FC2ブログ
    洪寓載が見た日本の風景

 洪寓載(ホン・ウジェ)は、7次朝鮮通信使(1682年)の従事官に随行した堂上訳官・ 日本語 通訳 (倭語 訳官 )である。

  朝鮮 通信使のリーダーたち、正使、副使、従事官の 三使が 、自らの任務を無事に果たすためには、随行補佐役である堂上訳官の通訳能力と外交力が必要不可欠であった。

  大英博物館
      朝鮮通信使図 大英博物館蔵

 通信使三使は毎回交替するが、交隣外交の持続性を実務的に支えたのは訳官たちであった。

 堂上訳官は、単なる通訳だけではなく、外交官として行事、儀礼、外交上の諸問題の調整・交渉の実務を行った。 今の外務次官級の役割が課せられていたと思われる。

 日本の儒者や文士との三使の筆談唱和は、通訳を介して行われ、三使が出る必要のない人々に対しては、製述官(文才のある学士)や堂上官通訳が対応したものと思われる。
 
 当時の朝鮮国(李朝)では、堂上訳 官も官吏登用の国家試験・科挙に合格しなければならなかった。
 
 洪寓載が通信使の日本語通訳として来日したとき、堂上官の正三品の位階であったこと、従事官付きの首席通訳であったことから、彼の日本語能力は相当なものであったと思われる。

 また、彼は歴代訳官を務めた 南陽洪氏家門の出身であった。
 
 祖父の洪汝雨は、5次(1643年)、6次(1655年) 通信使の使行 に随行し、伯父の洪喜男もまた4次(1634年)、5次、6次の使行に随行した通訳であった。
 
 7次朝鮮通信使が、琵琶湖畔の朝鮮人街道(滋賀県野洲・近江八幡・彦根)を通過するとき、祖父や伯父を接待したことのある近江州の戸塚左大夫(78歳)が、 洪寓載の許を訪れた。

  街道コース


 洪寓載は、朝鮮から持参した土産を戸塚に贈り、帰路には戸塚から日本の土産を貰ったという。いかなる土産物の受け渡しがあったのか?そして如何なる会話が交わされたのか?定かではない。

  朝鮮街道2
     朝鮮人街道  滋賀県野洲付近

 しかし、お互いに 懐かしい人と 久しぶりに会ったかのような親近感に包まれたと思われる。

 洪寓載は、ソウル出発から江戸往還の 使行日記・『東 槎 録』を書き残した。
 
 それまでの使行録は、風物詩や使臣の活躍を称賛するような記録が多かったが、洪寓載の『東 槎 録』は実務的な記録が多い。それだけに先入観を挟まず、 日本の風景を見たままを書き綴った。
 
  洪寓載の 『東 槎 録』 の中から、大阪、京都、江戸の三都について書いた部分をとり上げて見る。

大阪では、
 「出迎えるごとく高さが揃った各家の軒が続いて一里にもなっており、すべての物が繁華であり人の目をかすませた。地は広く人は多く城楼と海関は険しく堅固で一国第一の名勝地と言うべきである」と書き、

京都では、
 「本国寺(6条堀川、現西本願寺とその周辺)で旅装を解いた。寺舎は素晴らしく広大で、1万人も収容できるほどで、仏殿も華麗で木閣が翡翠色であった。五層の楼台から京都を見下ろすと、沃野が千里を及んでおり、幽邃(ゆうすい)な景色がさまざまであった」と書いた。

江戸に到着すると、
 「村の家等が相当に多く、すべて物が繁華であり、左右の店屋に品物等が山のように積まれていて、長い商店街には暖簾をたらして雲のような絹織物が照り映えていた。夕方に江戸二里半に至り、使臣は本誓寺に居所を定めた」と書き綴った。

  DSC_5104.jpg
      朝鮮通信使江戸入場図

 いずれも、 三都のありのままの風景を描き、品物の豊富さと その繁栄ぶりに感嘆し ている。
 
  豊臣秀吉侵略軍(1592~1598)に 国土が 蹂躙され荒廃してから80年余が経過し、ある程度の回復は見たが、朝鮮はまだまだ人不足、品物不足、経済的苦難がつづいていた。  

 洪寓載の 『東 槎 録』は、日本の繁盛ぶりを 素直に書いているが、暗に、 当時の朝鮮の状況を 物語っているように思えてならない。

  洪寓載の『東 槎 録』 は、先行の通信使の記録をよく勉強し、日本語の専門家として 日本を客観的に観察し、親近感を抱きながら誠意をもって日本人と接した外交記録となっている。

 洪寓載が評価されるのは、外交において相手方を尊重することを強調しながら、これまでの外交の反省すべき点を 具体的に示 し、交隣外交に臨む朝鮮の姿勢を正したことである。

   楽隊
       朝鮮通信使楽隊と荷役夫

 洪寓載の 『東 槎 録』は、17世紀末・江戸時代初期の日朝関係や日本の風物、経済・社会状況を知る上で、貴重な資料となっている。
Secret

TrackBackURL
→https://tei1937.blog.fc2.com/tb.php/636-434daeb3