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2014.06.30
平安京遷都と秦氏一族 (5)

愛宕山から東の比叡山を望む 中央に京都盆地市街が広がる
四、平安京遷都・造営における秦氏一族の貢献
1)長岡京遷都の失敗
遷都とは、それまでの政治・経済・文化の中心地を移すことであるが、
社会改革をともなう革命的な大事業である。
財政的負担も大きく朝廷政権の命運に関わる重大な政治問題でもある。
それでも桓武天皇が長岡に遷都を決意したのには次のような理由があった。
桓武朝廷の新体制の確立、崩壊しかけた律令体制の再構築、
旧都(平城京)の守旧勢力の排除と仏教の腐敗堕落との絶縁、
乙訓郡長岡は淀川の上流で河川を利用する交通の利便性、
この地域を開拓した秦氏一族の支援が期待できた。
また、桓武天皇にとってこの地(乙訓郡大江)は、少、青年期を過ごした故郷であり、
母高野新笠出身氏族百済王氏(くだらのこにきし)の本拠地・難波百済郡と
河内交野郡が(大阪枚方市)隣接していた。
桓武天皇は即位から3年後、平城京(710~784)を捨て長岡京へ遷都した。
しかし、この遷都はわずか10年で失敗に終った。


長岡京大極殿復元(模型)
造営長官・藤原種継が暗殺され、容疑をかけられた草良親王(桓武の実弟)の
憤死による怨霊がつきまとい、2度の大洪水被害などが
長岡京失敗の理由とされているが、本当の理由は定かでない。
2)桓武天皇の平安京遷都決意
桓武天皇が長岡京から山背国葛野郡宇多村に新都を遷す決意を固めた。
なぜ、山背葛野郡に遷都を決めたか3つの理由があげられる。
まずあげられのは、渡来系氏族・和気清麻呂らの強い推薦があった。
二つ目の理由は、風水説による4神相応、三山信仰の理想的な都邑地であった、
つまり、北方(玄武)に高峰をいただき、東方(青竜)と西方(白虎)に丘陵めぐらし、
南方(朱雀)に河が流れ、中地地は盆地になっていて、その前方が開けた
平地をもつ四神相応、三山信仰の地勢が都邑地にふさわしい。
因みに、平城京も長岡京も四神相応の地相、三山信仰にもとづいて造営されている。
三つ目の理由は、都邑地の中心となる葛野郡宇多村は秦氏一族の根拠地であり、
遷都・造営には彼らの協力が期待できたからである。
秦氏一族はすでに山背盆地開発に多大な実績をつみ、
長岡京造営でも彼らの支援協力の経験があった。
実際に彼ら一族は財政、土木技術集団を擁する大勢力を誇示していた。
秦氏の富豪ぶりは国家財政を担当する大蔵官僚を輩出していた。
桓武天皇は長岡京をあきらめると、すぐさま藤原小黒麻呂(秦島麻呂娘婿)らを
山背に派遣して新しい都邑地の選定にあたらせた。
天皇自らも現地に赴き陰陽師に地相の吉凶を占わせた。
そして、桓武天皇は最終的に葛野を中心とする山背盆地・
秦氏一族の根拠地を都邑地にすることを決意した。

秦氏の遺跡と平安京の相関図 『謎の渡来人 秦氏』より引用
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