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    雨森芳洲と 新井白石の対立

  雨森芳洲と 新井白石の二人の関係は、儒学の大家・木下順庵の同門であったことからはじまる。

   木下順庵
          木下順庵像

 二人は、朝鮮通信使の接待礼遇の改革をめぐって対立するようになる。その経過を簡単に記してみる。

 1709年、将軍・徳川綱吉が世を去り、後継者として甲府藩主・綱豊(綱吉の兄の子)が家宣と改名して、六代将軍に就任した。

 徳川家宣が、まず行ったのは悪評の高い「生類憐みの令」を廃止し、人心の一新をはかったことである。
 家宣の政治を支えたのは、木下順庵の推薦により甲府藩の侍講を務めた新井白石 (1657~1725) である。
 
   新井白石
          新井白石像

  一介の儒学者にすぎなかった白石が、将軍の侍講として幕府の実権を掌握する地位にまで出世したのであった。 (参照・朝鮮通信使32)
  白石は、六代将軍・徳川家宣、七代将軍・徳川家継(4才)の時代(7年間)、幕政改革にとりくみ、 「正徳の治」と呼ばれる一時代をもたらした。
 
 幕府は、対馬藩を通じて家宣就任を祝賀する通信使を派遣するよう 朝鮮国に 要請した。
 このとき白石は、 朝鮮通信使の接待礼遇の改革・「聘礼改変」を立案していた。

 その内容の主なものは、次の4つであった。
 1、将軍の称号を「大君」から「日本国王」と復号する。
 2、沿路での饗宴は5か所に限る。(赤間、大阪、京都、 名古屋、駿府)
 3、将軍の慰問使が訪問したとき、使臣は階段を降りて迎える。(これまでは部屋で待つ)
 4、御三家は国書伝令式、饗宴に隣席しない。

 白石は、この改革で「和平・簡素・対等」を期すると言いながら、実際には幕府の権威を高め ることに比重をおき 、通信使にたいする礼遇の格下げを意図したものであった。
 
 これを知った、対馬藩の外交担当の雨森芳洲は、白石に手紙をおくり抗議した。

     芳洲
         雨森芳洲像

 「通信使に対する豪華なもてなしを改変する案には同意するが、 先例をいきなり破って簡素化するのは非礼すぎる。 日本は朝鮮国とちがって中国の冊封下にない。また、これまで日本国王と称したこともない。それに、「日本国王」の称号は、天皇の尊号を犯すもので不敬ではないか」という内容のものであった。
 
芳洲は、白石よりはるかに朝鮮のことをよく知り、朝鮮との交隣外交の第一線で活動していた専門家である。
 
  条理を尽くした芳洲の声に、 幕府の権力者となった白石には聞く耳をもた なかった。
 
  白石は「対馬の国にいるなまくら学者にわかるはずもなく、ああだこうだなど言う」(白石自伝『折たく柴の木』)というはげしい言葉を投げ返したのであった。

 もともと二人は、順庵の門下の同輩として、きわめて近い関係にあった。白石は年齢的には芳洲より11才うえの先輩であった。それ以上に、白石は幕府の威を借りて傲慢になっていた。

 この頃の白石は、 自らが主張することに、誰が何を言って反対しても臆することなく押し通し、最後には「上様の御意」で反対意見を封じていた。

 芳洲は、将軍の側近であるといえども、傲慢な白石に対し「詭弁を弄する暴戻(ぼうるい)の儒」(『 俗儒三種』) と痛烈な批判をあびせた。
 
 その後も芳洲と白石は深刻な論争をくり広げ、 互いに譲らず 対立は最後まで解消されなかったと伝えられている。
 
  通信使に関する交渉は対馬藩を通じて行われる。対馬では、白石の改革を朝鮮側に伝えなければならない。
 
  1711年、 六代将軍・徳川家宣の就任を祝う、 第八次朝鮮通信使一行は 、 白石の「改革」を知らないまま、ソウルを出発し、釜山で対馬に渡る風を待っていた。

  倭館1
       釜山にあった倭館の風景

 そのときになって対馬から使者がやってきて、国書の宛名を「日本国大君」から「日本国王」に変更・復号してほしいと、通告してきたのであった。
 「日本国大君」の名称は、「柳川事件」(参照、朝鮮通信使)の教訓から幕府側から提案され、朝鮮側が受け入れたものであった。そして、朝鮮通信使 5次(1645年)、6次(1655年)、7次(1682年)使行において 「大君」の名称で 国書の交換が行われ恒例となっていた。
 
 通信使らは、国書の書き換えの一方的な通告に激怒し、朝廷に通知した。

 朝鮮王・粛宗は、「大君の称号を使ってもう77年も経っているにもかかわらず、思いがけず復号とは、重大なことで頑なにしりぞけねばならないので、議政府(行政の最高機関)に回して審議せよ」と命じた。

 王命にしたがって、朝鮮朝廷内で激論がたたかわされた。日本との交隣関係を維持する立場から、もともと「日本国王」名を求めたこともあり、「彼らの操りに引きずり回されてるというが、国書でも改まるべきであれば改める方がよい」との意見が出て、王がこの意見に賛成し国書が書き改められることとなった。

    2ぷさん
        現在の釜山港の風景

 こうして国書問題は解決をみたが、対馬藩は白石の「聘礼改革」の具体的な内容を朝鮮側に伝えていなかった。
 
 そのため、八次朝鮮通信使の 日本往還 は、前後12回のなかで最も苦難を強いられる旅になった。
 つづく

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