fc2ブログ
2014.12.07 王仁博士1
             はじめに

筆者は、10月中旬(2014年)、大阪府枚方市にある「王仁博士」の墓を訪れた。

墓はJR片町線長尾駅から徒歩30分はかかっただろうか?急坂の丘の上にあった。

「王仁の墓」を訪ねた理由は、王仁が百済から渡って来て、日本に漢字を伝え・

普及させるために活躍して、史上初めて博士と称えられたこと、

そして故郷に帰らず日本に定着したこと等を

自分の目で確かめブログ記事にするためであった。

    s-PA091237.jpg
        王仁の墓の入り口 寺院ではなく管理人もいなかった

    s-PA091241.jpg
        玄関口を入ると正面に墓らしき小さな森が見えた

       s-PA091240.jpg
             博士王仁之墓   大阪府史蹟

 
日本語において漢字は重要な要素である。会話をするにも漢字用語が使われ、 

文章を書くには漢字がないと文章にならない。小学生の高学年以上になると

漢字を覚えないと作文も作れないし、まして、

論文や小説、公文書等は、漢字抜きにしては全く成り立たないと言えるだろう。

これほど重要な漢字はいつ頃、どのようにして日本に伝わって来たのだろうか?

古代中国・殷時代(前1600~前1027)に漢字の原型である

甲骨文字(象形文字)が創られた。

次の西周時代(前1027~前770)時代には、現在使われている漢字の

基本的な大系が確立していた。

日本最古の歴史書である「古事記」、「日本書紀」(記紀)に、

王仁(ワニ)は応仁天皇の招聘により、儒教の経典「論語」と漢字の教本「千字文」を

携えて百済から渡来して来たと記されている。

王仁の渡来以前にも、中国から直接、或いは朝鮮半島から間接的に日本(倭)に

部分的に漢字は伝わっていたようである。しかし、本格的に漢字を習い

普及するようになったのは、王仁が貴族・官僚たちに教えるようになってからである。

貴族、官僚たちが漢字を学ぶようになり学問、文化が飛躍的に発展する契機となった。

そのことは『古事記』、『日本書紀』、『続日本記』、『万葉集』等の古代の代表的な

書物はすべて漢字で書かれていることからも容易に理解できる。

飛鳥文化、白鳳・天平文化を経て、漢字が広範囲に普及すると平易な文字、

独自の日本語の必要性がたかまり平安時代の初期になって

漢字を利用したカタ仮名、ひら仮名の日本語文字が創られるようになった。

平易な仮名文字が一般的に利用されるようになると詩、歌など

日本独自の文学、芸術、文化の花が開いた。

そのため、漢字を普及させた王仁は貴族や官僚をはじめ支配階層から

「博士」、「王仁博士」と呼ばれ、次第に「学問の始祖」として尊敬されるようになった。

   王仁像   王仁博士1
            後世に描かれた王仁の肖像画


筆者は小中学生時代、日本に漢字の教本『千字文』もって朝鮮から渡ってきた

「王仁博士」について習ったことを覚えている。最近、渡来人について

勉強する機会にめぐまれ、 改めて王仁についても学ぶことになった。

この記事は、これまで「王仁博士」について筆者が学んだ

未熟な知識と拙文を省みず記したものでる。

                      つづく
Secret

TrackBackURL
→https://tei1937.blog.fc2.com/tb.php/239-34073266