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        対馬での 別離

 1720年2月、第9次朝鮮通信使一行は江戸往還を終え対馬に戻った。 道中、苦楽を共にし親交深い雨森芳洲と申維翰の二人、ついに別れの日がやってきた。

  通信使船
      通信使船団 狩野探信画
 
 維翰は『海遊録』の中で、その時の様子を次のように書いている。

 雨森芳洲が船窓にきて相見し、あらためて別れの意をのべた。
 
 余は、筆話の間に、たまたま一聯を書して曰く、
「今夜、心づくしに見送ってくれるあなたに、この世ではもう二度と会えますまい」(今夕有情來送我 此生無計更逢君)

 雨森はこれを見て、声をころして泣きながら曰く、
 「吾、今老いたり、あえてふたたび世間事にあずかることもなく、対馬の土となる日を待ばかりである。なお何を望もうか。ただ願わくは、諸侯は国に帰って朝廷で栄達の道を全うせられてほしい」
 流暢な朝鮮語で語り、涙で頬を濡らした。
 
 余曰く、「もとより君の鉄心石腸たるをしる。今何ぞ女児の態をなす」

 先の通信使のとき、あれほど親しく交わった李東郭(8次通信使製述官)は、すでにこの世の人ではなかった。通信使との出会いは、人生一度きりの交わりであったのである。 

 雨森曰く、「前回の信使の諸侯も相愛の深さは今日の如くであった。名残り惜しい心をどうしょうもなかったが、 しかし、 今回の別離のように涙はなかった。十年このかた、精神と髭髪がすでに老醜となる。古人のいうところの暮境に情弱しとは、けだしかくの如きをいうのであろう」

  厳原港
       現在の対馬厳原港

 こうして二人は対馬の府中厳原の港で別れ、維翰は朝鮮に帰っていった。
 
 芳洲から朝廷で栄達されんことをと見送られた維翰であったが、国を代表する製述官に選ばれるほどの抜群の文才を持ちながら、昇進することなく官位は低いままに終わった。

 朝鮮朝(李朝)の支配階級は両班であった。維翰は、両班出身であったが 庶子であった。朝廷では 嫡庶の差別は厳しく、庶子がたとえ科挙に合格しても官職につくことは難しい時代であった。
 
 申維翰が歴史にその名を残したのは、朝鮮通信使の製述官として、対馬の真文役・雨森芳洲と日本往来を共にし、紀行文『海遊録』を書き残したからである。

  2ぷさん
       現在の釜山港

 一方、 維翰に涙ながらに「今 老いたり、対島の土となる日を待つばかりである」と語った 芳洲は、その後36年を生き長らえた。
 芳洲は、晩年に不朽の名著『交隣提醒』をはじめ幾多の著作を残した。

 二人が残した著作は、江戸中期の日本の事情や日朝関係を知るうえで、なくてはならない文献とされている。つづく
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