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    第10次朝鮮通信使往還
    
      副使船の火災事故
 
 18世紀半ば、東アジアの国際関係は安定を保っていた。

 1745年、八代将軍徳川吉宗が61歳で引退し、家重が35歳で九代将軍に就任した。吉宗は還暦が過ぎても健康であった。しかし、在位30年に及びこれ以上長引けば、子の家重が日の目を見ることができないと考え引退したようである。

 ところが、家重は言葉がはっきりせず、酒色におぼれ、暗愚であったと言われる。吉宗が6年間後見し、側近の田沼意次、大岡忠光が幕政の実権をにぎり15年間、家重を支えた。

   家重2
       九代将軍  徳川家重

 幕府は、対馬藩主・宗義如(よしゆき)に対し、朝鮮国に家重の就任祝賀の通信使派遣を要請するよう命じた。

 朝鮮王朝は、21代英祖の治世(在位1724~76)、英祖は名君として評判が高く、内政の建て直しに努力した。しかし、経済の復興がままならず、そこに全国的に疫病が流行り多くの死者をだしていた。 

    英祖
       21代朝鮮王 英祖
 
 朝廷にとって今回の派遣は、経済的な負担が厳しかったが、英祖が「交隣の道は前例をもって重きとなす」として通信使派遣が決定された。

 1748年2月、第10次朝鮮通信使一行477人、対馬の鰐浦に入港した。数日後の深夜、副使船で火災が起き焼失した。3人死亡、10数名が火傷を負う重大事故となった。副使一行の日常品はもちろん、礼物(礼単)の人参72斤(1斤=600グラム)、木綿20疋(1疋=9m)を焼失してしまった。

  鰐浦漁港
     副使船の火災があった鰐浦漁港
 
 危険な海を無事に渡り到着したことを祝い、対馬藩が酒肴を差し入れした。乗組員たちは久しぶりに緊張感を解いて酒に酔い、ローソクの火の用心を怠り、藁(わら)に燃え広がったのが原因だったという。
 正使が使行の統率を怠り、下位の者が上位の命令に従わなかったようである。
 
 この事件は、朝鮮朝廷に届けられ、焼死した3人の遺体は釜山に送り返された。報告をうけ朝廷が困ったのは、将軍や老中に贈る礼物・朝鮮人参の調達であった。国中の人参をかき集められ、届けられたのは国書伝達式直前であったという。
 
 副使たちは、着衣まで対馬藩から借りる状態となり、船は廃船となった。やむなく荷物船を副使船として使い、荷物船は対馬藩の船を代用することにした。一か月後、鰐浦を出港しようやく府中に到着した。

 対馬で恒例となっていた「馬上才」が行われた。それを遠くで観覧する雨森芳洲(対馬藩真文役・80歳)の姿があった。白い頬ひげを生やしたその姿を画工・李聖麟が素早く肖像画に描き上げた。

   馬上11
       馬上才曲技の一場面
 
 通信使一行が、江戸に向かって府中を出港したのはソウル出発から4か月が経過していた。
 今回は、通信使随行に対馬藩主・宗義如をはじめ1500余人の男衆と、大小100余隻の船が出航し、島全体がもぬけの殻の状態になったという。

 通信使一行の江戸往還道中における事故・事件は、幕府から案内役・護衛を全て任されている対馬藩が、その責任を負わねばならない。火災事故の直後のことであり、対馬藩はより慎重であった。

 そのため、立ち寄る港で出航日をめぐって、天候を気にして安全第一と慎重な対馬藩と、早く任務を終え故郷に帰りたい使節側との間で船を出す、出さないと論争を繰り返された。

 そして3月17日、府中を出港した通信使の船は壱岐ー相ノ島ー上関ー下蒲刈ー鞆の浦ー牛窓ー室津と長い船旅を経て、ようやく4月20日大阪についた。
つづく
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