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2014.12.05
王仁博士3
王仁と千字文

王仁塚のさくら 八ヶ岳を眺望 長野県 韮崎市
1)王仁は伝説上の人物?
「王仁は伝説上の人物で歴史上実在しなかった」という主張がある。
その理由として、『古事記』、『日本書記』に記された次の記事を挙げる。
『古事記』に「百済にもし賢人がおられたら捧げよとの命令を受けて、
百済が捧げた人の名が和邇吉師(王仁)といった。
『論語10巻』と『千字文1巻』合わせて11巻を献上した。」
『日本書紀』にも同様の「論語」と「千字文」を持参した記事がある。
これら『記・紀』記事の王仁が献上した『論語10巻』と『千字文』は
史実と矛盾するというのである。
『論語』は四書五経の一つで、孔子の没後、弟子たちが生前の孔子との問答や
孔子から直接聞いた言葉を集めたもので、その量は多くない。
王仁が日本に持ってきた『論語10巻』は量が多すぎる。
よって、『記・紀』の記事は史実と矛盾する。
また、『千字文』は中国の梁時代(502~549)に周興嗣(470~521)によって
編まれたものであり、王仁が日本に渡来してきたとされる(375~405年)までは、
『千字文』は成立していなかった。したがって、作られてもいない『千字文』を
王仁が持参することは出来ない。明らかに『記‣紀』の内容は史実と矛盾する。
そして、漢字は王仁が渡来する以前から日本(倭)に伝わり普及していた。
このような理由により、王仁は歴史上「実在しなかった」、「伝説上の人物」と
見るべきだと主張するのである。
これらの主張は、『紀‣紀』に記された記事の内容を短絡的に解釈したところから
生じたものと思われる。当時の日本の社会、文化、外交関係とくに、
朝鮮半島の三国との交流や大和政権内部の状況など総合的に判断すべきではなかろうか?

王仁神社 吉野ケ里遺跡北1キロ 佐賀県神埼市
2)王仁は歴史上の実在人物
王仁が渡来した時期以降、日本に『論語』をはじめ、多くの儒教の経書が
入ってきたのは事実である。王仁のあと、百済から五経博士(易経,詩経、礼経,書経、春秋)の
段揚爾が渡来したことが記録に記されている。この他に易博士の王道良、
暦博士の王保身等が渡来したことが記録されている。
これらの事実を総合して推測すると、王仁が持ってきた『論語』10巻というのは
『論語』とその解説書、その他の経書、典籍が含まれていたと考えられる。
7世紀の前半、誰もがご存じのように大和政権の中枢部で活躍した聖徳太子は、
百済の恵慈と高句麗の恵総を師として経典や仏教を学んだのである。
『論語10巻』そのものだけ考えれば史実と矛盾するが、他の典籍も含めて『論語10巻』と
解釈すればなんの矛盾もないのである。
つぎに、この時期には成立していなかった『千字文』を、王仁が日本に持ち込んだ問題である。
本来、『千字文』は漢文を学ぶための教本(辞書・テキスト・入門書)である。
そのため古代中国に漢字が生まれた後、それを学ぶ教本は前漢時代(BC141~AD8
)には作られていたことは文献資料からも明らかになっている。
3~4世紀頃、わが国の三国(高句麗、百済、新羅)において、漢字が広く普及していた
事実から、『千字文』のように緻密ではないが漢字を学ぶための教本は
作られていたことは充分に考えられる。
周興嗣が作成した『千字文』は、確かに、王仁が日本に渡来するときには成立してなかった。
しかし、王仁が自分の国・百済に在住していた頃、自身も学び、広く普及していた
教本を持ってきたと考えられる。なぜなら、漢字を習得するためには、教えたり、
習ったりする教材がなくてはならない。この時期、朝鮮半島三国の漢字や漢文の
修得・普及が日本より進んでいたことを考慮するならば、このように考えるのが自然である。
『記・紀』が成った8世紀には、漢字を学ぶ教本として周興嗣の『千字文』が広く普及し、
一般化していたと思われる。そのため王仁が持ってきた教本を一般化している『千字文』として
『紀・紀』に記したと考えれば史実と何ら矛盾するものでない。
周興嗣の『千字文』以後、宋時代に『続千字文』、明時代に『集千字文』が編まれた。
朝鮮朝(李朝)時代に『韓石峰千字文』が作られた。奈良東大寺の古物蔵帳に
記載されている『真草千字文』(751)もある。
言語学者の大島正二氏は
「四世紀末ないし五世紀の初めころには、阿直妓や王仁のような百済からの学者によって、
すでに朝鮮半島に伝わっていた漢籍が日本にもたらされ、一部の上層階級の人によって、
本格的な漢字・漢文の学習が行われはじめたと推測しても大きな誤りはないであろう。」
(『漢字伝来』 岩波新書)と述べている。
当時、百済で使われていた『千字文』を持って渡来し、日本に漢字・学問を広めた
王仁は歴史上の実在人物であり、
それを否定することは出来ないと思う。
つづく

大仁八坂神社境内に王仁神社 大阪市北区大淀南

王仁塚のさくら 八ヶ岳を眺望 長野県 韮崎市
1)王仁は伝説上の人物?
「王仁は伝説上の人物で歴史上実在しなかった」という主張がある。
その理由として、『古事記』、『日本書記』に記された次の記事を挙げる。
『古事記』に「百済にもし賢人がおられたら捧げよとの命令を受けて、
百済が捧げた人の名が和邇吉師(王仁)といった。
『論語10巻』と『千字文1巻』合わせて11巻を献上した。」
『日本書紀』にも同様の「論語」と「千字文」を持参した記事がある。
これら『記・紀』記事の王仁が献上した『論語10巻』と『千字文』は
史実と矛盾するというのである。
『論語』は四書五経の一つで、孔子の没後、弟子たちが生前の孔子との問答や
孔子から直接聞いた言葉を集めたもので、その量は多くない。
王仁が日本に持ってきた『論語10巻』は量が多すぎる。
よって、『記・紀』の記事は史実と矛盾する。
また、『千字文』は中国の梁時代(502~549)に周興嗣(470~521)によって
編まれたものであり、王仁が日本に渡来してきたとされる(375~405年)までは、
『千字文』は成立していなかった。したがって、作られてもいない『千字文』を
王仁が持参することは出来ない。明らかに『記‣紀』の内容は史実と矛盾する。
そして、漢字は王仁が渡来する以前から日本(倭)に伝わり普及していた。
このような理由により、王仁は歴史上「実在しなかった」、「伝説上の人物」と
見るべきだと主張するのである。
これらの主張は、『紀‣紀』に記された記事の内容を短絡的に解釈したところから
生じたものと思われる。当時の日本の社会、文化、外交関係とくに、
朝鮮半島の三国との交流や大和政権内部の状況など総合的に判断すべきではなかろうか?

王仁神社 吉野ケ里遺跡北1キロ 佐賀県神埼市
2)王仁は歴史上の実在人物
王仁が渡来した時期以降、日本に『論語』をはじめ、多くの儒教の経書が
入ってきたのは事実である。王仁のあと、百済から五経博士(易経,詩経、礼経,書経、春秋)の
段揚爾が渡来したことが記録に記されている。この他に易博士の王道良、
暦博士の王保身等が渡来したことが記録されている。
これらの事実を総合して推測すると、王仁が持ってきた『論語』10巻というのは
『論語』とその解説書、その他の経書、典籍が含まれていたと考えられる。
7世紀の前半、誰もがご存じのように大和政権の中枢部で活躍した聖徳太子は、
百済の恵慈と高句麗の恵総を師として経典や仏教を学んだのである。
『論語10巻』そのものだけ考えれば史実と矛盾するが、他の典籍も含めて『論語10巻』と
解釈すればなんの矛盾もないのである。
つぎに、この時期には成立していなかった『千字文』を、王仁が日本に持ち込んだ問題である。
本来、『千字文』は漢文を学ぶための教本(辞書・テキスト・入門書)である。
そのため古代中国に漢字が生まれた後、それを学ぶ教本は前漢時代(BC141~AD8
)には作られていたことは文献資料からも明らかになっている。
3~4世紀頃、わが国の三国(高句麗、百済、新羅)において、漢字が広く普及していた
事実から、『千字文』のように緻密ではないが漢字を学ぶための教本は
作られていたことは充分に考えられる。
周興嗣が作成した『千字文』は、確かに、王仁が日本に渡来するときには成立してなかった。
しかし、王仁が自分の国・百済に在住していた頃、自身も学び、広く普及していた
教本を持ってきたと考えられる。なぜなら、漢字を習得するためには、教えたり、
習ったりする教材がなくてはならない。この時期、朝鮮半島三国の漢字や漢文の
修得・普及が日本より進んでいたことを考慮するならば、このように考えるのが自然である。
『記・紀』が成った8世紀には、漢字を学ぶ教本として周興嗣の『千字文』が広く普及し、
一般化していたと思われる。そのため王仁が持ってきた教本を一般化している『千字文』として
『紀・紀』に記したと考えれば史実と何ら矛盾するものでない。
周興嗣の『千字文』以後、宋時代に『続千字文』、明時代に『集千字文』が編まれた。
朝鮮朝(李朝)時代に『韓石峰千字文』が作られた。奈良東大寺の古物蔵帳に
記載されている『真草千字文』(751)もある。
言語学者の大島正二氏は
「四世紀末ないし五世紀の初めころには、阿直妓や王仁のような百済からの学者によって、
すでに朝鮮半島に伝わっていた漢籍が日本にもたらされ、一部の上層階級の人によって、
本格的な漢字・漢文の学習が行われはじめたと推測しても大きな誤りはないであろう。」
(『漢字伝来』 岩波新書)と述べている。
当時、百済で使われていた『千字文』を持って渡来し、日本に漢字・学問を広めた
王仁は歴史上の実在人物であり、
それを否定することは出来ないと思う。
つづく

大仁八坂神社境内に王仁神社 大阪市北区大淀南
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