発生した。
この国際的大事件をめぐって大阪の街は上を下への大騒ぎとなった。事件は各地に伝えられ、東町奉行所は殺人事件として調査をはじめた。

通信使 正使の行列図
崔大宗が殺害されたその夜から、対馬の通訳鈴木伝蔵が行方不明であることが判明した。大阪より諸藩へ人相書きが手配され、4月18日に逃亡先の摂津の池田で捕まった。
幕府は、このたびの殺害事件が両国の交隣関係にあたえる影響を重視し、急きょ目付けを派遣して事件の真相究明と事件処理にあたらせた。
鈴木伝蔵は、「崔大宗が紛失した鏡を鈴木が盗んだと疑い、馬の鞭で殴られたので、怒りを抑えきれず刺殺した」と陳述した。
幕府は、犯人が殴られたというのは、崔大宗が死んだ以上、立証することができない一方的な弁解だとして一蹴した。
通信使の書紀金仁謙(キムインギョン)は、「たかが鏡一つで殺人事件まで起こしたと思えない、人参の密取引が原因」ではないか記録している。

通信使随行 対馬藩主行列図
当時、使節員と対馬との間で人参などの闇取引が横行していたようである。真相は不明のままである・
4月29日、幕府は調査を終え、犯人に対して「切腹するのが妥当であるが、逃げた罪」で死刑を言い渡した。
5月2日、鈴木の処刑は道頓堀西にて執行された。現場には、幕府目付け、大阪城代、対馬藩と通信使の三使ら使行員54名が立ち合ったという。

現在の大阪道頓堀
事件の背景には、18世紀後半対馬の倭館貿易の不振と、通信使随行の財政負担が重くのしかかり、使節側の横柄な態度と言葉の不通などが重なり、相互不信が極端な結果を招いたように思われる。
この事件の他に、通信使の小童金漢重(キムハンジュン)が病死し、船員の李光河(リクアンハ)の自殺事件があった。
5月6日、一か月の大阪滞留をよぎなくされたが、通信使一行は大阪を出航・帰国の途についた。
大阪の町人は、この事件の話題がつきず、3年後、「朝鮮人殺し」が脚本化され、並木正三作「世話料理鱸包丁」(せわりょうりすずきのほうちょう)として、1767年、大阪角座の芝居で上演されたという。
それから200年後の1968年、東京の国立劇場で「韓人韓文手管始」(かんじんかんもんてくだのはじまり)・俗称「唐人殺し」が上演された。
筆者は、「通信使殺人事件」のことも、それを題材にした「唐人殺し」の芝居が上演がされたことなど、はじめて知る話である。

江戸時代 日朝交流の歴史があった
朝鮮通信使の歴史は、日朝両国の平和と善隣友好の絆と、お互いの文化を理解するのに大きな役割をはたした。しかし日朝の長い交流過程で、お互いの理解不足や不幸な事件があったこともまた事実である。
つづく
1764年4月7日、江戸からの帰り大阪に到着した2日目の夜、北御堂の宿舎で11次通信使の都訓導(将校)崔大宗(チェデジョン)が殺害される事件が発生した。
この国際的大事件をめぐって大阪の街は上を下への大騒ぎとなった。事件は各地に伝えられ、東町奉行所は殺人事件として調査をはじめた。

通信使 正使の行列図
崔大宗が殺害されたその夜から、対馬の通訳鈴木伝蔵が行方不明であることが判明した。大阪より諸藩へ人相書きが手配され、4月18日に逃亡先の摂津の池田で捕まった。
幕府は、このたびの殺害事件が両国の交隣関係にあたえる影響を重視し、急きょ目付けを派遣して事件の真相究明と事件処理にあたらせた。
鈴木伝蔵は、「崔大宗が紛失した鏡を鈴木が盗んだと疑い、馬の鞭で殴られたので、怒りを抑えきれず刺殺した」と陳述した。
幕府は、犯人が殴られたというのは、崔大宗が死んだ以上、立証することができない一方的な弁解だとして一蹴した。
通信使の書紀金仁謙(キムインギョン)は、「たかが鏡一つで殺人事件まで起こしたと思えない、人参の密取引が原因」ではないか記録している。

通信使随行 対馬藩主行列図
当時、使節員と対馬との間で人参などの闇取引が横行していたようである。真相は不明のままである・
4月29日、幕府は調査を終え、犯人に対して「切腹するのが妥当であるが、逃げた罪」で死刑を言い渡した。
5月2日、鈴木の処刑は道頓堀西にて執行された。現場には、幕府目付け、大阪城代、対馬藩と通信使の三使ら使行員54名が立ち合ったという。

現在の大阪道頓堀
事件の背景には、18世紀後半対馬の倭館貿易の不振と、通信使随行の財政負担が重くのしかかり、使節側の横柄な態度と言葉の不通などが重なり、相互不信が極端な結果を招いたように思われる。
この事件の他に、通信使の小童金漢重(キムハンジュン)が病死し、船員の李光河(リクアンハ)の自殺事件があった。
5月6日、一か月の大阪滞留をよぎなくされたが、通信使一行は大阪を出航・帰国の途についた。
大阪の町人は、この事件の話題がつきず、3年後、「朝鮮人殺し」が脚本化され、並木正三作「世話料理鱸包丁」(せわりょうりすずきのほうちょう)として、1767年、大阪角座の芝居で上演されたという。
それから200年後の1968年、東京の国立劇場で「韓人韓文手管始」(かんじんかんもんてくだのはじまり)・俗称「唐人殺し」が上演された。
筆者は、「通信使殺人事件」のことも、それを題材にした「唐人殺し」の芝居が上演がされたことなど、はじめて知る話である。

江戸時代 日朝交流の歴史があった
朝鮮通信使の歴史は、日朝両国の平和と善隣友好の絆と、お互いの文化を理解するのに大きな役割をはたした。しかし日朝の長い交流過程で、お互いの理解不足や不幸な事件があったこともまた事実である。
つづく
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