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2017.03.19 高麗の里94
      仏像院勝楽寺2

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      当時の仏像院勝楽寺

     「勝楽寺の大芝居」 久保田義一
「昔は秋になると、各村々で大芝居を催しものである。近郷近在揚げて見物に集まり実に盛大なものであった。当時勝楽寺にはその貸し舞台(廻し舞台付)、及び大道具小道具師すべて揃っており、毎年秋になると主催村の人が総出で舞台借出しの手車で行列したものであった。
 ちょうどその頃、大正6年(1917)、青年団の発起にて村の長老の快諾も得て、勝楽寺で大芝居を開催した。役者は当時二本木(今の瑞穂町)に板東寿当という有名な役者がいたので、そこへ申し入れ来談したところ、当時は普通二晩で2百円位であるが、勝楽寺で催すには安い芝居は出来ない。二晩で五百円出してくれと言われ、とにかく五百円で契約した。
 青年団としても、もし赤字の場合は各自相応に負担する事を申し合わせ、悲壮な決意で出発した。それから毎日総出で準備にかかり、材木は野村九一郎さんの山から安くゆずってもらい、切り出し運搬その他材木の購入等一か月以上要して大芝居の舞台がかんせいした。
 役者は36名余り来て、その一行中の板東秀調という歌舞伎役者は当時名代の名優であり、特別出演で今にして当時を知る者の語り草になっている。

  村祭り
      村祭り   イラスト

 所沢駅まで出迎えの人力車は、入間川、豊岡方面からも動員したがわずか17台きり集まらず、あとの役者は車の後について歩いてもらった。宿舎は秀調は仏像院へ一人、その他は3人5人と相部屋で、それぞれ村の大きな家々に分宿してもらった。
 いよいよ上演当日、十月22日、23日の両日とも前日までの大雨もすっかりあがり晴れ渡った場内は立すいの余地もない大観衆で埋まり大好評の内に打ち上げ、また収支の方も各家庭及びその親戚の方々のご芳志により赤字も出ず大芝居も大成功で終了する事が出来た。」
 上の文章は『湖底のふるさと』に載せられたものをそのまま転載したものである。大芝居を開催するために、村の青年団員たちが駆けずり回る様子や、大芝居を見物して興奮する村人たち大観衆の熱気が伝わってくるようである。
 当時の勝楽寺は祭事のみならず、村民の娯楽や大きな催し・文化の中心であったことを物語るものであろう。

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    狭山湖 湖底に勝楽寺村があった

 しかし、大芝居が催されてから12年後の1929年(昭和4年)、仏像院勝楽寺は現在の所沢市山口へ移転を余儀なくされたのであった。つづく
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