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2016.05.16 高麗の里49
  高麗郡の役所・郡家の所在地は?

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    「厨」の墨書の須恵器が出土した拾石遺跡  後方は日高高校

 1300年前の今日、5月16日は武蔵国高麗郡の誕生日である。

 高麗郡は上総郷(現飯能市)と高麗郷(現日高市)の2郷からなり、建郡時の役所・郡家(ぐうけ)の所在地については、これまで飯能市の久下分、日高市の女影廃寺付近、拾石(じゅっこく)遺跡等の説が上げられていたが具体的な場所は特定されていなかった。
 筆者は、郡役所の所在地は現飯能市にあったと推測していた。それというのも、「飯能市中に、久下分(くげぶん)とよばれるところがあって、おそらく郡家(郡役所)のあったところとされている。」(『日本に残る古代』段熙麟著)を読んでいたからである。
 今年の3月初旬、東大和市民ネットの仲間から、「高麗郡の役所跡が発見されたという新聞報道があった」ことを知らせてくれた。図書館で調べて見ると、3月4日の朝日新聞朝刊 埼玉県版に
「『厨』の字、高麗郡役所跡か、須恵器の底に墨痕 日高・拾石遺跡で出土」の表題の記事が載っていた。
 「建郡1300年に向けて特別整理作業をしていた昨年の10月、21年前に出土した須恵器の底を赤外線撮影したところ、墨書された『厨』の文字が浮かび上がった。『厨』は宴会の料理や郡司の食事を作る調理場を意味し、郡家を形成する施設の一つだという。・・市によると、これまで出土した土器は奈良・平安時代のもので、朝鮮半島の高句麗から渡来人が移住し、高麗郡を建郡した時期(716年)の直後と符合するといい・・郡家が高萩地区にあった可能性が高まった」と書かれていた。
 

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      「厨」の墨書が書かれた須恵器(模造品) 日高市民俗博物館

 高麗郡建郡1300年の記念の年を迎えて、初期の郡役所跡の場所が特定出来たことは、「高麗の里」をテーマに記事を連載してきた筆者にとって考え深いものであった。
 さっそく、新聞記事の内容を確認するため日高市の拾石遺跡を訪ねた。遺跡はJR川越線武蔵高萩駅の北600mの所にあった。道路を隔てた向かい側に日高高校があった。遺跡といっても標識もなく、ただの空き地にすぎなかった。拾石遺跡を確認するために何人かの地元の人に訊ねなければならなかった。
 しかし、この遺跡から出土したとされる「厨」の文字が墨書された須恵器をはじめ、他の発掘物は市の遺跡調査室に保管されているため見ることが出来なかった。
 調べて見ると、拾石遺跡から青銅製と石製の丸鞆(まるとも)、巡方(じゅんぽう)等の帯具が出土していた。これらはベルトに付ける装身具で、材質により役人の位を表したものである。また、筆置きとして用いられる耳皿(みみざら)と漆紙が見つかっている。
 拾石遺跡の西に位置する王神遺跡からは、鳥形硯片が見つかっていることから、文書を書く必要のある役所があったことを証拠づけるものである。
 そして、今回の須恵器の底に書かれた「厨」の字の発見により、高麗郡建郡時の役所・郡家の所在地は日高市高萩地区が最も有力となった。
 後日、日高市の民俗博物館に立ち寄り、展示されていた模造の「厨」の文字が書かれた須恵器と模型の郡役所建造物を見学することできた。

 
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        役所・郡家所在地の建造物郡模型  日高市民俗博物館

 1300年の記念すべき今日、この記事を発信出来たことは筆者にとって喜びである。
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