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      第4次、朝鮮通信使
          通信使の日光遊覧

   日光1
               日光
  

 徳川幕府は、四回目の朝鮮通信使派遣を要請するにあたって、国書改ざん事件(柳川事件)を教訓に朝鮮外交の方針を変更した。

 1、朝鮮国は、日本の将軍のことを「日本国大君」と称すること(これまでは「日本国王」だった)、
 2、日本は日本年号を使用する(これまでは干支)、
 3、朝鮮国は、将軍からの先為国書を条件としないこと(将軍の国書に答える形式)、
 幕府は、これらの方針を対馬藩を通して朝鮮国に伝え、通信使の派遣を要請した。
 日本側の一方的な方針転換に朝鮮側の反発が予想されたが、難色をしめしながらも受け入れた。

 朝鮮側の受け入れは、明に変わって強力となった清の軍事的脅威に対抗するために、日本と安定的な関係を維持する現実的対応に迫られていたからであった。
 
 使節団の名称を、これまで戦後処理のための「回答兼刷還使」を変え、室町時代に使われた伝統ある「朝鮮通信使」に戻した。
 朝鮮通信使とは、日朝両国の「信(よしみ)を通い合わせる」使節の意味で使われた。
 
 そして、4回目の朝鮮通信使から征夷大将軍の称号を「日本国大君」を用いて、「泰平の賀」を目的にした新たな日朝間の公式外交の開始となった。

1636年、10月に朝鮮通信使一行・478人は釜山を出発、12月に江戸に到着した。

  入城図
     朝鮮通信使江戸城入城(屏風)

 江戸に到着した通信使一行に対して、「柳川事件」で敗訴した柳川調興側の老中土井利勝や林羅山ら幕府内不満組は、きびしく当たり、冷たかった。

 彼らは、朝鮮通信使の招へい交渉失敗による宗義成の政治的失脚を狙ったが、交渉が成功したため、やってきた使節団にたいし陰に陽にいちゃもんをつけ、冷遇したのであった。

 林羅山は、朝鮮使節の品階が低いと難クセをつけ、訳官・洪喜男と言い争いになった。
 その様子を正使・任統(イムトン)は、『丙子日本日記』に
 「洪喜男が道春(林羅山)と論争しているとき、義成がかたわらにいて、顔色が蒼白となり、たちまち狂ったようになって、身を支えることが出来ず、3,4回も鼻血がほとばしり出て、きわめて切迫した状態でありました。関白(将軍家光)は使臣の一行をはなはだ喜んでいるけれども、執政(老中)や諸将は皆、不平をいだいていた」と記した。

   本誓寺
    本誓寺 朝鮮通信使宿泊所  東京

 そんな状況のなかで、将軍家光の意をうけた宗義成が使節団を訪ね「日光山参詣」を要請したのであった。

 家康の遺言により二代将軍秀忠は、久能山にあった家康の遺骨を日光山にうつした。三代将軍家光は、秀忠が造営したすべての社殿を大々的に建て替え、第4次朝鮮通信使一行が到着する直前、華麗な東照宮を完成させた。

 家光は、幕府の威信を海外にたかめ、徳川家の権威と権力を誇示するためにも、どうしても、これを通信使一行に見せたかった。
 
 使節たちは、とつぜんのことで、前例にない、国王の命を受けていないと断固拒否した。

 「柳川一件」の不満組は、義成がもし説得に失敗すれば、義成の無能力と決めつけ、追い落とそうとしていた。

 家光の裁決で生き残った義成自身も、通信使一行の日光行き説得が不成功なら失脚もあり得ると覚悟していた。

 宗義成は、拒否されながらも通信使一行の日光行きを粘り強く説得した。

 義成は、文化や宗教が異なる朝鮮使節に、参詣が無理ならせめて遊覧(観光)に行ってほしいと懇願した。
 
 正使任統は、「いわゆる遊覧とはどこか知らぬが、我らの厳しい日程には限りがあって、滞留することはできない」とやや軟化する兆しをみせた。

 義成は、「日光はわが国の名山であり、二,三日かかるだけといい(実際は最短八日)、関白(家光)が、もし使臣の言を聞かれたらどうして心が物寂しくないことがあろうか」と必死に説得したのであった。

 義成は、使節団三使に「主人の家が火事になったのに、客がこれを救わないのが、どうして人情といえるでしょうか」と訴えた。

 さすが任統も態度をゆるめ、三使は協議して、国書の奉呈後の日光遊覧を承諾した。

 正使任統は、義成の置かれた立場に同情と理解を示したものであった。
 
 義成は、家光の感謝のことばと同時に、つぎのような幕閣内の内情を語っている。
 「私が出て来るとき、大君(将軍)は左右の者を退けて、私にいわく、今日の事は私にとって光栄であるばかりでなく、汝にとっても幸いである、と
おおよそ私の味方は掃部(井伊直孝)、讃岐(酒井忠勝)などの若干名です。調興の党には大炊(土井利勝)や以下道春(林羅山)など執権の輩でないもはなく、もし(日光遊覧の)要請を受けてくれなかったら、大炊たちが無理をこじつけて、必ず不測の事件を起こしたでしょう。
 だから大君も私をして懇切に要請させ、幸いにいま承諾をえたことは、私にとってさいわいです。これからはすべての事が順調になり、調興の党もまた委縮するでしょう」(任統著『丙子日本日記』)

 この交渉過程で対馬藩使・藤智縄と通信使の訳官・洪喜男はお互いの内部事情を語り合い、水面下の交渉をつづけていたとされている。

 日光遊覧に出発する前日、江戸城の大広間で国書伝令式と接待宴が盛大におこなわれた。

 1636年12月、通信使一行は、一部使節員を江戸に残し、厳冬の寒さ厳しい中日光遊覧に出発、春日部ー小山ー宇都宮ー今市ー日光のコースを10日間かけて往復した。一行は、陽明門から東照宮まで遊覧したが、中門内に入り焼香はしなかった。朝鮮では仏教は禁じられていた。

  東照宮所蔵
    東照社演技絵巻 東照宮所蔵


  陽明門2
         日光東照宮 陽明門

 江戸に残った良医、軍官、楽士馬上才等は、家光の所望で医術を伝え、朝鮮音楽を奏で、馬上才曲芸演技を披露していた。これらの人たちは、特に幕府からの要請によって加わってきた文化使節団であった。家光は馬上才を2度も観覧したという。

 予定になかった朝鮮通信使一行の日光遊覧は、お互いの文化を尊重しつつ、「遊覧」という政治的妥協によって、日朝間の友好関係を深める一大イベントになった。
 
 第5次、6次朝鮮通信使も日光東照宮を訪れ、朝鮮国王の祭文を読み上げて、正式な朝鮮式祭祀を行った。祭祀で使われた祭文、三具足(香炉・燭台・花瓶)、幣帛など遺物が、東照宮の宝物として大切に保管されているという。

   三つ具足
        三具足 東照宮所蔵

 朝鮮通信使の日光遊覧は、徳川幕府と朝鮮朝廷の関係を緊密にして、日朝の善隣友好関係を一層深める契機となった。
                  つづく
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