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2017.05.05 高麗の里99
      ”武士をやめる”

 高麗家
     高麗家住居  重要文化財

 高麗神社の宮家・高麗氏が武士の道に足を踏み入れたのは、27代目当主・豊純のときである。
 豊純は、それまでの高麗氏一族から嫁を迎えるという慣習を破り、1242年、源頼朝の縁者であった駿河の岩本僧都道曉の娘を嫁に迎え、鎌倉幕府の御家人になった。
 この時から高麗郡の高麗氏宗家は武士の道を歩むようになった。
  この選択は、源頼朝の支配のもとに台頭した武蔵国一帯の新勢力に対処して、高麗氏一族の権威と領域を守るためのやむを得ない選択であったと思われる。
 その後、高麗氏は6代・120年間、「武士のこと」をするようになったが、鎌倉幕府の衰退に伴ない高麗氏も幾多の試練を強いられるようになった。
 1333年、高麗氏30代行仙の弟・三郎行持と四郎行勝は北条得宗家に仕えていたが、攻め入ってきた新田義貞軍との戦いに敗れ討死し、鎌倉幕府は滅亡した。
 1337年、 高麗氏32代行高(19才)は、南北朝の戦いが始まると南朝側につき、初めての戦さに挑み勝利したが負傷、帰郷を余儀なくされた。
 1351年、行高は足利尊氏・直義兄弟間の覇権争いが起きると、180名を率いて直義側につき、薩唾山(さつだやま)で戦ったが敗走した。

  薩た峠
     薩唾山付近 現静岡県富士市

 翌年の1352年、新田義興の招きに応じた行高は、2人の弟・左衛門介高廣・兵庫介則長を従え、足利尊氏討伐に加わった。武蔵野一帯で激しい局地戦が展開され、弟高廣は相模の河村城で討死、もう一人の弟則長も鎌倉で流れ矢に当たり失なった。
 その後も戦さは続いたが新田義興は鎌倉を捨て河村城に逃亡した。これを機に行高は、上州藤岡(群馬県)の別家・曾祖父の縁戚を頼り身を隠したのであった。。
 3年間隠遁した行高は、鎌倉の足利氏に降伏を申し入れた。この降伏は高行にとって、高麗氏一族の滅亡を救い、血脈を後世に繫ぐための苦渋の決断であったと思われる。
 足利氏の許しを得て帰郷した行高は、あまりにも甚大な犠牲と惨憺たる結果におののき、再び武士の道に戻らないと心に誓ったと思われる。

  s-本殿
      高麗神社本殿

 その後、30年を生きた行高は、臨終に際し遺言を残した。
 「我が家は修厳者である。以後は何事があっても武士のおこないをしてはならない
 「武士をやめよ」・「戦に与せず」 この遺言こそがその後、幾多の難局から高麗氏を救うことになった。
 15、6世紀、群雄割拠する戦国動乱時代に入ると、全国全ての大きな勢力は戦乱にまきこまれた。
 当然、高麗氏一族にも出陣要請や勧誘があった。しかし、高麗氏歴代当主は修厳者の道に徹し、行高の「武士をやめよ」・「戦に与せず」の遺言を守り通した。

  系図
  『高麗氏系図』60代1300年の歴史

 その結果、高麗氏一族は脈々と命を継承することが出来た。『高麗氏系図』はその史実を証明しているのである。
 高麗神社60代現当主・高麗文康氏は、「多くの名のある氏族が浮かんでは消えていく中で1000年以上その血族が受け継がれてきたことは特筆に値するであろう。」と述べている。(『武蔵野』3号)
 「特筆に値する」と 言うよりも、奇跡的に生き延びた1300年の歴史であったと言えであろう。
 高麗氏一族の歴史的経験は、世界的に見れば地方の一氏族の小さな出来事にすぎないかも知れない。
 しかし,テロや紛争が絶えない現代社会のおいて、如何に紛争や戦争を回避し、平和な世の中を築いていくのか、高麗氏1300年の歴史はその答えを教えているような気がしてならない。 つづく
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