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   第8次朝鮮通信使往還
     通信使苦難の旅
 
  1711年8月、 国書の書き換え問題で、出鼻をくじかれた第8次朝鮮通信使一行は、 ソウルを発ってから3ヵ月が過ぎてようやく 対馬府中(厳原)に上陸した。

  通信使の船

 その後、江戸までの道中、先導する対馬藩と通信使のあいだで、新井白石の儀礼の変更をめぐって論争がつづいた。
 
 幕府からの儀礼変更の指示を受けた 対馬藩は、その具体的な内容を通信使に 伝えるだけでなく、通信使三使(正使・副使・従事官)がそれを実行するように説得せねばならない。
 
 従来は、通信使が客舎に輿(こし)に乗ったまま入り、将軍の使者・慰問使が客舎を訪問した場合も、3使が送迎する儀式はなかった。

 ところがこのたびは、使臣が客舎にはいるときは輿から降りなければならない。
 また将軍の使者が客舎訪問した場合は、階下に降りて送迎しなければならない。
 そればかりでなく、宴礼に座る席次が、使臣は島主と向かい合って、慰問使は使臣より上座に座るというのである。
 
 それは使臣たちにとって通信使の格下げを意味し、朝鮮の「国体」を傷つけるものであるため 断じて受け入れがたいと激しく反発し論争がつづいていたのであった。
 
  一方的に強要する 対馬の対応に 使節員たちは、激怒した。
 「今般の使行のすべての手続きは変わることなく前回(1682年)の例に準ずることをすでに決定しており、今中途で変更はありえないことである。これはまさに江戸の使者と決定することなので、汝たちは無駄口をたたく必要はない」と釘を差していた。

  瀬戸内海
       通信使の瀬戸内海航路
 
 こうして瀬戸内海航海中からの論争は、大阪上陸後に持ち越された。
  大阪では、通信使の下官、水夫など139人が残留することになる。彼らは6隻の朝鮮使船のなかですごすことになり、自由に上陸することは許されなかった。
 通信使一行の客舎は大阪西本願寺であった。

    西本願寺
      江戸時代の西本願寺画

 通信使訳官(通訳)と対馬奉行との間で儀礼の変更をめぐって厳しい交渉がつづき、通信使三使に 島主や長老も出向いて説得にあたったが埒があかなかった。その心労のため対馬藩主は病床に臥した。
 
 対馬の江戸家老・平田直右衛門は、刀を抜きちらつかせながら、幕府の方針を受け入れるよう迫った。三使は肝を冷やし、 受け入れざるを得なくなった。

  使臣は、「このことは、きわめて聞き入れ難いが、従うことにした。島主が救いを求めて懇願の悶迫の情を想い、われわれも応じざるをえない。ただこれから先また何らかの従い難い要請があるかも知れなが、決して許すことはない」と強弁した。
 
 使臣たちの受け入れを聞き、病床にあった対馬藩主は、強いて起きあがり感謝のことばを述べた。
 「私はいま救われました。三使の恩徳は死んでも忘れがたい。今後は他盧がないことを保障したい」(副使任守幹著『東搓日記』)
 
 このあと、 大阪城主・土岐頼殷が幕府の慰問使として宿舎にやってきた。使臣たちはやむえず、しぶしぶ、階段を降りて 土岐を 出迎えた。使臣たちの屈辱感と無念の思いはいかほどであっただろうか?
 
 対馬藩は、幕府の指示通りに事がはこびほっとしのであるが、新井白石と朝鮮通信使との挟間にあって、気苦労はその後もつづいた。

  通信行列1
     朝鮮通信使行列 正使輿
 
 一方の通信使の方では脅迫に屈し、「国体」を冒涜されたという責任から逃れることができなくなり、旅の足取りはいっそう重くなったと思われる。
          つづく

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