| Home |
2014.12.06
王仁博士2
王仁の渡来
1)王仁は、いつ日本に渡来してきたか?
4世紀~5世紀頃、朝鮮半島は高句麗・新羅。百済の3国が競合していた。百済はこの時期
経済、軍事、文化的に全盛期を迎え、高句麗を攻撃するともに積極的な外交活動も展開した。
中国の東晋と交渉すると共に、倭(日本)とは密接な関係にあった。多数の百済人が
九州・飛鳥地方に進出し、倭の国家建設に貢献するとともに両国の親密な関係を保っていた。
このような時期に、王仁は日本に渡来してきたと思われる。

百済全盛期の勢力範囲 『日韓歴史共通教材』より引用
王仁の渡来を『古事記』では、近肖古王(346~375)の時期としているが、
『日本書紀』では阿莘王(392~405)の時期としている。
年代的に30~40年間の差がある。『記・紀』の内容の違いは、
王仁の時代から200年以上の後に書かれたものであるから、
執筆者の聞き違いによる差ではなかろうか?
2)王仁をなぜ、「ワニ」と呼ぶのか?
王仁を「オウジン」、或いは「オウニン」と呼ばずに、なぜ「ワニ」と呼ぶようになったか?
理由はハングル(朝鮮語・韓国語)と日本語の発音の違いから生じたものである。
ハングルで王仁を「ワンイン」(wangin)と読み、中間の「んい」(ngn)が
連音(リエゾン)して「ワンニン」(wangnin)となる。したがって、
王仁が百済に在住の頃は「ワンニン」と呼ばれたが、
日本語に「ン」の発音がなかったため、日本(倭)に渡ってきてから
王仁は「ワニ」と呼ばれるようになったと思われる。
日本語にも、因縁を「インエン」と読まず「インネン」と読み、
観音を「カンオン」と読まず「かんのん」と読む等の連音する言葉がある。
3)王仁渡来の由来
王仁が百済から渡日するようになったのは、朝廷で活躍していた百済の学者、
阿直岐(あちき)の推薦があったからである。阿直岐は、近肖古王(百済王13代)の指示で、
雄馬と雌馬の二匹を日本王に献上して、馬の飼育を担当した。阿直岐は馬の出産、
乗馬の技術、馬具の製造技術等を教えていたが、彼が経書にも精通していることを知った
応神天皇は、彼を太子兎道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師とした。
阿直岐の学識と指導力に驚嘆した朝廷の人たちは彼を深く尊敬した。
とくに応神天皇の阿直岐に対する信任はあつかった。
『日本書紀』の記述によれば、阿直岐が任務を終えて祖国に帰るにあたって
応神天皇が「百済には、あなたより優秀な博士がいるのか?」の問いに
阿直岐は「百済には私よりはるかに学徳が高い人が多数います、…その人材の中でも
一番の学者は王仁です」と答えた。応神天皇は大変喜び、臣下の荒田別(あらたわけ)と
巫別(かむなきわけ)を使臣として百済に送り、王仁を丁重に日本に迎えた。
百済から渡来した王仁は、阿直岐を引きつぎ太子の師となった。また、
天皇の要請によって君臣、官僚たちに漢字や経典を教えた。それまでの永い間、
ごく一部の人のみの漢字の読み書きであったが、王仁がヤマト政権内支配層の
君臣、官僚たちに教えるようになって、漢字文字が次第に広範囲に普及していったと思われる。
そして多くの人々が漢字の読み書きができるようになると
経典などの学ぶ学問も急速に発展していったのではなかろうか。つづく
韓国全羅霊山郡は王仁生誕の地として「王仁記念公園」が造られた

月出山 「王仁記念公園」から眺める 国立公園
1)王仁は、いつ日本に渡来してきたか?
4世紀~5世紀頃、朝鮮半島は高句麗・新羅。百済の3国が競合していた。百済はこの時期
経済、軍事、文化的に全盛期を迎え、高句麗を攻撃するともに積極的な外交活動も展開した。
中国の東晋と交渉すると共に、倭(日本)とは密接な関係にあった。多数の百済人が
九州・飛鳥地方に進出し、倭の国家建設に貢献するとともに両国の親密な関係を保っていた。
このような時期に、王仁は日本に渡来してきたと思われる。

百済全盛期の勢力範囲 『日韓歴史共通教材』より引用
王仁の渡来を『古事記』では、近肖古王(346~375)の時期としているが、
『日本書紀』では阿莘王(392~405)の時期としている。
年代的に30~40年間の差がある。『記・紀』の内容の違いは、
王仁の時代から200年以上の後に書かれたものであるから、
執筆者の聞き違いによる差ではなかろうか?
2)王仁をなぜ、「ワニ」と呼ぶのか?
王仁を「オウジン」、或いは「オウニン」と呼ばずに、なぜ「ワニ」と呼ぶようになったか?
理由はハングル(朝鮮語・韓国語)と日本語の発音の違いから生じたものである。
ハングルで王仁を「ワンイン」(wangin)と読み、中間の「んい」(ngn)が
連音(リエゾン)して「ワンニン」(wangnin)となる。したがって、
王仁が百済に在住の頃は「ワンニン」と呼ばれたが、
日本語に「ン」の発音がなかったため、日本(倭)に渡ってきてから
王仁は「ワニ」と呼ばれるようになったと思われる。
日本語にも、因縁を「インエン」と読まず「インネン」と読み、
観音を「カンオン」と読まず「かんのん」と読む等の連音する言葉がある。
3)王仁渡来の由来
王仁が百済から渡日するようになったのは、朝廷で活躍していた百済の学者、
阿直岐(あちき)の推薦があったからである。阿直岐は、近肖古王(百済王13代)の指示で、
雄馬と雌馬の二匹を日本王に献上して、馬の飼育を担当した。阿直岐は馬の出産、
乗馬の技術、馬具の製造技術等を教えていたが、彼が経書にも精通していることを知った
応神天皇は、彼を太子兎道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師とした。
阿直岐の学識と指導力に驚嘆した朝廷の人たちは彼を深く尊敬した。
とくに応神天皇の阿直岐に対する信任はあつかった。
『日本書紀』の記述によれば、阿直岐が任務を終えて祖国に帰るにあたって
応神天皇が「百済には、あなたより優秀な博士がいるのか?」の問いに
阿直岐は「百済には私よりはるかに学徳が高い人が多数います、…その人材の中でも
一番の学者は王仁です」と答えた。応神天皇は大変喜び、臣下の荒田別(あらたわけ)と
巫別(かむなきわけ)を使臣として百済に送り、王仁を丁重に日本に迎えた。
百済から渡来した王仁は、阿直岐を引きつぎ太子の師となった。また、
天皇の要請によって君臣、官僚たちに漢字や経典を教えた。それまでの永い間、
ごく一部の人のみの漢字の読み書きであったが、王仁がヤマト政権内支配層の
君臣、官僚たちに教えるようになって、漢字文字が次第に広範囲に普及していったと思われる。
そして多くの人々が漢字の読み書きができるようになると
経典などの学ぶ学問も急速に発展していったのではなかろうか。つづく

韓国全羅霊山郡は王仁生誕の地として「王仁記念公園」が造られた

月出山 「王仁記念公園」から眺める 国立公園
| Home |