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   サツマイモ=孝行イモ=コグマ

 15世紀、メキシコあたりの中南米でサツマイモが発見され、その存在がヨーロッパに伝わり、やがてヨーロッパ人の東南アジア進出により中国(清)に伝播した。
 17世紀初、中国福建省から琉球(現在の沖縄)にサツマイモが持ち込まれたとされている。「唐イモ」、「甘藷」(かんしょ)と呼ばれていた。

 その後、サツマイモは薩摩(さつま・現在の鹿児島県)に上陸・栽培されるようになった。薩摩藩は、貴重な食糧資源として栽培を自領にとどめるため、種イモの藩外持ち出しを禁止したのであったが、栽培が簡単なことから、徐々に周辺地域に「サツマイモ」の呼称で普及していった。

 そして、八代将軍吉宗(1715~45)のころに、蘭学者・青木昆陽によって小石川薬園(現在の小石川植物園)と下総国千葉郡馬加村(現在の千葉市幕張)で試作された後、日本全国に広められたとされている。

 1723年、対馬上県町の農家の次男・原田三郎右衛門は、少年時代に対馬府中で藩儒・陶山訥庵(すやまとつあん)の教えを聞いて感銘を受け、海を渡り薩摩藩に侵入、苦労して種イモを持ち帰った(一説では薩摩藩に頼み込んで苗を分けてもらった)とされている。

  対馬1
       朝鮮半島ー対馬ー日本

 荒れ地や、痩せた土地でも育つサツマイモは、山が多く耕地の少ない対馬島民の食糧事情を大きく改善させた。まさに、サツマイモは対馬の救世主的存在となり、「農民に孝行するイモ(芋)」という意味でいつしか「コウコウイモ」(孝行イモ)と呼ばれるようになったという。

10次通信使(1748年)一行が、日本を往還した頃にはサツマイモは対馬全域に伝播していたことから、使臣たちはイモを見るなり聞くなり、あるいは直接食べる機会もあったはずであるが、サツマイモの種を持ち帰り、食糧源にする考えに至らなかったようである。

  サツ畑
        サツマイモ畑 鹿児島県

 1764年、11次朝鮮通信使の正使・趙曮(チョウ・オム)は、正使に任命される以前、慶尚道観察使や東莱府使など地方長官を務めた頃にサツマイモに関する情報を把握していたようである。おそらく対馬の関係者が多数居留する釜山の倭館内で、実際にサツマイモを食べた経験があったと推測される。

  なぜなら、彼は釜山にもっとも近い対馬の佐須浦に到着するや否や、種イモを2~3斗(30~45㎏)求めてとりあえず釜山に送り、帰路にも追加分を船積みし、栽培法や食べ方まで詳しく調べて帰国したのである。食べた経験があるからこその果敢な行動であったと思われる。

 当時としては、サツマイモは米や雑穀に代わる食糧として、甘くて食べやすい、腹持ちもいい食べ物として趙曮は感動したのではなかろうか?

 *対馬では、「孝行イモ」を砕いて水にさらして天日干しして発酵させて粉にし、「せんだんご」、「せんちまき」、「せんそば」などを作る。現在は郷土料理とし定着し土産物になっている。

  孝行麺
      孝行麺 対馬の郷土料理

 サツマイモの朝鮮半島上陸は、凶作と飢饉、食糧難に苦しむ民衆を救うことになり、対馬島民と同様、食糧事情を画期的に改善する契機となった。

 趙曮が持ち帰ったサツマイモはその後、朝鮮半島南部の陸地や島に普及し、朝鮮半島北部の寒冷地に適したジャガイモと並ぶ、貴重な救荒作物となった。

  対馬佐須
     対馬の風景 鳥帽子岳展望台より

 朝鮮では、対馬で「コウコウイモ」(孝行イモ)と呼ばれた言葉をそのまま使っていたが、いつしかその発音がなまって「コグマ」(イモ)と呼ばれるようになり、現在に至ったようである。

 12回の朝鮮通信使による日本往還・交流の中で、日本から朝鮮に持ち帰ったサツマイモが、民生に役立つ具体的な物としては唯一のものであった。

 日本では青木昆陽が「サツマイモ」を、対馬では原田三郎右衛門が「孝行イモ」を、朝鮮では趙曮が「コグマ」を普及させた功労者として、 それぞれの歴史にその名が刻まれた。

   つづく




 
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