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2014.06.22
平安京遷都と秦氏一族(3)

京都盆地 市街図 中央の森は京都御苑 右に鴨川が見える
三、桓武天皇の誕生
桓武天皇は、天智天皇(中大兄皇子)の孫である光仁天皇(白壁王)を父に
、百済系氏族出身の高野新笠(たかのにいがさ)を母として、
737(太平9)年に生まれ、幼名を山部王と称した。
1)父方の血統
桓武天皇の曽祖父・中大兄皇子(なかのおうえ)は、660 年に滅亡した百済を
復興するための救援軍を派遣した。救援軍の中に滞在中の百済王子・豊璋はじめ
百済からの渡来人・亡命遺民らが加わっていた。
救援軍の先頭に斉明天皇が立って出陣したが九州で急逝した。中大兄皇子の指揮下の
百済復興救援軍は白村江(錦江)口で唐・新羅連合軍と戦い敗北した。
その後、中大兄皇子は百済の官人・貴族の余自信,、谷那晋首、木素貴子、
きょ億礼福留らとともに帰国、天智天皇となり近江朝を開いた。
天智天皇は彼らに法官、学職頭、兵法、薬方、陰陽等の官職を与え登用した。
百済の官人は行政面から近江朝を支え、朝廷周辺に多くの百済人が住み着いた。
『日本書記』によると、665年に、百済の民400余人を近江国の神崎郡に移され、
また、669年には余自信(よじしん)、佐平鬼室集斯(きしつしゅうし)ら700余人
百済の男女を近江国蒲生郡に移されたと記されている。「佐平」は百済第一の官位で、
鬼室集斯は近江朝では学問を司る長官「学識頭」を務めた。

鬼室神社 鬼室集斯の墓碑 滋賀県蒲生郡日野町
近江朝はさながら「百済の国をそのまま移してきた」かのような有様で、
天智天皇と百済とは密接な関係にあったことを覗わせる。
天智天皇の近江朝は「壬申の乱」(672)によって滅びた。
勝利した天武天皇(天智天皇の弟・大海人皇子)は都を飛鳥に移した。
以後の約100年間、天武天皇の子孫によって皇位を継いだが、
称徳天皇の逝去より天武系王統は断絶した。皇位は天智天皇の孫、光仁天皇が受け継ぎ、
次いでその子の桓武天皇が781年(45歳)で即位した。
2)母方の血統
桓武の母・高野新笠は、百済25代武寧王(501~523)の子純陀太子の後裔である
渡来人和乙継(やまとおとつぐ)の娘であり、新笠の母も同じ百済からの
渡来人土師真妹(はじのまいも)である。したがって、
桓武天皇は百済系渡来人の血脈が流れているのである。

桓武天皇 母方系譜図

高野新笠 京都市西京区大枝
桓武天皇は成長する過程の環境もまた、百済王氏(くだらのこにきしうじ)、
秦氏等の渡来系氏族らが多数定着する地域でもあった。
桓武の父・光仁天皇は不遇の時代がながく、即位したのは63才であった。
そのため山部王もまた、皇太子となる37才まで日の当たらない所で過ごした。
この間の山部王の記録は残されていない。彼は幼少期、青・壮年期に至るまで、
母方の百済王氏一族の住む山背国乙訓郡(向日市)で過ごしたと思われる。
乙訓郡には秦氏をはじめ高句麗からの渡来人も少なからず住んでいた。
また、隣接する難波百済郡河内交野(大阪枚方市)は百済王氏一族の拠点となっていた。

百済王神社 大阪枚方市交野
このような山部王の血脈と生活環境は、天皇という最高の地位・絶対権力者となった
桓武の思想や政治活動に影響があったと思われる。
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