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2014.07.02
平安京遷都と秦氏一族(6)

京都東寺 平安京遷都後796年建立 世界文化遺産

3)平安京造営を推進した秦氏一族の官僚たち
平安京遷都に秦氏一族がどのように関り、いかなる役割を果したのか
行政・財政・技術の面から見てみる。
平安京遷都の提唱者は初代造営使長官となった藤原小黒麻呂である。
藤原小黒麻呂の外戚秦島麻呂は聖徳太子に仕えた秦河勝の嫡孫で、
秦氏一族の最有力者であった。島麻呂のバックアップによって、
小黒麻呂は造営長官として遷都造営の任務を遂行したと思われる。
その子葛野麻呂は小黒麻呂の死後、造営使次官となる。
二代目造営使長官は和気清麻呂(渡来人漢氏)で秦朝元(はたのちょうがん)らと
関係が深い。秦朝元は僧弁正の子で民部省の主計寮の頭(長官)を
務めた.医術、文学(『万葉集』に採録)に明るい秦氏の長老であった。
菅野真道は百済系渡来人で造営使次官を務め『続日本紀』を編纂した。
その他、秦智麻呂(ともまろ)は民部省主税寮の助(次官)、
秦足長(あしなが)は主計頭、太秦公宅守(きみのやかもり)は主計助、
秦都伎麻呂(いみきつきまろ)は造宮少工を務めた。
主計寮、主税寮は現在の大蔵省に該当し、古代国家の財政の中枢である
造営事業が巨大な出費をともなうことを考えれば、主計頭・助などの地位にある、
秦氏が遷都・造営に深く関与し、貢献したことをうかがい知ることができる。

平安京遷都・造営と同時期造苑
3)秦氏の財政協力
長岡京、平安京遷都・造営に秦氏一族が貢献したことを 最初に明らにしたのは
喜田貞吉である。喜田は「日朝同祖論」者で「朝鮮併合」を主張した学者であった。
彼は1925年、研究雑誌に平安京遷都・造営において秦氏一族が土地の提供、
財政援助について次のように論じた、
「河勝が聖徳太子の奉じて造った広隆寺は、現在、京都市の西方太秦にあるけれども
平安京造営以前は大内裏となる河勝の邸宅付近に建てられていたものである。
広隆寺の古縁起によると、もとは荒見川、すなわち今の紙屋川の付近、
おそらくは北野神社・平野神社などの方面にあったもののようである。
北野はすなわち大内裏の北の野である。おそらくこの付近一帯
河勝の邸宅地であったと察せられる。
平安京は山城北部地方で有力であった河勝の一族と地理的にも深い関係にあった。
おそらくその河勝の正嫡を承けたと思われる島麻呂は、もと河勝の邸宅たりし
平安京大内裏の地をも伝承しておったと察してよかろうと思う。
かくて今やこの島麻呂の女を妻とした小黒麻呂が、造宮職の長官となり、
その島麻呂所有の河勝旧邸の地が新宮の敷地として選ばれた。
平安京の経営の資が少なからずこの島麻呂の家より出ていると
解するはしかるべきことと思う。…はなはだしき国庫の窮乏のさいに当り、
この秦氏の因縁最も深き土地に移って、これが無難に成功するに至りたる奇現象は、
これ以外に解釈を要る余地はなかろうと思う」(研究誌『帝都』1925年)
秦氏の財政的援助は「補助的な援助にすぎない」(村井康彦)との見解もあるが、
林家辰三郎、上田正昭、井上満郎、大和岩雄ら多くの渡来人、
平安建都の研究者、専門家は平安京遷都・造営における協力は
歴史的な事実で認めるだけでなく、その貢献度は大きいと主張している。
秦氏が一族が土地の提供や財政的支援することによって、
新都・平安京建設が促進されたことは疑う余地はないだろう。

大極殿遺跡碑 千本丸太町
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