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     朝鮮貿易の盛況・対馬の繁栄

 17世紀前半、中国大陸は明・清の交代期で、東アジアは混乱状態がつづいたが、後半になると安定をとりもどし、日朝間もこれといった特別な問題はなく平和に推移した。

  対馬1
       日朝交流の仲介の地・対馬

 東アジアの安定は、財政を交易に依存する対馬にとって、朝鮮と日本間の仲介貿易を拡大する好機となった。
 
 この時期の1657年、対馬藩主・宗義成が亡くなり、義真(よしざね1639~1702)の治世となった。
 19歳で島主となった義真は、藩政を改革し、朝鮮貿易(倭館貿易)に力を注いだ。

  宗義真
       対馬3代藩主 宗義真 
 
 対馬藩は、日朝間の外交、交易の窓口である釜山の倭館が狭くて不便であったため、以前からその移転を朝鮮側にくりかえし要望していた。
 1678年、ついに朝鮮朝廷は、要望を受け入れ豆毛浦から草梁に移転した。新しい倭館の敷地10万坪は、長崎出島(中国、オランダ貿易)の25倍の広さであった。倭館には対馬から、藩士、役人、商人、実務担当者ら常時500~1000人が滞在していたという。(参照;朝鮮通信使9)

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         釜山草梁倭館図
 
 対馬藩の朝鮮貿易(倭館貿易)には公貿易と私貿易があり、他に外交儀礼にしたがって行われる物品の贈答があった。

 公貿易は、日本から銀、銅、胡椒、丹木(染料)、煙草などを輸出された。対馬藩は、日本になかった胡椒、丹木を幕府の優遇処置により長崎から仕入れた。
 
 朝鮮側は木綿でこれを買い上げる方式で行われた。江戸時代初期、日本では木綿の生産ができなかったので朝鮮の木綿は珍重された。

 私貿易は、倭館の開市大庁(かいいちだいちょう)で、毎月3と8のつく日、つまり月8回、朝鮮商人と対馬の商人、役人、使者らとの間で個人取り引きで行われた。
 対馬藩は、この私貿易を組織的に取りくんだという。
 
 対馬の朝鮮貿易は、「人参貿易」といわれるほど朝鮮人参は珍重品であった。朝鮮人参は高麗人参とも呼ばれ、万能薬として大評判であった。
 当時の人参はすべて野生のもので、その輸入量は年によって変動があった。

  人参
        朝鮮(高麗)人参
 
 朝鮮人参は、おもに江戸で屋敷売、問屋売、小売の方法で販売されたが、大半は、座売りの方法で対馬藩による専売であった。その後京都、大阪でも販売されるようになった。
 
 人参とともに、対馬が収益をあげたのは生糸、絹であった。輸入された生糸、絹は京都河原町通三条辺りにあった対馬藩邸に運ばれた。藩邸を拠点に、生糸、絹は西陣の織物職人の手によって高級な絹織物に仕立てられ大阪、江戸の富裕層に売られた。
 
 人参、生糸、絹仕入れの代価は銀であった。対馬藩は、この輸出銀を京都で調達し、それを淀から船で大阪、瀬戸内海を軽由して対馬に運び、ついで「後銀船」という専用船で倭館に運んだ。
 
 朝鮮の商人は、倭館の大開市で生糸の代価として銀を手に入れ、燕行使(北京・清朝への朝貢使)に随行し、銀を元手に生糸、絹を仕入れていた。 
 こうして、日本で生産された大量の銀が朝鮮を経由して中国に輸出された。

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       燕行使ルート(ソウルー北京)

 倭館を拠点にして、対馬商人と朝鮮商人が京都ー対馬ー倭館(釜山)ーソウルー北京の間を、人参、生糸・絹と銀を運びながら頻繁に往来したのであった。

    P9254491[1]
     朝鮮通信使(ソウルー対馬ー江戸)
 
 このルートは、大陸を横断する絹の道・「シルクロード」と呼ばれているが、京都から対馬、釜山へ海を渡り、朝鮮半島を経て北京まで銀の道・「シルバーロード」が形成されていたとも言えるだろう。

 宗義真は、対朝鮮貿易の好況を背景に藩の政治改革を断行し、職制整備、府中(厳原)の道路、港の整備、農地整備、銀山開発など促進した。この時期、浅茅湾の奥と対馬東海岸を結ぶ水路・大船越瀬戸が初めて開削された。
 
 義真は、木下順庵門下の雨森芳洲、陶山純翁など学者を招聘し、人材養成の藩校を設置した。また対馬や宗家の歴史に関する書物を編纂するなど文教政策にもいそしんだと言う。

 3具足
   朝鮮王から贈られた三具足 宗家所蔵
 
 そして、幕府によって対馬藩は、表高2万石格から10万石格の国持大名に準じる格式で扱れるようになった。

 17世紀後半~18世紀前半、対馬藩は、釜山倭館を拠点とする朝鮮貿易によって莫大な利益を上げ繁栄した。まさに対馬の黄金時代であった。
         つづく
 
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