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2017.05.01 高麗の里98
      高麗出身の武蔵武士

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  高麗丘陵の風景 聖天院勝楽寺から撮影

 武蔵武士とは、平安時代末期から鎌倉時代、室町時代にかけて武蔵国を本拠にして活躍した武士たちのことである。
 平安時代末期、律令制度がくずれ、律令を根拠とした郡は存在価値を失った。それにともない地方では自ら土地を開墾し、その土地を守るために武装するようになった。武蔵国においても武士が勢力を増していた。武蔵武士は開発した土地の領主であり、その地名を名字にした。
  武蔵国の周囲、相模、上総、下総、上野、下野等に関東武士が次々と生まれた。武蔵国では武蔵7党と呼ばれる同族意識をもつ中小武士団が勢力を伸ばした。武蔵7党とは、横山党、猪俣党、児玉党、村山党、野与党、丹党(丹治党)、西党(西野党)ことで、他に綴党、私市党の2党があった。
 
 これらの武士団の中に、 高麗王若光を祖とする「高麗氏」、丹党から出た「丹党高麗氏」、桓武天皇の曾孫・高望氏の後裔「平姓高麗氏」の3氏が名を連ねた。
 若光を祖とする高麗氏が武士になった経緯については、すでに掲載したので省略する。(「高麗の里16=高麗氏系図」)
 「丹党高麗氏」は高麗五郎経家が鎌倉幕府の御家人となり、1190年、源頼朝入洛の際、五郎経家の子・高麗太郎実朝が先陣随兵として活躍したことが記録されている。
 また、「平姓高麗氏」には高麗景実・高麗定澄の兄弟が活躍したことや、定澄の子孫である高麗季澄、高麗経澄らが足利尊氏側につき活躍したことが伝えられている。
 「高麗」を姓とする武士団は3氏のみが記録に残るが、実際は「高麗姓」以外の高麗系武士団がはるかに多く存在したと思われる。
 なぜなら、高麗郡建郡から400~500年が経過し、建郡当初1799人であった高麗人の子孫は、その何十倍かに膨れ上がったと推測されるからである。そして何よりも、彼らは「高麗姓」ではなく、「日本姓」を名のり、周辺地域に進出していったからである。
 鎌倉時代の1259年、高麗神社が大火で貴重な家宝・資料ともに『高麗氏系図』 消失した。

 系図
   『高麗氏系図』 高麗神社所蔵
 
 その『高麗氏系図』 を再編集するために高麗氏の縁者、老臣たちが集まった。高麗、高麗井(駒井)、井上、新、神田、丘登、本庄、和田、吉川、大野、加藤、福泉、小谷野、安部、金子、中山、武藤、芝木等の姓名が連ねている。
 高麗氏宗家以外、全て「日本姓」であることは、渡来人子孫の殆どが在住民の中に同化、溶け込んだことを物語っているのである。
 それで筆者は、同化してしまった高麗郡出身の高麗人・武蔵武士は探し出せないと一旦はこの記事の掲載を諦めたのであった。
 ところが、たまたま図書館で『武蔵武士を歩く』(北条氏研究会編)見つけ、パラパラとめくると、武蔵7党の全武士団名と出身地を詳細に書いた図表が目に止まった。
 そこに書かれた高麗郡出身の武士団は、丹党の青木、加治、柏原、中山、野田、判乃各氏と児玉党の大河原氏、村山党の金子氏等である。これら武士団は高麗郡建郡当初の高麗人の後裔であることは間違いないと思われる。

  新田義貞
   新田義貞像  分倍河原駅前

  高麗人は、もともと高句麗騎馬民族であった。その後裔である彼らは馬の飼育、馬具の製造、弓矢を使った騎乗術に長けていた。この時代の馬は重要な移動手段であり、騎馬戦に欠かせないものとなっていた。武蔵7党武士団の活躍の陰に高麗人の騎馬術の影響が推測される。

 八国山1
   軍馬が通った八国山緑地 東村山市 

 武蔵武士は、鎌倉幕府が成立する当初は、その原動力となり目覚ましい活躍をしたが、源頼朝が没すると幕府内の政治抗争に巻き込まれ、武蔵武士の一部は権力を掌握した北条氏の対抗勢力となり少なからず滅亡した。 
 その後の武蔵武士は、後醍醐天皇の討幕派と北条派の戦い、新田と北条の戦い、足利尊氏と直義の兄弟間の戦い、足利と新田(南北朝)の戦い等で、敵味方に別れて各地で戦闘を繰り広げた。その過程で武蔵武士は次第に衰退していった。

  跡地
   分倍河原の戦いで焼失 国分寺跡

 関東での戦は、武蔵国内とその周辺が戦場となることが多かった。
 現在、小手指原、三ツ木原原、金井ヶ原、八国山麓の久米川、分倍河原、入間川原、高麗原、女影、笛吹峠等々が古戦場として跡を残している。
 武蔵武士が駆けめぐった旧鎌倉街道は、筆者が住む東大和市に隣接する東村山市・小平市・国分寺市を通っている。当時とは街道の様相はすっかり変わったが、旧鎌倉街道沿いに史跡が点在している。

  小手指
        小手指原の戦跡

 筆者は若いころ、時代小説『平家物語』、『太平記』を読んだことがある。その中に登場した武蔵武士の戦いは遠い昔のことであり、自分と関係のないところで起こった面白い物語にすぎなかった。
 ところが、「高麗の里」の記事を連載し、今回の武蔵武士の資料を調べる過程で、近くで戦が繰り広げられたことを知るとともに、近くの古道を駆けてゆく武蔵武士の存在が身近かに感じるようになった。
 これからは、「高麗の里」の記事取材を忘れて『平家物語』、『太平記』を読み直し、武蔵武士が活躍した古戦場や遺跡・伝承を訪ねて、のんびりと散策でもして見たいと思っている。
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