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2018.07.28
朝鮮通信使17
対馬藩外交僧・玄方のソウル訪問

朝鮮朝王宮 景福宮興禮門 ソウル
1626年、中国東北部全域を制圧した女真族ヌルハチの後金は、ついに朝鮮に侵略を開始した。朝鮮側は抗しきれず、平壌まで占領された。
滅亡を憂いた16代王・仁祖は、後金が要求する「兄弟の盟約」(後金が兄・朝鮮が弟)と王子を人質として後金に送るという条件を受け入れ、屈辱的な講和を結んだのであった。(丁卯͡故乱=ていぼうこらん)
この出来事は、ただちに釜山の倭館から対馬藩に伝えられ、徳川幕府に急報された。
翌1628年、幕府は対馬藩主・宗義成を呼び、使者をソウル(漢城) に派遣して、正確な北方情勢をつかんで来るように命じた。そして「朝鮮国が望むなら、徳川幕府は援軍を送る用意がある」と言い添えた。
宗義成は、外交僧・玄方を正使、家老の杉村采女を副使とする、日本国王使を名乗らせて派遣した。
玄方(1588~1661年)は、対馬藩の対朝鮮外交を担い、日朝関係改善に活躍した玄蘇の後継者。臨済宗の僧侶。無方規伯、方長老とも呼ばれた。
1629年、玄方使節団一行25人が釜山に渡った。この時は、将軍の国書も、偽造国書も持って行かなかった。
そして、玄方は、ソウルへの上京を認めてほしいと朝鮮側に訴えた。

朝鮮王宮 景福宮全景 ソウル
朝鮮王朝は、豊臣秀吉による朝鮮侵略以来、日本人のソウルへの上京を許可していなかった。もちろん、玄方らの上京も絶対認めない方針であった。
それでも玄方は、釜山の倭館に滞在しながら、執拗にソウルへ上京したい旨を訴え、粘り強く交渉をくりかえした。
すると、朝廷の中から「北方の難のおり、南方の対日関係だけは円満にしておくことが無難ではないか、今回に限って例外的に認めたらどうか」と意見が出された。
しばらくして、倭館の玄方に上京を許す知らせが届いた。
朝鮮側は、北方国境は緊迫した状況下、南辺の日本との友好関係・安定を保つために、やむを得ず玄方一行のソウル上京を例外的に認めたのであった。
江戸時代の260年間で日本人のソウル訪問は、後にも先にもこの一回限りであった。

釜山からソウルへの上京経路
玄方は、従者8人をつれてソウルに上京し、慶福宮(王宮)において国王・仁祖に謁見した。
玄方は、朝鮮側に軍事援助をふくめて支援したいとの徳川幕府の意思を伝えた。
その他に、玄方は、木綿600同を支給してほしいと、対馬藩独自の要求をしたのであった。
その頃の木綿は、日本では貴重品であった。
三年前に朝鮮朝廷は、貿易特権を持つ対馬藩家老・柳川調興に木綿600同を与えたことがあった。
対馬藩では、数年前から宗義成と柳川調興の2派に分かれて、確執が激化していた。
朝鮮朝廷としては、ここで宗氏側に認めると、また柳川氏側からも要求してくるだろうから、玄方の要求を断ることにした。
それを伝え聞いた玄方は、怒りを露わにして藩主宛の書契も受けとらず、ひき止めるのもきかず、雨の中をソウルを後にした。
玄方のはげしい怒りと強引な行動に両班(官僚貴族)たちは仰天した。日本の使節を怒らせ、使節がソウルを発ってしまったことで動揺した朝廷は、方針を変え、宗氏にも木綿を与えることにしたのであった。
潔い行動力を吉とする日本の武士階級と、礼儀節度や形式にこだわる朝鮮の両班階級との交渉術の違いを見せつけた場面ではなかろうか!?
玄方の芝居じみた演出に朝鮮側は一本取られた格好になったと思われる。
釜山の倭館において送別の宴席が設けられた。この席で礼曹(外務省)から対馬藩主にあてた書契が玄方に手渡された。
書契には、「日本の軍事支援はお断りする。また、今回の上京許可は特別なこととし、以後、前例としないように」と書いてあった。
そして玄方に木綿が支給された。

景福宮 光化門 ソウル
玄方使節団一行は、ソウルを訪問して、朝鮮朝廷から直接に北方情勢を得るという目的をはたし、任務を終え無事帰国した。
1630年、対馬藩主・宗義成は、玄方を伴って帰朝報告のため江戸に参府した。
幕府は、対馬藩の外交能力を高く評価し、宗氏に対する信頼を深めた。
玄方の朝鮮訪問の成功と幕府の信頼を得たことで、宗義成は柳川調興に対して、自信と優越感をもつようになった。
玄方のソウル訪問をきっかけに、藩主・宗義成と家老・柳川調興の対立は一層深まり、ついには対馬藩の命運をかけるお家騒動・大事件(柳川事件)が起こることになった。
つづく

朝鮮朝王宮 景福宮興禮門 ソウル
1626年、中国東北部全域を制圧した女真族ヌルハチの後金は、ついに朝鮮に侵略を開始した。朝鮮側は抗しきれず、平壌まで占領された。
滅亡を憂いた16代王・仁祖は、後金が要求する「兄弟の盟約」(後金が兄・朝鮮が弟)と王子を人質として後金に送るという条件を受け入れ、屈辱的な講和を結んだのであった。(丁卯͡故乱=ていぼうこらん)
この出来事は、ただちに釜山の倭館から対馬藩に伝えられ、徳川幕府に急報された。
翌1628年、幕府は対馬藩主・宗義成を呼び、使者をソウル(漢城) に派遣して、正確な北方情勢をつかんで来るように命じた。そして「朝鮮国が望むなら、徳川幕府は援軍を送る用意がある」と言い添えた。
宗義成は、外交僧・玄方を正使、家老の杉村采女を副使とする、日本国王使を名乗らせて派遣した。
玄方(1588~1661年)は、対馬藩の対朝鮮外交を担い、日朝関係改善に活躍した玄蘇の後継者。臨済宗の僧侶。無方規伯、方長老とも呼ばれた。
1629年、玄方使節団一行25人が釜山に渡った。この時は、将軍の国書も、偽造国書も持って行かなかった。
そして、玄方は、ソウルへの上京を認めてほしいと朝鮮側に訴えた。

朝鮮王宮 景福宮全景 ソウル
朝鮮王朝は、豊臣秀吉による朝鮮侵略以来、日本人のソウルへの上京を許可していなかった。もちろん、玄方らの上京も絶対認めない方針であった。
それでも玄方は、釜山の倭館に滞在しながら、執拗にソウルへ上京したい旨を訴え、粘り強く交渉をくりかえした。
すると、朝廷の中から「北方の難のおり、南方の対日関係だけは円満にしておくことが無難ではないか、今回に限って例外的に認めたらどうか」と意見が出された。
しばらくして、倭館の玄方に上京を許す知らせが届いた。
朝鮮側は、北方国境は緊迫した状況下、南辺の日本との友好関係・安定を保つために、やむを得ず玄方一行のソウル上京を例外的に認めたのであった。
江戸時代の260年間で日本人のソウル訪問は、後にも先にもこの一回限りであった。

釜山からソウルへの上京経路
玄方は、従者8人をつれてソウルに上京し、慶福宮(王宮)において国王・仁祖に謁見した。
玄方は、朝鮮側に軍事援助をふくめて支援したいとの徳川幕府の意思を伝えた。
その他に、玄方は、木綿600同を支給してほしいと、対馬藩独自の要求をしたのであった。
その頃の木綿は、日本では貴重品であった。
三年前に朝鮮朝廷は、貿易特権を持つ対馬藩家老・柳川調興に木綿600同を与えたことがあった。
対馬藩では、数年前から宗義成と柳川調興の2派に分かれて、確執が激化していた。
朝鮮朝廷としては、ここで宗氏側に認めると、また柳川氏側からも要求してくるだろうから、玄方の要求を断ることにした。
それを伝え聞いた玄方は、怒りを露わにして藩主宛の書契も受けとらず、ひき止めるのもきかず、雨の中をソウルを後にした。
玄方のはげしい怒りと強引な行動に両班(官僚貴族)たちは仰天した。日本の使節を怒らせ、使節がソウルを発ってしまったことで動揺した朝廷は、方針を変え、宗氏にも木綿を与えることにしたのであった。
潔い行動力を吉とする日本の武士階級と、礼儀節度や形式にこだわる朝鮮の両班階級との交渉術の違いを見せつけた場面ではなかろうか!?
玄方の芝居じみた演出に朝鮮側は一本取られた格好になったと思われる。
釜山の倭館において送別の宴席が設けられた。この席で礼曹(外務省)から対馬藩主にあてた書契が玄方に手渡された。
書契には、「日本の軍事支援はお断りする。また、今回の上京許可は特別なこととし、以後、前例としないように」と書いてあった。
そして玄方に木綿が支給された。

景福宮 光化門 ソウル
玄方使節団一行は、ソウルを訪問して、朝鮮朝廷から直接に北方情勢を得るという目的をはたし、任務を終え無事帰国した。
1630年、対馬藩主・宗義成は、玄方を伴って帰朝報告のため江戸に参府した。
幕府は、対馬藩の外交能力を高く評価し、宗氏に対する信頼を深めた。
玄方の朝鮮訪問の成功と幕府の信頼を得たことで、宗義成は柳川調興に対して、自信と優越感をもつようになった。
玄方のソウル訪問をきっかけに、藩主・宗義成と家老・柳川調興の対立は一層深まり、ついには対馬藩の命運をかけるお家騒動・大事件(柳川事件)が起こることになった。
つづく
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