| Home |
2018.03.16
朝鮮通信使6
祖国を救った義兵隊
1392年、朝鮮王朝〔李朝)が成立してから200年が経過し、敵対する外勢もなく泰平のうちに王の世襲が行われ、14代宣祖王〔1568~1608)の時代となった。
1592年、秀吉軍は突如として朝鮮に上陸し、たちまちにしてソウル(京城)、ピョンヤン(平壌)を落し、一時期、朝鮮半島全域を占領した。
宣祖王は、中国との国境・鴨緑江の畔義洲まで逃亡したが、かろうじて国内にとどまり明に援兵を求めた。まさに朝鮮国 滅亡の危機に瀕していた。

秀吉軍の前線基地 名護屋城
それにしても、
なぜ、このような状況に陥ったのか?
なぜ、秀吉軍の侵略が予見できなかったのか?
秀吉の無謀な要求を突きつけられた通信使たちは、 帰国後、秀吉軍が襲ってくる危険を報告しなかったのか?
なぜ、秀吉軍の上陸をやすやすと許したのか?
なぜ、緒戦において敗退を重ね、国土を蹂躙されたのか?
国防軍の装備、戦闘力はどうなっていたか?
朝鮮王朝は、いったい何をしていたのか?
筆者は、このような疑問を漠然と持っていたのであるが、今回、朝鮮通信使の勉強をはじめて、ようやくその疑問が少し解けてきた。
朝鮮王朝は、儒教・朱子学を国家統治の理念とする中央集権国家であった。
王を頂点とする両班〔文班・武班〉官僚集団が国を支配統治していた。
文武両道であるべき 官僚両班体制であったが、儒教的序列主義は文人が優位で、武人を卑しみ軍事は軽んじる風潮があった。
朝鮮朝成立時は、倭寇の頻繁な侵略・略奪を防ぐため軍事力を強化したが、200年の泰平は、腐敗と退廃を生み、両班たちは栄華に慣れ、権力の座と反対派の動きに目をうばわれるだけで、国の危機意識は極限までに低下していた。
秀吉が、大陸侵略の前線基地となる名護屋城(佐賀県)を築き、戦乱で鍛えられた武将・大名たちを集め着々と出兵準備を急いでいた頃、
朝鮮朝廷内は、儒教を信奉する士林派官僚集団が東人・西人の2派に分かれて権力争い〈党争〉に明け暮れていた。
日本に派遣された正使・黄允吉は西人派、副使・金誠一は東人派に属していた。
1591年、帰国複命の席上で正使・黄允吉は「秀吉は恐ろしい人物であり、必ず朝鮮に兵を出すだろう」と警告したのに対し、
副使の金誠一は、「それは人心を動揺させる説であり、そういう兆候はない。秀吉は恐れるに値しない」と正反対の意見・「楽観論」 を主張した。
通信使の派遣時は西人派が実権を握っていたが、帰国したときには東人派が優勢であったため、副使金誠一の「楽観論」 が採用されたのであった。
士林派内の権力争いは、国の存亡に関わる問題までも「政争の具」にすぎなかった。
朝鮮王朝は、宗義智の「明征服の道を借りる」という弁明も拒絶していながら、侵略軍来襲に対して警戒心もなく、何ら防衛対策を構じなったのである。
少なくとも正使が警告しているのであるから、その意見が採用されなかったとしても、国の存亡・危機にかかわる重大事である。緊急事態に備えるべきであったが、無防備状態のまま侵略軍の奇襲攻撃を受けたのであった。
秀吉軍15万8千の兵が不意打ちに 攻め寄せてきたとき、朝鮮軍2万であった。弓矢中心の装備で戦闘力は空洞化していた。
南海岸から上陸した侵略軍は、鉄砲隊を先頭に厳しい抵抗を受けることなく「無人の境に入るが如く」(雨宮芳洲)侵攻しつづけたのであった。
「一世紀にわたり戦乱の中で鍛えぬかれた秀吉軍の組織的な戦法と鉄砲隊の威力の前に、200年の泰平になれてしまった朝鮮軍は鉄砲の銃声におどろき、日本刀の切れ味に恐れをなして敗走をつづけた」〔『日朝交流史』李進熙・姜在彦著)
侵略軍を阻止・撃退に役割をはたしたのは明(中国)からの援軍と官軍の立て直しであったが、より大きな力となったのは、郷土を守るために起ち上がったソンビ(儒生)・下級官吏・農民・僧侶など民衆であった。

僧兵を指揮する西山大師 絵
彼らは、各地で大小の義兵隊を組織しゲリラ戦を展開した。
海上における李舜臣が率いる水軍の活躍と、陸上における義兵隊のゲリラ戦により補給路を断たれた秀吉軍は窮地にたたされ、撤退を重ね朝鮮南岸まで追いつめられたのであった。

義兵隊の活動図
義兵隊の中から多くの英雄が誕生した。
一人一人の英雄たちの活躍ぶりを描くべきであるが、記事が長くなるので、歴史教科書に載る英雄の名を挙げておきたい。
水軍の指揮者李舜臣、全国の僧侶に決起を呼びかけ先頭にたった西山大師と弟子の松雲大師、慶尚道の郭再祐、全羅道の高敬命、忠清道の趙憲・咸鏡道鄭文宇等である。
朝鮮王朝の両班支配者たちの退廃、国防意識の欠如は、国を滅亡の危機にまで陥れた。
その祖国を民衆・義兵隊が救った と言えるのではなかろうか。

海戦の名将 李舜臣像 ソウル
韓国の高校歴史教科書は、「官軍次元のわが国防能力は日本に劣っていたが、全国民的次元の国防能力は日本を凌駕した。
わが民族は身分の貴賤や男女老若を問わず、文化的な優越感に満たされて自発的な戦闘意識をもっていた。こうした精神力が作用して倭軍〈日本軍〉を撃退できる力となった」と記している。

海戦で活躍した亀甲船
豊臣秀吉の野望かから始まった7年間の朝鮮侵略戦争(1592~1598)は、秀吉の死で終わった。勝利者のない戦争であった。
侵略された朝鮮の地に、数え切れない犠牲者、廃墟、荒廃、怨念、悲劇だけが残された。
日朝間に癒しがたい傷あとを残した戦争でもあった。
1392年、朝鮮王朝〔李朝)が成立してから200年が経過し、敵対する外勢もなく泰平のうちに王の世襲が行われ、14代宣祖王〔1568~1608)の時代となった。
1592年、秀吉軍は突如として朝鮮に上陸し、たちまちにしてソウル(京城)、ピョンヤン(平壌)を落し、一時期、朝鮮半島全域を占領した。
宣祖王は、中国との国境・鴨緑江の畔義洲まで逃亡したが、かろうじて国内にとどまり明に援兵を求めた。まさに朝鮮国 滅亡の危機に瀕していた。

秀吉軍の前線基地 名護屋城
それにしても、
なぜ、このような状況に陥ったのか?
なぜ、秀吉軍の侵略が予見できなかったのか?
秀吉の無謀な要求を突きつけられた通信使たちは、 帰国後、秀吉軍が襲ってくる危険を報告しなかったのか?
なぜ、秀吉軍の上陸をやすやすと許したのか?
なぜ、緒戦において敗退を重ね、国土を蹂躙されたのか?
国防軍の装備、戦闘力はどうなっていたか?
朝鮮王朝は、いったい何をしていたのか?
筆者は、このような疑問を漠然と持っていたのであるが、今回、朝鮮通信使の勉強をはじめて、ようやくその疑問が少し解けてきた。
朝鮮王朝は、儒教・朱子学を国家統治の理念とする中央集権国家であった。
王を頂点とする両班〔文班・武班〉官僚集団が国を支配統治していた。
文武両道であるべき 官僚両班体制であったが、儒教的序列主義は文人が優位で、武人を卑しみ軍事は軽んじる風潮があった。
朝鮮朝成立時は、倭寇の頻繁な侵略・略奪を防ぐため軍事力を強化したが、200年の泰平は、腐敗と退廃を生み、両班たちは栄華に慣れ、権力の座と反対派の動きに目をうばわれるだけで、国の危機意識は極限までに低下していた。
秀吉が、大陸侵略の前線基地となる名護屋城(佐賀県)を築き、戦乱で鍛えられた武将・大名たちを集め着々と出兵準備を急いでいた頃、
朝鮮朝廷内は、儒教を信奉する士林派官僚集団が東人・西人の2派に分かれて権力争い〈党争〉に明け暮れていた。
日本に派遣された正使・黄允吉は西人派、副使・金誠一は東人派に属していた。
1591年、帰国複命の席上で正使・黄允吉は「秀吉は恐ろしい人物であり、必ず朝鮮に兵を出すだろう」と警告したのに対し、
副使の金誠一は、「それは人心を動揺させる説であり、そういう兆候はない。秀吉は恐れるに値しない」と正反対の意見・「楽観論」 を主張した。
通信使の派遣時は西人派が実権を握っていたが、帰国したときには東人派が優勢であったため、副使金誠一の「楽観論」 が採用されたのであった。
士林派内の権力争いは、国の存亡に関わる問題までも「政争の具」にすぎなかった。
朝鮮王朝は、宗義智の「明征服の道を借りる」という弁明も拒絶していながら、侵略軍来襲に対して警戒心もなく、何ら防衛対策を構じなったのである。
少なくとも正使が警告しているのであるから、その意見が採用されなかったとしても、国の存亡・危機にかかわる重大事である。緊急事態に備えるべきであったが、無防備状態のまま侵略軍の奇襲攻撃を受けたのであった。
秀吉軍15万8千の兵が不意打ちに 攻め寄せてきたとき、朝鮮軍2万であった。弓矢中心の装備で戦闘力は空洞化していた。
南海岸から上陸した侵略軍は、鉄砲隊を先頭に厳しい抵抗を受けることなく「無人の境に入るが如く」(雨宮芳洲)侵攻しつづけたのであった。
「一世紀にわたり戦乱の中で鍛えぬかれた秀吉軍の組織的な戦法と鉄砲隊の威力の前に、200年の泰平になれてしまった朝鮮軍は鉄砲の銃声におどろき、日本刀の切れ味に恐れをなして敗走をつづけた」〔『日朝交流史』李進熙・姜在彦著)
侵略軍を阻止・撃退に役割をはたしたのは明(中国)からの援軍と官軍の立て直しであったが、より大きな力となったのは、郷土を守るために起ち上がったソンビ(儒生)・下級官吏・農民・僧侶など民衆であった。

僧兵を指揮する西山大師 絵
彼らは、各地で大小の義兵隊を組織しゲリラ戦を展開した。
海上における李舜臣が率いる水軍の活躍と、陸上における義兵隊のゲリラ戦により補給路を断たれた秀吉軍は窮地にたたされ、撤退を重ね朝鮮南岸まで追いつめられたのであった。

義兵隊の活動図
義兵隊の中から多くの英雄が誕生した。
一人一人の英雄たちの活躍ぶりを描くべきであるが、記事が長くなるので、歴史教科書に載る英雄の名を挙げておきたい。
水軍の指揮者李舜臣、全国の僧侶に決起を呼びかけ先頭にたった西山大師と弟子の松雲大師、慶尚道の郭再祐、全羅道の高敬命、忠清道の趙憲・咸鏡道鄭文宇等である。
朝鮮王朝の両班支配者たちの退廃、国防意識の欠如は、国を滅亡の危機にまで陥れた。
その祖国を民衆・義兵隊が救った と言えるのではなかろうか。

海戦の名将 李舜臣像 ソウル
韓国の高校歴史教科書は、「官軍次元のわが国防能力は日本に劣っていたが、全国民的次元の国防能力は日本を凌駕した。
わが民族は身分の貴賤や男女老若を問わず、文化的な優越感に満たされて自発的な戦闘意識をもっていた。こうした精神力が作用して倭軍〈日本軍〉を撃退できる力となった」と記している。

海戦で活躍した亀甲船
豊臣秀吉の野望かから始まった7年間の朝鮮侵略戦争(1592~1598)は、秀吉の死で終わった。勝利者のない戦争であった。
侵略された朝鮮の地に、数え切れない犠牲者、廃墟、荒廃、怨念、悲劇だけが残された。
日朝間に癒しがたい傷あとを残した戦争でもあった。
| Home |