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2016.01.31 高麗の里39
          檀君朝鮮=古朝鮮

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         「在日白衣民族の聖地」 檀君王倹像 聖天院内 

 檀君王倹(タングンワンゴン)が初めてピョンヤンに都を置き、国号を朝鮮と名づけた。その国が檀君朝鮮であり、古朝鮮とも呼ばれる。
 檀君王倹の名は、朝鮮民族の歴史上、建国の祖として最初に登場する人物である。そのため、南・北朝鮮ではほとんどの人がよく知っている。しかし、日本では馴染みがないため檀君の名を知る人は少ない。
 2000年、檀君王倹の石像が「高麗の里」・聖天院勝楽寺(埼玉県日高市)に立てられた。檀君像は日本で初めてであろう。
聖天院勝楽寺域内の奥側に「在日白衣民族の聖地」が設けられていることは、すでに筆者が「高麗の里35」で紹介した。 
 この聖地を見守るかのように山側の斜面に五人(檀君王倹、武烈王、王仁博士、鄭夢周、申師任堂)の石像が立っている、最上段の石像が檀君王倹である。
 
 檀君朝鮮に関する記録は、高麗時代末期、高僧・一然(1206~1289)によって編まれた『三国遺事』の中に記されている。その要旨は、
 「昔、天帝桓因の子桓雄が熊女と結婚し、檀君王儉が生まれた。中国の帝王唐高=堯が即位して50年の庚寅に檀君が朝鮮を建国し平壌に都を置いた、のちに阿斯達に遷都し、1500年間朝鮮をおさめた。箕子が朝鮮に封じられたので、檀君は隠棲して阿斯達の山神になった」

 この説話について南・北の学会では、 事実とは考えられない部分も含まれているが、内容の大筋は連錦として民衆の間に伝承された物語であり、何らかの意味で国家形成の動きを反映したものと理解している。
 また、遺跡・遺物の発見・発掘調査 によって説話は、古代国家誕生の歴史的事実を反映したものであると結論している。

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        檀君朝鮮・古朝鮮の勢力範囲 韓国高校歴史教科書より

 学会の結論に基づいて韓国の高等学校歴史教科書では、「最も早く国家として発展したのが古朝鮮であった。古朝鮮は檀君王倹によって建国されたという(BC2333)。檀君王倹は当時の支配者の称号であった。」
 そして、「古朝鮮は遼嶺(現中国東北)地方を中心に成長し、次第に隣接した君長社会を統合して、韓半島まで発展したとみられるが、このような事実は出土した琵琶型銅鐸の分布にとって知ることができる。古朝鮮の勢力範囲は、青銅器時代を特徴ずける遺物の一つである琵琶縣銅鐸が出た地域とほとんどいっちしている」と記述している。


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           檀君王倹、  韓国高校歴史教科書より

 教科書では、檀君は実在した人物に等しい扱いで記述されているが,確証はない。あくまでも神話・伝説上の人物である。
 ところが、20世紀末の1993年、朝鮮民主主義人民共和国社会科学院は平壌市郊外、江東郡江東村の檀君陵発掘趙査を行い、二体の遺骨と多数の遺物を発見した、その遺骨を科学的に測定した結果、「一つの遺体は檀君王倹であり、もう一つは檀君の妃の遺体であると断定した。そして、これまでは檀君王倹は神話伝説上の人物にすぎなかったが、これからは歴史上に実在した人物となった」と発表した。
 この発表にたいし、韓国では民族史上の大発見と歓迎する一方、疑問をもつ考古学、歴史学研究者もいるようである。
  南・北の歴史研究者・専門家がピョンヤンの檀君陵発掘現場に一堂に集まり、シンポジュウムでも開けばハッキリ結論が導きだせると思われるが、国が分断されているため、同じ民族の歴史問題でも共同研究・学術交流すら出来ない状態にある。なんともはがゆい現実である。つづく、
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