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2019.07.13
朝鮮通信使58
「徐福伝説」について
今から2200年前、古代中国七国(秦、趙、魏、楚、韓、斉、燕)の統一を果たしたのは、秦(BC221~BC202)の始皇帝であった。

古代中国の七国勢力図
徐福(斉人)は、「東方の三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の霊薬を求めに行きたい」と始皇帝に申し出た。
許しを得、始皇帝の命により徐福は、「三千人の童女童男(若い男女)と百工(技術者)を従えて、五穀の種を持って東方の絶海の彼方に船出(BC210年)した。ある島にたどり着いた徐福は、その地で「平原広沢」を得て王になって戻らなかった」と、司馬遷が『史記』(BC91年頃)に記した。
この記録にもとずいて「徐福伝説」が生まれた。

徐福 画
※三神山とは、「蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のこと、蓬莱山は東の海に聳える山、「方丈」は神仙が住む東方の絶海の中央にある島、瀛州は日本のことを指すらしい。
朝鮮では昔から、 徐福は日本のどこかに住み着いたものとイメージされ、日本を「倭」と呼ぶ一方で「扶桑国」(神木が生える国)、「日東国」(中国から東方海上にある国)と呼んでいたようである。
朝鮮の人々は、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争(1592~92)を「倭乱」(ウエラン)と呼び、この戦争後、日本にたいする敵愾心から故意に「倭国」、「倭人」、「倭奴」などの呼び方をするようになった。
しかし、朝鮮の士大夫(知識人・両班官僚)たちは、日本を「倭国」と言いながらも、日が昇り「扶桑」という神木が生えている国であるとして、「徐福伝説」、「扶桑国」の国としてのイメージは残していたようである。
日本を往還した朝鮮通信使たちは、詩の世界にはいると日本の美しい景観を神仙が住む「扶桑」と詠い、ねんごろに桃源郷や神仙境を連想させ美化したのであった。
9次通信使の製述官・申唯翰(シンユハン)は、自身の日記・『海遊録』で、日本を「蛮夷」と呼びながらも、対馬に着くやその景観を「神仙境」と絶賛し、うらやましがったのである。
11次朝鮮通信使の正使・趙曮(チョウ・オム)は、対馬に上陸したのち帰国の途につくまで、日本をあるがままに見て、良いものは良いと認め、何事も客観的に評価しようとした。日本の発達した制度や技術は習うべきであるとし、それを朝鮮に取り入れようと努力したの人であった。

三保の松原から見る富士山
趙オムは、三島で富士山を眺めながら、「徐福伝説」について、
「徐福が日本に来たというのも信じがたいのに、仙薬をこの島国の三つの山で掘り出したというのは、これまた信じがたい」
「不老草という霊薬は三神山から掘り出す人参のことであるが、三神山は日本にはなく、霊薬が日本で生産されているはずもないのに、徐福が日本に来る訳がない」と伝説は虚構にすぎないと指摘したのであった。
彼は、また朝鮮内の伝わる、霊薬である人参を求めて朝鮮に上陸したとする「徐福伝説」について、
「三神山は済州の漢拏山(ハルラサン)、南原の智異山(チリサン)、高城の金剛山(クムガンサン)と称するが、これもまた必ずしも信じられない」と否定したのであった。
趙オムは、富士山が見える三島を通過しながら、漢詩を詠じた。その一部を紹介する、
箱根の雲なく龍は海に移り
富士山は雪に埋もれ鶴は虚空を飛ぶ
愚かなるかな秦の始皇帝、徒に薬を求め
常軌を逸している斉国の人、
空しく秘訣を信ずる
(箱澤無雲龍徒海)
(富山封雪鶴乗虚)
(愚哉秦帝徒求薬)
(妄矣斉人謾信書) (趙曮『海搓日記』)
中国においても長い間、徐福は伝説上の人物とされていたが、最近になって、江蘇省において徐福が住んでいた徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、徐福は実在した人物だとされるようになった。驚くことに、その村には現在も徐福の子孫が住み、代々先祖から徐福について語り継がれてきたという。保存されていた系図には「徐福が不老不死の薬を求めて東方に行って帰ってこなかった」ことが書かれているという。そして1982年、徐阜村には徐福の石碑が建てられた。
徐福が実在した人物であるとしても、今となっては徐福が何処に上陸し、何処に住み着いたか、その地名を特定することは殆ど不可能である。

徐福の墓 和歌山県新宮市
しかし、古代の世界のなかで、3000人もの多くの人を引き連れて、絶海の彼方に消えていった徐福は、神秘に包まれ謎が多いだけに「徐福伝説」はこれからも語り継がれていくだろう。
日本各地に「徐福伝説」が存在する、
鹿児島県屋久島・種子島、佐賀市金立神社、宮崎県日南海岸徐福岩、三重県熊野市徐福宮、和歌山県新宮市徐福の墓・阿須賀神社、京都府与謝郡伊根町新井崎神社、愛知県熱田神宮境内蓬莱山、秋田県男鹿郡赤神神社など、数十か所に及ぶ。

徐福岩のある日南海岸 宮崎県
つづく
今から2200年前、古代中国七国(秦、趙、魏、楚、韓、斉、燕)の統一を果たしたのは、秦(BC221~BC202)の始皇帝であった。

古代中国の七国勢力図
徐福(斉人)は、「東方の三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の霊薬を求めに行きたい」と始皇帝に申し出た。
許しを得、始皇帝の命により徐福は、「三千人の童女童男(若い男女)と百工(技術者)を従えて、五穀の種を持って東方の絶海の彼方に船出(BC210年)した。ある島にたどり着いた徐福は、その地で「平原広沢」を得て王になって戻らなかった」と、司馬遷が『史記』(BC91年頃)に記した。
この記録にもとずいて「徐福伝説」が生まれた。

徐福 画
※三神山とは、「蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のこと、蓬莱山は東の海に聳える山、「方丈」は神仙が住む東方の絶海の中央にある島、瀛州は日本のことを指すらしい。
朝鮮では昔から、 徐福は日本のどこかに住み着いたものとイメージされ、日本を「倭」と呼ぶ一方で「扶桑国」(神木が生える国)、「日東国」(中国から東方海上にある国)と呼んでいたようである。
朝鮮の人々は、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争(1592~92)を「倭乱」(ウエラン)と呼び、この戦争後、日本にたいする敵愾心から故意に「倭国」、「倭人」、「倭奴」などの呼び方をするようになった。
しかし、朝鮮の士大夫(知識人・両班官僚)たちは、日本を「倭国」と言いながらも、日が昇り「扶桑」という神木が生えている国であるとして、「徐福伝説」、「扶桑国」の国としてのイメージは残していたようである。
日本を往還した朝鮮通信使たちは、詩の世界にはいると日本の美しい景観を神仙が住む「扶桑」と詠い、ねんごろに桃源郷や神仙境を連想させ美化したのであった。
9次通信使の製述官・申唯翰(シンユハン)は、自身の日記・『海遊録』で、日本を「蛮夷」と呼びながらも、対馬に着くやその景観を「神仙境」と絶賛し、うらやましがったのである。
11次朝鮮通信使の正使・趙曮(チョウ・オム)は、対馬に上陸したのち帰国の途につくまで、日本をあるがままに見て、良いものは良いと認め、何事も客観的に評価しようとした。日本の発達した制度や技術は習うべきであるとし、それを朝鮮に取り入れようと努力したの人であった。

三保の松原から見る富士山
趙オムは、三島で富士山を眺めながら、「徐福伝説」について、
「徐福が日本に来たというのも信じがたいのに、仙薬をこの島国の三つの山で掘り出したというのは、これまた信じがたい」
「不老草という霊薬は三神山から掘り出す人参のことであるが、三神山は日本にはなく、霊薬が日本で生産されているはずもないのに、徐福が日本に来る訳がない」と伝説は虚構にすぎないと指摘したのであった。
彼は、また朝鮮内の伝わる、霊薬である人参を求めて朝鮮に上陸したとする「徐福伝説」について、
「三神山は済州の漢拏山(ハルラサン)、南原の智異山(チリサン)、高城の金剛山(クムガンサン)と称するが、これもまた必ずしも信じられない」と否定したのであった。
趙オムは、富士山が見える三島を通過しながら、漢詩を詠じた。その一部を紹介する、
箱根の雲なく龍は海に移り
富士山は雪に埋もれ鶴は虚空を飛ぶ
愚かなるかな秦の始皇帝、徒に薬を求め
常軌を逸している斉国の人、
空しく秘訣を信ずる
(箱澤無雲龍徒海)
(富山封雪鶴乗虚)
(愚哉秦帝徒求薬)
(妄矣斉人謾信書) (趙曮『海搓日記』)
中国においても長い間、徐福は伝説上の人物とされていたが、最近になって、江蘇省において徐福が住んでいた徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、徐福は実在した人物だとされるようになった。驚くことに、その村には現在も徐福の子孫が住み、代々先祖から徐福について語り継がれてきたという。保存されていた系図には「徐福が不老不死の薬を求めて東方に行って帰ってこなかった」ことが書かれているという。そして1982年、徐阜村には徐福の石碑が建てられた。
徐福が実在した人物であるとしても、今となっては徐福が何処に上陸し、何処に住み着いたか、その地名を特定することは殆ど不可能である。

徐福の墓 和歌山県新宮市
しかし、古代の世界のなかで、3000人もの多くの人を引き連れて、絶海の彼方に消えていった徐福は、神秘に包まれ謎が多いだけに「徐福伝説」はこれからも語り継がれていくだろう。
日本各地に「徐福伝説」が存在する、
鹿児島県屋久島・種子島、佐賀市金立神社、宮崎県日南海岸徐福岩、三重県熊野市徐福宮、和歌山県新宮市徐福の墓・阿須賀神社、京都府与謝郡伊根町新井崎神社、愛知県熱田神宮境内蓬莱山、秋田県男鹿郡赤神神社など、数十か所に及ぶ。

徐福岩のある日南海岸 宮崎県
つづく
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