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 はじめに  
 
 歴代天皇の中でも聖王といわれる桓武天皇は794年、平安京遷都に際して、

 「葛野の大宮の地は山川も麗しく、四方の国の百姓の参り来たらんことも便にして・・・

  この国、山河襟帯自然に城をなす。この景勝により新制すべし、よろしく国名・山背国と

  改めて山城国となすべし。また子来の民、謳歌の輩、異口同音に平安京という


  と詔勅を発し、 新しい時代の到来を宣言した。
 
  以来400年間、新都にきらびやかな平安文化が花開いた。

  平安京を母体に千二百年の歴史を刻んだ京都は、日本人の心の故郷となった。

  世界文化遺産に登録されたこともあって、文化都市京都には日本全国津々浦々から
  また、外国からも多くの観光客が訪れる。

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           京都名所   清水寺

  この平安京遷都・造営には、朝鮮半島からの渡来人が深く関わった。

  秦氏一族は早くから山城地方(京都盆地)を開拓、遷都の基礎を築いたばかりでなく、

  桓武朝廷による平安京造営に積極的に協力・貢献した。まさに、

  平安京遷都・造営は秦氏一族の協力・貢献なくして、不可能であったと云われる。

  秦氏が平安京建設で果した役割・貢献について、古代史研究者、専門家は

   史実として認識しているが、歴史教科書に載せられていないこともあって、

  一般的にはあまり知られていない。

  筆者は、先学者たちの研究にもとづいて、平安京遷都・造営に秦氏一族が

   いかなる役割・貢献したかについて記してみたい。


1、 秦氏一族による京都盆地(山城)の開発

Ⅰ)朝鮮半島から秦氏一族の渡来

  古代の巨大な氏族集団であった秦氏の日本への渡来は

  4世紀後半~6世紀と考えられている。

  当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国による覇権争いが絶え間なかった。

  中でも、北方の高句麗が次第に勢力を伸ばして百済、新羅に侵攻した。

  百済、新羅は次第に国境の南下をよぎなくされた。

  朝鮮半島南部海岸にあった加羅(伽耶)地方の小国民は

  南下する百済・新羅の挟撃にさらされ戦乱から逃れるように

  集団的、波状的に日本列島に移住・渡来してきた。

  また、加羅系だけでなく、百済系、新羅系の人々も渡来してきた、

  その中に秦氏一族も含まれていた。

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     5世紀 高句麗の拡大と百済・新羅の後退 (韓国歴史教科書引用) 

 秦氏一族は最初、北九州に定着した。とくに豊前地方には多くの秦氏一族が集中し

 「秦氏王国」(『日本にあった朝鮮王国』大和岩雄)を築くまでになった。

 「王国」を築いた説については、もう少し検証する必要であるが、

 秦氏が巨大な勢力であったことは間違いなく事実であろう。、

 秦氏は仏教や儒教などの思想と、土木、建築、製陶、機織、造仏、絵画など
 
 さまざまな新技術を持った殖産的集団であった。

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     高句麗、百済、新羅三国文化の日本伝播  (韓国歴史教科書引用)
    
  やがて秦氏一族は瀬戸内海の沿岸を北上し、

  西日本一帯と日本全国にその勢力を拡大していったと考えられる

  秦氏が何処から日本へ渡来して来たかについては

 、新羅説、百済説と加羅(伽耶)説があり、古代中国節もある。、

  加羅(伽耶)は小国群で現在の慶尚南道南海高霊、金海、咸安地方である、

  加羅が新羅に併合される以前、以後、この地方から移住してきた説である。

  また、古代中国説として秦氏は秦国(前221~205)始皇帝の後裔説がある。
 
  ① 高句麗に設置された漢四郡の半島内にあったとされる楽浪郡、帯方郡から

    渡来した。                
 
  ② 秦始皇帝の14世子孫、功満君が仲哀期に渡来した。
  
  ③ 応神紀(270~310)に始皇帝の末裔、秦氏祖・弓月君が

    120県の人夫を率いて渡来した。

 いずれの説も始皇帝の秦が倒れて500年以上経過していることから信憑性がない。

  筆者は、秦氏一族は新羅に併合される前の加羅地方から、

  併合後の新羅 から渡来してきた説を有力視している、

2)ハタ(秦)、ウズマサ(太秦)の由来 
 
  なぜ、秦をハタと読み、太秦をウズマサと呼ぶようになったか?
 
 (1)ハタ(秦)の由来
  
  ① パダ(海)説、  海を渡って来た人々。
  
  ② ハタ(機織)説、 機織る人々。  
  
  ③ ハダ(体)説、  秦氏が織った布が肌膚(ハダ)に温かい。       
  
  ④ 地名説      慶尚北道蔚珍郡の波旦(パタン)から渡来した。
   
  以上、四つの説があるが、どれも決定的な根拠はない。

  ただ、渡来人の秦氏に次ぐ大勢力であった「漢」(アヤ)氏は

  現在の慶尚南道咸安地方の 安羅(アンラ)出身者である。

  安羅出身者をアヤと呼ぶのはアンラをハングル(朝鮮語・韓国語)で

  発音するとき転化して「アヤ」と呼んだためである。

  安羅出身のアヤ氏に「漢」の漢字が当てたのは、後に彼らが

  後漢(105~230)霊帝の子孫であると称えたためである。

  これに対抗して、秦氏は漢よりも古い秦国・始皇帝(BC200~200)

  の子孫であると称え、 ハタに「秦」の字が当てられたと考えられる。

  渡来氏族が競って中国古代大帝国の秦、漢などの漢字が当てたことは、

  当時、すでに朝廷内に中華思想が浸透していたのであろう。

 (2)ウズマサ(太秦)の由来 
  
  太秦(ウズマサ)の地名が最初に登場するのは『日本書紀』の雄略紀(456~479)

  「秦の民が、四方に分散していて各豪族に使われて、

  秦造(みやつこ)の思うままにならなかった。

  秦酒公(さかのきみ)が、それを嘆いていたので、天皇は詔をだして

  秦の民92部1万8670人を 集めて酒公に賜った。

  そこで酒公は百八十種の勝部を率いて、庸調の絹・かとりを朝廷にたてまつり、

  それが朝廷に充積された。そこで禹豆麻佐(ウズマサ)という姓をあたえられた
。」

  天皇から与えられたウズマサの姓がそのまま

  秦氏の根拠地を太秦の地名になった説をはじめ、  いろいろな説があるがあるが、

  筆者は次のように考えている。
 
  秦氏の姓の一つに「勝」(マサル)があり

  「勝」姓をもつ者が秦人・秦人部・秦部を支配する立場にあった。

  ハングル(朝鮮語・韓国語)で支配者・組織の最高位・トップに立つ

  人のことを「ウズ(ドウ)モリ」と呼ぶ。

  したがって、秦の族長・太=大人(ウズモリ)と「勝」(マサ)が合成されて、

  ウズモリマサがウズマサと 簡略化かされ、

  「太秦」をウズマサと呼ぶようになったと考える。 
 
  ウズモリマサ=秦河勝が居住している場所が

  そのままウズマサ=「太秦」の地名になったのではないかと考えている。、

  現在の京都市右京区秦河勝が建立した広隆寺の場所が太秦である。
  
広隆寺 
        京都太秦  広隆寺

                          同人誌『丹青』8号記載記事より
 







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