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2016.01.15 高麗の里35
          「在日白衣民族の聖地」 1

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          白衣民族の聖地 在日韓民族慰霊塔・慰霊碑 

 高麗山聖天院勝楽寺本堂前に立つと左に高麗若光王の石像が見える、鐘楼に登る階段を上り若光王石像の横を通り抜けて丘に立つと、前方に聳える石塔が見える、石塔に向かって舗装された山の斜面の道を進むと石塔のある広場に出る。そこが「白衣民族の聖地」である。   
  
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        聖天院奥側の丘から白衣民族の聖地を一望する
  
 36段の慰霊塔と慰霊碑を正面に右側、山の斜面に歴史上の人物五体の石像が配置されいる。左側に八角亭の休息所が設けられている、その片隅に「白衣民族の聖地」の小さな看板がかけられている

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              「在日白衣民族の聖地」の看板

   看板の内容は「ここは日本国土の中心地で、今からおよそ1300年前、若光王一行が風水孝(現韓国風水学)上、最高の地と定めた。山林を切り開き、ここを居住地にさだめ巾着田(埼玉県重要文化財)を造成し、武蔵野一帯に稲作を普及した。 檀記4332年10月3日
 白衣民族は朝鮮半島の出身者、つまり朝鮮民族・韓民族であることはすでに周知していることであるがが、この内容だけでは  なぜ「白衣民族の聖地」をこの地に造るようになったのか、筆者には理解出来ない。
いったい、この「聖地」を造ることを考え出し、誰が推進し、資金は?
 戦前・戦中から無援仏となっている朝鮮人の遺骨が全国に無数にあると云われて久しい。在日朝鮮人の 遺骨を収集して、その霊を慰める慰霊塔・慰霊碑を建てることは崇高な事業に違いないが、現実的には簡単なことではない。また、このような施設を造ることに摩擦はなかったのだろうか?


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         慰霊塔の右側、五体の歴史上の人物石像

  
 いろいろな疑問を抱き、広場の四方を眺めていると慰霊塔から離れた広場の隅に大きな看板、「慰霊塔・聖天院開基の歴史」 が立っていた。
 書かれている内容の前半部分は聖天院の由来が、後半部分に慰霊塔・慰霊碑のことが、次のように [ ,,,この由緒ある聖天の山腹にそびえ立つ慰霊塔は第2次大戦の不幸な歴史の中で亡くなられた沢山の無縁の同胞達に昔渡来した高句麗の同胞たちと共に永遠の安眠を与え供養したいと願う在日同胞篤信者の真心より建立されました。塔は日本と朝鮮の関係36年間を象徴する36段階で高さ16M,石塔としては日本最大、下部に納骨堂が備わっています、、」と書かれていた。
 筆者はここに書かれた「在日同胞篤信者達の真心によって建立された」の部分がやけに気になった。「在日同胞篤信者」とは、一体誰なのか、複数の人たちがいるのか? 戦後、半世紀が過ぎても全国に散らばっている無縁仏、心を痛める人はいるが、どうすることもできずに放置されたままの遺骨、その霊を供養するこれだけの大規模な施設を整えるためには、巨額の浄財を注がなければならない。その浄財を投じた奇特な人たちとは如何なる人たちか?

  
 「白衣民族の聖地」からの帰り道、聖天院の受付に立ち寄って聞いてみたが、よく知る住職は忙しいとのことで会えなかった。 家に帰ってネットで調べて見ると、高麗山聖天院勝楽寺本堂落慶法要式典で在日同胞2世の河正雄さんが式辞を述べたことがわかった。
 そして、その河さんが「日本と韓国二つの祖国に生きる」を出版し、その著書の項目「高麗王と眠る」の中に、「白衣民族の聖地」が建立されるまでの経緯が詳しく書かれていた。
「白衣民族の聖地」を最初に発願したのは秩父に居住する在日同胞一世の尹炳道さんであった、つづく

 
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