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2017.03.23
高麗の里95
仏像院勝楽寺3

王辰爾山仏蔵院勝楽寺
仏蔵院勝楽寺の由来と歴史について、寺が発行した『勝楽寺大坊略縁起』に,
「当山の草創は、零亀2年(西暦716年)武蔵国入間郡勝楽寺村に朝鮮半島から渡来した王辰爾一族の人びとが、阿弥陀如来・観喜天をまつり、勝楽寺聖天院を建立したときに始まり」としている。
また、一方で同じ『勝楽寺大坊縁起』に、「霊亀2年(716年)に高麗人来居して一寺を建て、阿弥陀・観喜天を安置、勝楽寺聖天院と呼び、4年後に2尊を抱いて北に移り、今の高麗村で高麗人の子孫が住むところに1寺を建てた、聖天院勝楽寺大彌堂と言い、今も存在する」(所沢市史寺社編)と記されている。
縁起の内容は、一方では百済からの渡来人・王辰爾一族が勝楽寺を建てとしながら、また一方では高麗人が来居して1寺を建て勝楽寺聖天院と呼んだと云い、 勝楽寺を建立したのは百済人か、それとも高麗人か疑問を残しているのである。この疑問について,調べて次の機会に言及することにしたい。

仏蔵院勝楽寺 入口階段
仏蔵院勝楽寺は、高麗郡建郡と同じく昨年、建立1300年を迎えた。しかし、この寺院の1300年をふり返って見ると、よくも存続したものだと思わずにいられない苦難の連続であった。
由緒ある勝楽寺が歩んだ盛衰・1300年の歴史を『勝楽寺大坊略縁起』を基に記してみる。
勝楽寺は平安時代に最も栄えたらしい。七社神社の別当にあたり12院12坊の大伽藍をもつ武蔵野一の霊場として繁栄したと伝えられている。
源頼朝氏の祈願所になったが、1266年、鎌倉幕府六代将軍のとき騒動が起こり寺社は、500騎の軍勢に焼かれ廃墟となった。その後、再興が計られたが戦乱の世がつづき寺院は長い間荒廃の時代が続いたと思われる。
江戸時代の1621年、真慧上人を中興の祖と仰ぎ十一面観音を安置して再興したのであるが、1804年火災にあい、またしても坊社を焼失してしまった。
1819年に再建された当時の伽藍は、裏山に7社神社、境内に阿弥陀堂・地蔵堂・そして大坊の池に日限地蔵・歓喜天・弁財天がまつらて往昔の名残りをとどめていた。
明治維新後、寺社分離令により、7社神社は所沢市山口の中氷川神社に合祀された。
そして、前回の記事で述べたよう1929年(昭和4年)、狭山湖の出現によって勝楽寺の伽藍は現在の地に移築された。
現在は狭山33観音第2番、奥多摩新四国八十八ヶ所第七十三番札所となっている。

仏蔵院勝楽寺 境内
筆者が昨年(2016年)の秋、仏蔵院勝楽寺を訪れた。寺は幹線道路から少し奥に入った高台に建っていた。急な階段を上り境内に入ると、そこは綺麗に清掃された静寂の空間であった。境内から入口方面を眺めると狭山丘陵が連なり見晴らしの良いところであった。『湖底のふるさと』を書き残した人たちが、旧勝楽寺から眺める風景によく似ていると言っていたことを思いだした。静かな景観が好いところであった。

勝楽寺境内から狭山丘陵を眺める
筆者は、寺の関係者から勝楽寺の歴史や寺の縁起、勝楽寺移転時の話など伺うつもりであったが都合により実現できなかった。再度訪れる予定をしている。

王辰爾山仏蔵院勝楽寺
仏蔵院勝楽寺の由来と歴史について、寺が発行した『勝楽寺大坊略縁起』に,
「当山の草創は、零亀2年(西暦716年)武蔵国入間郡勝楽寺村に朝鮮半島から渡来した王辰爾一族の人びとが、阿弥陀如来・観喜天をまつり、勝楽寺聖天院を建立したときに始まり」としている。
また、一方で同じ『勝楽寺大坊縁起』に、「霊亀2年(716年)に高麗人来居して一寺を建て、阿弥陀・観喜天を安置、勝楽寺聖天院と呼び、4年後に2尊を抱いて北に移り、今の高麗村で高麗人の子孫が住むところに1寺を建てた、聖天院勝楽寺大彌堂と言い、今も存在する」(所沢市史寺社編)と記されている。
縁起の内容は、一方では百済からの渡来人・王辰爾一族が勝楽寺を建てとしながら、また一方では高麗人が来居して1寺を建て勝楽寺聖天院と呼んだと云い、 勝楽寺を建立したのは百済人か、それとも高麗人か疑問を残しているのである。この疑問について,調べて次の機会に言及することにしたい。

仏蔵院勝楽寺 入口階段
仏蔵院勝楽寺は、高麗郡建郡と同じく昨年、建立1300年を迎えた。しかし、この寺院の1300年をふり返って見ると、よくも存続したものだと思わずにいられない苦難の連続であった。
由緒ある勝楽寺が歩んだ盛衰・1300年の歴史を『勝楽寺大坊略縁起』を基に記してみる。
勝楽寺は平安時代に最も栄えたらしい。七社神社の別当にあたり12院12坊の大伽藍をもつ武蔵野一の霊場として繁栄したと伝えられている。
源頼朝氏の祈願所になったが、1266年、鎌倉幕府六代将軍のとき騒動が起こり寺社は、500騎の軍勢に焼かれ廃墟となった。その後、再興が計られたが戦乱の世がつづき寺院は長い間荒廃の時代が続いたと思われる。
江戸時代の1621年、真慧上人を中興の祖と仰ぎ十一面観音を安置して再興したのであるが、1804年火災にあい、またしても坊社を焼失してしまった。
1819年に再建された当時の伽藍は、裏山に7社神社、境内に阿弥陀堂・地蔵堂・そして大坊の池に日限地蔵・歓喜天・弁財天がまつらて往昔の名残りをとどめていた。
明治維新後、寺社分離令により、7社神社は所沢市山口の中氷川神社に合祀された。
そして、前回の記事で述べたよう1929年(昭和4年)、狭山湖の出現によって勝楽寺の伽藍は現在の地に移築された。
現在は狭山33観音第2番、奥多摩新四国八十八ヶ所第七十三番札所となっている。

仏蔵院勝楽寺 境内
筆者が昨年(2016年)の秋、仏蔵院勝楽寺を訪れた。寺は幹線道路から少し奥に入った高台に建っていた。急な階段を上り境内に入ると、そこは綺麗に清掃された静寂の空間であった。境内から入口方面を眺めると狭山丘陵が連なり見晴らしの良いところであった。『湖底のふるさと』を書き残した人たちが、旧勝楽寺から眺める風景によく似ていると言っていたことを思いだした。静かな景観が好いところであった。

勝楽寺境内から狭山丘陵を眺める
筆者は、寺の関係者から勝楽寺の歴史や寺の縁起、勝楽寺移転時の話など伺うつもりであったが都合により実現できなかった。再度訪れる予定をしている。
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