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    桂川
        京都名所嵐山 小倉山・渡月橋・桂川

二、秦氏一族による京都盆地(山背=山城)開発
  

  京都盆地は奈良の平城京から見ると、山のうしろ側、山背(やましろ)と呼ばれた。

  山城には葛野(京都市右京区、西京区)紀伊(伏見区)、愛宕(左京区)、宇治、

 乙訓(向日市,長岡市)、相楽(木津市)等の郡があった。

  秦氏は平安京遷都の時期に突然に現れた氏族ではない。

  秦氏は5世紀前半、瀬戸内海から淀川を上り、葛野郡、紀伊郡に入植・定着した。

  彼らはこの地域を開拓し、さまざまな生産活動を行って8世紀までには

 「富裕な氏族」として成長した。

1)紀伊郡開発と秦大津父

  紀伊郡深草の秦大津父(おおつち)は欽明元年(539年)大蔵の長官となり、

  族長の待遇をうけ秦氏の民を管理した。このころ秦氏一族はますます繁栄し

 大いに暁富(にぎわい)を致す」と記されるまでになっていた。

  繁栄は人口の増加につながり、秦の民が92部18、700名に達したという。

  最近、山城盆地の木津川の左岸、精華町に森垣内(もりがいと)遺跡から

  朝鮮半島の陶質土器をとともに大壁立ちの住居が発掘された。この遺跡は、

  渡来人による窯業、鍛冶をはじめ紡織などが生産された集落跡である。

  5~6世紀、この地域には渡来人の中でも、秦大津父をはじめ秦氏一族が

  集中していたことから、秦氏居住の痕跡と見られる。(『京都と京都街道』水本邦彦)

  紀伊郡の秦氏一族の活躍で見逃すことの出来ないのは、稲荷神社創建である。

  『伏見稲荷大社略記』には、711年(和銅4年)深草の長者、秦伊呂具が勅命を受け

  三柱の神を伊奈利山の3ケ峰に祀ったのに始まると記されている。

  また、『山城国風土記』には、「伊奈利と称するのは、秦中家(はたのなかつへ)らの

 遠祖秦伊呂具公は稲や粟などの穀物を積んでゆたかに富んでいた。

  それで餅を使って的にして矢を射ると餅は白い鳥となって飛んでゆき山の峰に下り、

  そこに伊禰奈利(稲になる)生いたので、ついに神社の名とした
」と記され、

      s-稲荷
          京都伏見稲荷大社

  稲荷神社は稲の生長、豊作を願う農耕神である。

  稲荷山には一の峰、二の峰、三の峰があり、それぞれの山頂に4世紀後半のものと

  推定される古墳が残っている。秦伊呂具が稲荷神社を創建する以前から

  稲荷山にたいする民間の信仰はつづいていた。秦氏一族が深草に定着するのが

  5世紀であることから、この地の開発を進めた秦氏が土着の民間信仰ととり込み、

  秦氏一族の稲荷山信仰となり、秦伊呂具による稲荷神社創建であったと思われる。

       s-稲荷2
         稲荷神社 参道鳥居群

現在の稲荷神社が商売繁盛を願う商いの神になったのは後世になってからである。

  日本全国に稲荷神社は3万5千~5万と推定されている。数字が正確に計算できないのは、

  個人の館内に稲荷神(キツネ)を祀っているところがあり把握が出来ないからであろう。

  秦大津父の活躍以後、秦氏の中心地は南山城の紀伊郡から北山城の葛野郡へと移った。

2)葛野郡開発と秦河勝

  最近、嵯峨野周辺から秦氏の族長級のものと思われる古墳が多数発掘さ れている。

  その多くが5世紀後半から平安朝初期のものである。

  秦氏一族が巨大な勢力を築いていたことがうかがえる。

  秦氏一族の入植と彼らの開拓・ 生産活動によって平安京遷都の基礎が築かれた。  

(1)秦氏の治水開拓事業                   

  葛野川(桂川)の両岸は現在の右京区と西京区である。この領域は湿潤地で、

  たびたび川の氾濫が起こり荒廃地となるため定着が難しいところであった。

  5世紀初、秦氏一族は大阪湾から淀川上流のこの地方に入植し、開拓を始めた。

水路
         秦氏の大堰築造付近 現在図

  まず、秦氏一族が始めたのは、川の氾濫を防ぎ、水の流れを調節して両岸下流域を

  開墾するための大堰築造の工事であった。当時の土地住民には思いも及ばない

  難工事・大工事であったが先進土木技術をもつ秦氏一族はこれを完成させたのである。

  このときより葛野川を大堰川(おおい)と呼ばれようになり大堰川両岸の流域の

  開墾地が拡大していった。

        大井現在の
             現在 大堰の風景

  『秦氏本系張』には「葛野大堰を造る。天下に於いて誰か比検すること有らんか」と記し、

  秦氏の偉業をたたえている。

  渡月橋を南詰めから阪急嵐山駅方面に向って少し左に入った所に、一の井堰碑立っている。

  碑には「秦氏が5世紀頃に大堰を築造し、15世紀には松尾、桂、岡の10ケ郷の

  農地灌漑用水路として機能していた
」(一之井堰並通水利組合 1980年)と記されている。

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                 葛野大堰の碑

 現在、嵐山渡月橋上流付近に見られる堰堤は、当時の原形ではないが、

  堰堤の両側の溝に大量の水が流れていく当時の様子がわかる。

  渡月橋からこの堰堤を眺めると、千数百年前に秦氏一族が平安京開発にいかに

  尽力したか思い知らされる。

   詳細は省くが、秦氏一族は賀茂川上流の高野川の改修土木工事も行った。

(2)秦氏の農業、養蚕業

  大堰築造により桂川流域に用水が引かれて、左岸の嵯峨野、太秦、花園、山ノ内、

  右岸の松尾、上桂、桂、下桂、川岡、物集、向日町等地域の荒廃地が開墾され

  農耕地が拡大した。そして稲作をはじめ農作物のとなりこの地域は急速に発展した。

  これらの地域の繁栄は秦氏の氏神を祭る神社建立となって現れた。

  その代表的なものが、秦都理によって711年建立された松尾大社である。

  この神社の神官は秦知痲留女(ちまるめ)をはじめ代々秦氏一族が務めた。

  もとは農耕神であったが、江戸時代のころから酒造の神「日本第一醸造祖神」として

  仰がれるようになった。

      s-松尾大社
              松尾大社 

農作物の増産とともに発展したのは養蚕と機織である。

  秦氏一族は養蚕を盛んに行い、絹織物生産の拡大によって巨大な富を得た。

  現在も残る太秦広隆寺の隣に「蚕の社」(かいこのやしろ)養蚕神社がある。、

  正式名を「木島座天照御魂神社」(コノシマニマスアマテルミムスビ)といい、

  この神社は秦氏の養蚕、蚕神信仰によって建てられたと『続日本紀』に記されている。

  秦氏が養蚕によって繁栄したことを物語るものであろう。 
   
      蚕ノ社
                蚕ノ社

 八世紀頃、嵯峨野地域の耕作者114人中、秦の勢が82人と記されている、

  この地域に秦氏が大半を占め、その繁栄を示している。

(3)秦河勝の活躍

  葛野の秦河勝(生年未詳、推定565~645?)は秦氏一族の中で最も活躍し、

  歴史上にその名を残した人物である。彼は聖徳太子(屁戸皇子574~622)の

  側近中の側近で、太子からあつい信頼を受け、護衛・政治・外交・軍事を補佐した。

  彼は冠位十二階のなかでの高い冠位である小徳を与えられた。 
    
  秦河勝に関する説話を『古事記』、『日本書紀』、『新撰姓氏録』等からとり上げてみる。

  ① 推古11年(603)、皇太子(聖徳太子)は諸の太夫に、自分は尊仏像を有するが

  、「誰かこの仏像を礼拝するものはいないか」と言われた。このとき、秦河勝が進み出て、

   「私が礼拝をいたしましょう」と答え仏像をもらい受けて、蜂岡寺(広隆寺)を建てた。
 
  この時、秦河勝が聖徳太子からもらい受けた仏像が現在、広隆寺に安置されている

  「宝冠弥勒菩薩半跏思惟像」ではないかと推定されている。

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             広隆寺  弥勒菩薩像

この仏像は「永遠の微笑」、「>神秘な微笑」の像といわれ、現存する仏像の中でも

  最も「美しい表情」をした仏像と云われている。「国宝第1号」に指定された傑作である。

  朝鮮産赤松を原材にした造られた一本彫りで、この仏像に酷似した「金銅弥勒菩薩像」が

  慶州(新羅の首都)から出土した。(現在、ソウル国立博物館所蔵)

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         左 新羅金銅弥勒菩薩  右 広隆寺木造弥勒菩薩像
 
 この仏像が朝鮮でつくられたものか、日本でつくられたものか、見解の相違はあるが、

  朝鮮からの渡来人とゆかりの深い仏像であることは否定できない。

  「百歩譲って日本の赤松で造った仏だとしても、渡来の仏師が造ったものに間違いない
 
  (『京都のなかの渡来文化』 上田正昭)

 ② 推古18年(609)新羅と任那の使人が入京して朝廷を拝したが、この時、

秦河勝は土師連兔(はじむらじう)とともに新羅の使人の導者(先導者)となった。

 ③ 崇峻紀(587~592)秦河勝は「軍政」(軍政人)として軍を率いて厩戸皇子を護り、

   厩戸が放った矢が守屋の胸にあたると、すすんでその頭を斬ったとある。

   河勝が物部守屋討伐に活躍したことを物語るものである。

 ④ 推古12年(603)、厩戸皇子が山背の門野村に至り、この地に後世、

   帝都がつくられることを予言し、蜂岡の南に宮を建てること、この時、秦河勝は

   己が親族を率いて支えたので、喜んだ厩戸は河勝を小徳に叙し、宮を預け、

   新羅から献上された仏像を賜り、宮の南の水田数十町と山野の地などを与えた。

 ⑤ 秦河勝は日本における舞楽(猿楽、能)の始まりに関係したとされている。

   能役者の世阿彌は自らを河勝の子孫であると『風姿花伝』に記している。

   室町時代の能役者金春禅竹(河勝の子孫)は能樂家の氏寺・秦樂寺建立した。

 ⑥ 皇極紀(644)東国の富士川のあたりから来た大生部多(おおふべのおおし)と

   いう人が、蚕に似た虫を常世の神と称して虫をまつることをすすめた。

   この虫をまつると貧しき人は富をいたし、老いたる人も長寿をもたらすといって

   虫を飼うことをすすめたので、この俗信はたちまちひろがり、民家は財宝をすて

  、あらそってこの常世の虫を神として祭った。この俗信が山背にひろまって来たとき、

   秦河勝は民を惑わしたとして大生部多を打ちこらしめたという。

   以上のような説話からも分かるように、秦河勝は6世紀後半~7世紀 にかけて

   秦氏一族を代表する人物であった。

             s-秦河勝
           秦河勝像(広隆寺)

   秦河勝は「富蓉の家」人、 朝廷内で最も活躍した人物であったと言えるであろう。
  
   秦氏一族の活躍、繁栄を示す古墳が桂川(葛野川)北岸の

   嵯峨野地域に多数発見されている。太秦古墳群と呼ばれ、これらの古墳群から

   秦氏がいかに大集団氏族であったかをうかがい知れる。
   
   太秦の面影町にある全長30mのいわゆる前方後円墳である、

   蛇塚古墳は河勝の墳墓ではないかと推測されている。確かなことは解からないが、

   秦氏一族が太秦を中心に繁栄していたことを物語っているのではないか。

               同人誌『丹青』8号掲載記事より





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