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2017.03.15
高麗の里93
仏像院勝楽寺1

狭山湖 手前所沢市山口 ネットより
仏像院勝楽寺は1300年の歴史を誇る由緒ある寺院である。
勝楽寺は、1200年ものながい間、武蔵国入間郡勝楽寺村の丘陵に建っていた。
凡そ90年前、東京市民の飲み水確保のための山口貯水池(狭山湖)築造に伴い村全域が湖底に沈んだ。
村民は移住を余儀なくされ、勝楽寺は現在の所沢市山口に解体移築された。
湖底に沈む前の仏像院勝楽寺は、勝楽寺村の村民にとって聖地であり、祭事はもちろん娯楽や憩いの場所であった。
筆者が、当時の勝楽寺村や勝楽寺の様子を具体的にイメージしたのは、村民が書き残した文集・『湖底のふるさと』を読んでからである。
この文集は、勝楽寺村に生まれ、少年期・青年期を過ごした有志が、村が湖底に消滅してから50数年後(1983年・70才前後) に集まって綴ったものである。
勝楽寺村の様子をありありと描いていることに感銘した。

桜につつまれた勝楽寺
『湖底のふるさと』に書かれた勝楽寺についての一文を載せる。
「古里の想いで」 久保田義一(大正3年生)
「・・まず心の故郷として、一番心に焼付いているのは、勝楽寺の象徴、大坊の七社神社及び仏像院である。県道に面していたため誰知らぬ者がなかった。その県道も貯水池により堀口の堤防で分断されてしまったが、当時は所沢から八王子、青梅、立川方面への唯一の幹線でもあり、商業の中心所沢との交流は、皆この県道を往来した。

県道 所沢ー武蔵村山 当時の勝楽寺から
その県道から見える高い急な石段・・登りつめると、うっ蒼たる七社神社、杉の大木、椎の巨木等生い繁り、あれだけの地形の境内は今この周辺には見当たらない。・・石坂のふもとには氷のような冷たい自然井戸。盛夏には学校の帰りみち、生徒はここに寄って涼を取り、道草を食ったものである。下には三ッの池”東池の中に歓喜天を、西池に弁財天を、北池の中に日限地蔵を安置す”と古記にある。ここを大坊の池といって特に知られていた。池の回りには桜の大木が連なり、当時は絶好の花見名所であった、広場はグランドになっており、毎年秋になると勝楽寺の運動会が催され、・・4月8日はお釈迦様の生誕日、花まつりといってその日はお寺の廊下に甘茶がよういされ・・山口小学校の生徒は全員参拝、夜はお神楽が催され、参道には出店が並び近郷近在の見物客で境内は埋め尽したれたものである。・・」

五郎松 勝楽寺周辺に立っていた
その地に在住した人たちだけが書ける勝楽寺の姿であろう。つづく

狭山湖 手前所沢市山口 ネットより
仏像院勝楽寺は1300年の歴史を誇る由緒ある寺院である。
勝楽寺は、1200年ものながい間、武蔵国入間郡勝楽寺村の丘陵に建っていた。
凡そ90年前、東京市民の飲み水確保のための山口貯水池(狭山湖)築造に伴い村全域が湖底に沈んだ。
村民は移住を余儀なくされ、勝楽寺は現在の所沢市山口に解体移築された。
湖底に沈む前の仏像院勝楽寺は、勝楽寺村の村民にとって聖地であり、祭事はもちろん娯楽や憩いの場所であった。
筆者が、当時の勝楽寺村や勝楽寺の様子を具体的にイメージしたのは、村民が書き残した文集・『湖底のふるさと』を読んでからである。
この文集は、勝楽寺村に生まれ、少年期・青年期を過ごした有志が、村が湖底に消滅してから50数年後(1983年・70才前後) に集まって綴ったものである。
勝楽寺村の様子をありありと描いていることに感銘した。

桜につつまれた勝楽寺
『湖底のふるさと』に書かれた勝楽寺についての一文を載せる。
「古里の想いで」 久保田義一(大正3年生)
「・・まず心の故郷として、一番心に焼付いているのは、勝楽寺の象徴、大坊の七社神社及び仏像院である。県道に面していたため誰知らぬ者がなかった。その県道も貯水池により堀口の堤防で分断されてしまったが、当時は所沢から八王子、青梅、立川方面への唯一の幹線でもあり、商業の中心所沢との交流は、皆この県道を往来した。

県道 所沢ー武蔵村山 当時の勝楽寺から
その県道から見える高い急な石段・・登りつめると、うっ蒼たる七社神社、杉の大木、椎の巨木等生い繁り、あれだけの地形の境内は今この周辺には見当たらない。・・石坂のふもとには氷のような冷たい自然井戸。盛夏には学校の帰りみち、生徒はここに寄って涼を取り、道草を食ったものである。下には三ッの池”東池の中に歓喜天を、西池に弁財天を、北池の中に日限地蔵を安置す”と古記にある。ここを大坊の池といって特に知られていた。池の回りには桜の大木が連なり、当時は絶好の花見名所であった、広場はグランドになっており、毎年秋になると勝楽寺の運動会が催され、・・4月8日はお釈迦様の生誕日、花まつりといってその日はお寺の廊下に甘茶がよういされ・・山口小学校の生徒は全員参拝、夜はお神楽が催され、参道には出店が並び近郷近在の見物客で境内は埋め尽したれたものである。・・」

五郎松 勝楽寺周辺に立っていた
その地に在住した人たちだけが書ける勝楽寺の姿であろう。つづく
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