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    峠の茶屋・「望湖堂」

 朝鮮通信使一行が、京都の淀で船から降り、江戸まで陸路を往還する道程で、彼らの旅情を癒してくれる場所として、彦根近くの摺針(すりはり)峠の茶屋があった、
 
 峠の茶屋は「望湖堂」と呼ばれ、琵琶湖が一望できるところにあった。

  摺針峠
    琵琶湖を一望する摺針峠の位置
 
 使節たちの使行日記・記録には、鞆の浦(広島県福山市)、清見寺(静岡県清水市)と摺針峠(滋賀県彦根市)の三か所を名勝地として、その景勝を詠いあげた詩文が多数記されている。
 
 11次朝鮮通信使の正使・趙オムは『海搓日記』に、
 「日東(日本)の名勝について、すでにたびたび記したが、もし第一をいうなら鞆の浦と清見寺とが雄を争うだろう。望湖楼(堂)もまた、その次になるだろう」と記した。
 
 *摺針の地名は、空海(弘法大師)の若き修業時代の伝説から名付けられたという。

  歌川広重
     摺針峠 歌川広重画 江戸時代
 
 通信使たちは江戸への往還では、必ず峠の茶屋で休憩した。訪れる度ごとに使節員たちは、琵琶湖の遠望を詩文にしたためていたようである。

 趙オム一行は、江戸への往路のときは雨の中、「望湖堂」からの眺望はできず、復路再び立ち寄ったのであった。

 「今度登って見て、三使が一致して称賛した。久しく座って気持ちがのびのびし、日が暮れるのを知らなかった」といい、琵琶湖の景色を次のように描写した。

 「前は琵琶湖を臨み、湖の長さと広さは百余里、皆眼中に入る。湖水の光は澄みわたって、山色は秀麗、夕日が傾きかけると漁舟が帰ってくる。左側の麓の砂浜が平らかに水辺まで至り、その一帯の煙樹は数十里にわたって横たわる。ほとんど白鷺州がニ水を、まん中から分けたごときである。湖中に小島があって名を竹生といい、方形の池の中に隠れた一輪の蓮花のようだ。洞庭湖に君山ありというが、果たして是の如きかは知らない」

  びわこ
        夕映え 琵琶湖
 
 江戸において、かしこまった儀式や雑多な応対に追われ、「国書交換」の重要な任務を無事終えての帰り道、通信使一行が琵琶湖の美しい景観をながめ、やっと一息ついた様子が窺がえる。
 
 そのとき茶屋の主人が訪れたので、
「それぞれ七言絶句を一首ずつ作り、文士たちをしてこれを唱和させた。主人が筆跡を得ようと表装した屏風をすすめたので、拙筆のことを忘れて書き、これを与えた。灯火をさげて下山し、彦根の館所に至った」
 
 峠の「望湖堂」には、趙オムら使節だけでなく、訪れるたびに残した先行の使節たちの書画が数多く存在していた。

 明治時代にはいって、摺針峠を通る道が幹線道路からはずされ、朝鮮通信使そのものが無視されるようになったため、峠の茶屋・「望湖堂」は人々から注目されなくなっていた。

   金啓升
      「望湖堂」の扁額 金啓升書

 最近になって、10次朝鮮通信使 三使の詩文をはじめ、幾多の書画が倉に眠っていることが確認されていた。

 筆者は、正使・趙オムが詠った七言絶句の詩をはじめ、「望湖堂」に存在した通信使たちの書画を掲載した書物はないかと調べたが、なんと驚いたことに、1991年11月、失火により「望湖堂」は倉もろとも全焼したという。

  茶屋
      峠の茶屋、「望湖堂」の跡

 江戸時代の日朝交流の貴重な文化財・通信使が残した全ての書画が焼失したことが解った。
 
 惜しんでも惜しみきれない、残念なことである。
 つづく

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