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    雨森芳洲の国際感覚


 雨森芳洲(1668~1755)は、 江戸時代中期の日本を代表する儒学者であり、対馬藩の外交官として「誠心外交」を貫き、日朝の 善隣友好のために献身した国際人でもあった。

     芳洲
        雨森芳洲 画
 
 芳州が晩年、対馬藩主・宗義倫(よしつぐ)に提出した著作・ 『交隣提醒』(こうりんていせい) から、彼の外交における基本的な考え方と国際感覚について記してみる。(参照・朝鮮通信使9)

 芳洲は、1668年、現滋賀県長浜市高月町雨森町の医者の子として生まれた。

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     雨森芳洲庵  長浜市高月町

 1679年、12歳の頃から京都で医学を学び、18歳のとき江戸に出て儒学者・木下順庵門下に入った。
 同門の新井白石、室鳩巣、祇園南海らとともに秀才を唱われ、「文は芳洲、詩は白石」と称されるほど文章が秀逸していた。師の順庵は、芳洲を「後進の領主」と称賛したという。
 
 当時、朝鮮貿易で潤沢な財力をもつ 対馬藩は、優秀な人材を求めた 。木下順庵の推挙により芳洲は、22歳で対馬藩の真文役(朝鮮外交の文章作成、通信使接待役)となった。2年後、長崎で漢文能力向上のため中国語を学び対馬に赴任した。
 芳洲は、藩の文教をつ司るかたわら、藩主の御用人を務め、朝鮮外交の先頭にたって活躍した。

 1702年、36歳のとき初めて朝鮮の釜山へ渡り、倭館に滞在しながらハングル(朝鮮語)を学んだ。
 当時は、朝鮮の儒学者・文人たちは、漢字・漢文を重要視し、ハングルは「下等」な文字と考えていた。しかし、芳洲は「ことばを知らず如何に善隣ぞや」と進んでハングル学習にとりくみ、朝鮮語で自由自在に会話するようになったという。

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       雨森芳洲庵 展示室内

 芳洲は、朝鮮側の日本語辞典「倭語類解」の編纂に協力するとともに、日本人として初めて日朝会話集など16冊の朝鮮語入門書『交隣須知』(こうりんすち)を 著した。
 
 芳洲は、外国の言語、文化を学ぶことについて、
 「異なった文化は本質的に平等で、民族間に文化上の優劣はなく、それぞれの民族にとってかけがえのないものであると考える。そして外交にあたっては、国や民族によって風儀や嗜好も異なるので、こちらの尺度だけで相手を測ってはならず、相手の風儀がこちらとちがっているからといって、それを低く見てはいけない。相手の国の歴史、風土、考え方、風習、人情や作法などをよく理解し、お互いに尊重しあって、おつきあいすべきだ」と述べている。
 
  外国との交流で必要なことは、いかに緊密な信頼関係を築くかにあるが、芳洲はそれに加えて「異国文化への理解と尊重も重要である」と主張した。
 
 芳洲が説いた「相手をよく知り、互いの違いを認め合う」ということは、今日の「異文化理解」「多文化共生」時代に相通じるものであろう。
 
 そしてまた芳洲は、国際関係においては平等互恵を宗とし、外交の基本は「誠心」(誠意と信義)にあるとし、
 「誠心の交わりということ、人々がいうが、その多くは字義をはっきり理解していません。誠心というのは、まことの心ということであって、互いに欺かず、争わず、真実をもって交わることこそ、まことの誠心である」と 「誠心の交わり」を熱く説いた。
 
 芳洲は、このような考えに基づいて、 8次、9次朝鮮通信使に対馬藩真文役として随行し、 江戸往来の過程で使節員と意見を交換し、日朝間にあるわだかまりを払しょくするため忍耐強く努力し、 「誠心の交わり」を実践したのであった。

 芳洲は、単に対朝鮮外交だけでなく、強大国である中国との関係についても対等、平等な外交姿勢を明らかにしている。
 「国と国にははじめから優劣は存在しない、中国だからといって、すべてが優れ、他の国のすべてが劣っているわけではない。国に尊卑があるとすれば、そこに住む人、一人一人の人間の器量や、風俗の善し悪しに拠るべきである。たんに中国に生まれからと誇りにすることはまちがっているし、たとえ夷荻と呼ばれる後進国(日本)に生まれたとしても、なんらそのことを恥じる必要はない」と述べている。

  雨森碑
      雨森芳洲顕彰碑 対馬厳原

 今から300年も前に、 国と国の国家関係に大小、上下、優劣はなく、対等・平等であると 明快に 主張した芳洲の国際感覚に感動させられる。

 芳洲の「誠心の交わり」の外交思想は、国際化した現代社会においても指針となり得る先進的な国際感覚ではなかろうか。

 彼は多くの朝鮮文人と交流し、雨森東(ウ・サンドン)という朝鮮名で親しまれたという。
 倭館で交流を深めた 朝鮮人 ・玄徳閏(ヒョン・トクュン)、玄錦谷(ヒョン・クムコク)らと生涯の友人であったと伝えられている。

  雨森の墓
       雨森芳洲の墓 対馬長寿院

 1984年、芳洲の生家跡( 長浜市高月町)に設立された「東アジア交流ハウス雨森芳洲庵」の案内板に、
 「芳洲は、88歳という高齢で対馬で天寿を全うしたが、その生涯は、日朝友好の架け橋を渡した先駆者として光り輝いている」と 書いてあった。
 つづく
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