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2014.12.03
王仁博士6
王仁博士の子孫
応神天皇の招きで渡来した王仁は、皇子・兎道稚郎子(うじのわきいらつこ)をはじめ
朝廷の支配階級に漢字・学問を教え、彼らから「博士」・「学問の祖」と尊崇された。
王仁は任務を終えた後も故郷の百済に帰らず、河内の羽曳野市古市付近に定着し、
生涯をこの地で終えた。なぜ、故国に帰らずに日本に定着したのか定かでない。
子孫である西文氏(かわちのふみうじ)は代を継いで文首(ふみのおびと)として
朝廷の文書・記録係を務めた。その後、一族は繁栄して氏寺・西琳寺を建立した。

王仁の子孫建立 西琳寺 大阪羽曳野市古市
寺伝よれば、西文氏の文首・阿志高(あしこ)と支弥高(きみこ)の父子によって
西琳寺は559年に創建された。河内地方における最古の名刹で、別称を古市寺と呼ばれた。
発掘調査によって寺域は、東西109m、南北218mの七堂伽藍をそなえた大寺院であった。
また、五重の塔の礎石が2、6トンで、法隆寺の礎石よりはるかに大きく、

西琳寺 五重塔礎石 水溜り部分に柱が建つ
西琳寺のな威容は西文氏一族の繁栄ぶりをうかがい知れる。
西琳寺は平安時代に焼けるが、鎌倉時代に再建された。
しかし、明治時代の廃仏毀釈によって取り壊され、現在の西琳寺に昔の面影はない。
また、西文氏一族から別れた高志(こし)氏は、高石市高師浜に高石神社を建てた。

高石神社 大阪 高石市高浜
「和泉名所図会」(江戸時代)によれば、「高志氏の祖、王仁をまつる」と記されている。
この付近で繁栄した王仁の子孫が地名をもじって姓とし、当て字で高志としたものと思われる。
奈良時代の名僧・行基は高志氏の出である。奈良県生駒郡有里の竹林寺にある
行基の墓から出土した墓誌に
「俗姓は高志氏。その亡父は才智にして、智法君の長子なり。本百済王子、王仁の後より出ず」
と刻銘されていることから、行基が百済から渡来した
王仁博士の子孫であることが明らかになった。(行基の詳細は筆者の記事「奈良大仏と渡来人」参照)

行基像 近鉄奈良駅前
朝鮮半島から渡来した王仁博士(5世紀末~6世紀初)から、
その子孫の行基までの約200年間、彼ら渡来人が古代日本文化に
少なからず影響を及ぼししたと言えるだろう。
応神天皇の招きで渡来した王仁は、皇子・兎道稚郎子(うじのわきいらつこ)をはじめ
朝廷の支配階級に漢字・学問を教え、彼らから「博士」・「学問の祖」と尊崇された。
王仁は任務を終えた後も故郷の百済に帰らず、河内の羽曳野市古市付近に定着し、
生涯をこの地で終えた。なぜ、故国に帰らずに日本に定着したのか定かでない。
子孫である西文氏(かわちのふみうじ)は代を継いで文首(ふみのおびと)として
朝廷の文書・記録係を務めた。その後、一族は繁栄して氏寺・西琳寺を建立した。

王仁の子孫建立 西琳寺 大阪羽曳野市古市
寺伝よれば、西文氏の文首・阿志高(あしこ)と支弥高(きみこ)の父子によって
西琳寺は559年に創建された。河内地方における最古の名刹で、別称を古市寺と呼ばれた。
発掘調査によって寺域は、東西109m、南北218mの七堂伽藍をそなえた大寺院であった。
また、五重の塔の礎石が2、6トンで、法隆寺の礎石よりはるかに大きく、

西琳寺 五重塔礎石 水溜り部分に柱が建つ
西琳寺のな威容は西文氏一族の繁栄ぶりをうかがい知れる。
西琳寺は平安時代に焼けるが、鎌倉時代に再建された。
しかし、明治時代の廃仏毀釈によって取り壊され、現在の西琳寺に昔の面影はない。
また、西文氏一族から別れた高志(こし)氏は、高石市高師浜に高石神社を建てた。

高石神社 大阪 高石市高浜
「和泉名所図会」(江戸時代)によれば、「高志氏の祖、王仁をまつる」と記されている。
この付近で繁栄した王仁の子孫が地名をもじって姓とし、当て字で高志としたものと思われる。
奈良時代の名僧・行基は高志氏の出である。奈良県生駒郡有里の竹林寺にある
行基の墓から出土した墓誌に
「俗姓は高志氏。その亡父は才智にして、智法君の長子なり。本百済王子、王仁の後より出ず」
と刻銘されていることから、行基が百済から渡来した
王仁博士の子孫であることが明らかになった。(行基の詳細は筆者の記事「奈良大仏と渡来人」参照)

行基像 近鉄奈良駅前
朝鮮半島から渡来した王仁博士(5世紀末~6世紀初)から、
その子孫の行基までの約200年間、彼ら渡来人が古代日本文化に
少なからず影響を及ぼししたと言えるだろう。
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