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    大阪におけるエピソード


 1748年、10次朝鮮通信使一行が大阪に上陸すると、一人の朝鮮人が久太郎町の薫物屋(線香屋)四朗兵衛を探し訪ねたいと願いでた。
役人が通訳を連れて、その朝鮮人を四朗兵衛の店へ案内した。近所の町人が集まり黒山の人だかりになったという。

  歓迎4
    通信使一行を歓迎する大阪庶民

 朝鮮人は、「薫物屋四朗兵衛殿と申すのはこなたにございますか」と問うと、店の主人が「その通り」だと答えた。
 いぶかった朝鮮人は、「さては四朗兵衛殿は亡くなられたのか」と問うと、店の主人は「はい死去いたしました」と答えたのであった。
 朝鮮人は「とすると貴方は長吉殿と申す人ではありませんか」、
 店の主人は「そのとおり」と返答し、しばしこのような問答がつづいた。
  
 そこで初めて朝鮮人は、店に訪れてくるまでの不思議な経緯を話し始めた。
 「私儀、先年この御家に相勤めていました。紀州有田郡瀬名村の者で、お父上様の代に奉公致しましたところ、集金の銭、四貫文がままならず(売掛金がこげついた)、京都へ出稼ぎにゆきましたがうまくゆかず、長崎へ下る人を知り、一緒に下りましたが、ここでも難義しておりましたところ、対馬へ行った方が暮らしよいという人があり、対馬へ渡って6年間暮らして、朝鮮に渡る「通り切手」(渡航証明書)をもらって朝鮮に渡り、ある家の婿になりました。婿入り先が小役人の家だったので、このたび日本派遣の人員に加えられました。大阪にまいりましたら、昔の主人の家に立ち寄り右の事情を話したく思い、また紀州の様子や風間を承りたくて参りました。
 私が日本にいました時は、朝鮮人参の値段は一両につき300匁(約1㎏)であったように覚えていますが、今でもそうでしょか」と聞いた。

 店の主人・長吉が「左様です」と答えると、懐から朝鮮人参3本と小皿10枚を取り出し
 「これは、はるばる心がけて持参したものです。お受けとりください」というので長吉もこれを受けとり、
 「現在は知行(給料)をとっておられますか。暮らしの方はいかがですか」と尋ねた。
 朝鮮人は「6間(約12m)の間口、奥行き7間の住まいで、それ相応に暮らしております」と返事した。

  歓迎2
      通信使を見学する男衆
 
 長吉は銭二貫文をさしだしたところ、堅く断わり、
「もし、この銭を朝鮮にもって帰れば、15、6年は楽々と暮らせるでしょう。しかし百文だけいただきましょう」と申すので五百文を渡したところ「かたじけない、しかし隠してもち帰ることも難しいので百文だけ貰い妻にも日本には金銀が沢山あることを話します」(林復斎編『通航一覧』1853年)といって帰った。

 長吉がその朝鮮人参を薬種屋に持ってゆき見てもらったところ、銭1貫7百文になったという。

 江戸時代の相場では銭1貫7百文は米4斗(60キロ)分の値段であったから、朝鮮人参はかなり高価であったことがわかる。
 *金1両=銀60匁=銭4貫文=4千文

  歓迎1
      通信使を見学する女性

 この物語は、店の金が集金できないため、朝鮮まで逃げた紀州有田出身の元日本人が、自責の念にかられて、わざわざ通信使に混じって訪ねてきた物語であるが、江戸時代の大阪商人の様子や、当時のいろいろな情景を想像させるエピソードではないだろうか。、 つづく

 
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