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2014.06.12
平安京遷都と秦氏一族(1)
はじめに
歴代天皇の中でも聖王といわれる桓武天皇は794年、平安京遷都に際して、
「葛野の大宮の地は山川も麗しく、四方の国の百姓の参り来たらんことも便にして・・・
この国、山河襟帯自然に城をなす。この景勝により新制すべし、よろしく国名・山背国と
改めて山城国となすべし。また子来の民、謳歌の輩、異口同音に平安京という」
と詔勅を発し、 新しい時代の到来を宣言した。
以来400年間、新都にきらびやかな平安文化が花開いた。
平安京を母体に千二百年の歴史を刻んだ京都は、日本人の心の故郷となった。
世界文化遺産に登録されたこともあって、文化都市京都には日本全国津々浦々から
歴代天皇の中でも聖王といわれる桓武天皇は794年、平安京遷都に際して、
「葛野の大宮の地は山川も麗しく、四方の国の百姓の参り来たらんことも便にして・・・
この国、山河襟帯自然に城をなす。この景勝により新制すべし、よろしく国名・山背国と
改めて山城国となすべし。また子来の民、謳歌の輩、異口同音に平安京という」
と詔勅を発し、 新しい時代の到来を宣言した。
以来400年間、新都にきらびやかな平安文化が花開いた。
平安京を母体に千二百年の歴史を刻んだ京都は、日本人の心の故郷となった。
世界文化遺産に登録されたこともあって、文化都市京都には日本全国津々浦々から
また、外国からも多くの観光客が訪れる。
京都名所 清水寺
この平安京遷都・造営には、朝鮮半島からの渡来人が深く関わった。
秦氏一族は早くから山城地方(京都盆地)を開拓、遷都の基礎を築いたばかりでなく、
桓武朝廷による平安京造営に積極的に協力・貢献した。まさに、
平安京遷都・造営は秦氏一族の協力・貢献なくして、不可能であったと云われる。
秦氏が平安京建設で果した役割・貢献について、古代史研究者、専門家は
史実として認識しているが、歴史教科書に載せられていないこともあって、
一般的にはあまり知られていない。
筆者は、先学者たちの研究にもとづいて、平安京遷都・造営に秦氏一族が
いかなる役割・貢献したかについて記してみたい。
1、 秦氏一族による京都盆地(山城)の開発
Ⅰ)朝鮮半島から秦氏一族の渡来
古代の巨大な氏族集団であった秦氏の日本への渡来は
4世紀後半~6世紀と考えられている。
当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国による覇権争いが絶え間なかった。
中でも、北方の高句麗が次第に勢力を伸ばして百済、新羅に侵攻した。
百済、新羅は次第に国境の南下をよぎなくされた。
朝鮮半島南部海岸にあった加羅(伽耶)地方の小国民は
南下する百済・新羅の挟撃にさらされ戦乱から逃れるように
集団的、波状的に日本列島に移住・渡来してきた。
また、加羅系だけでなく、百済系、新羅系の人々も渡来してきた、
その中に秦氏一族も含まれていた。
5世紀 高句麗の拡大と百済・新羅の後退 (韓国歴史教科書引用)
秦氏一族は最初、北九州に定着した。とくに豊前地方には多くの秦氏一族が集中し
「秦氏王国」(『日本にあった朝鮮王国』大和岩雄)を築くまでになった。
「王国」を築いた説については、もう少し検証する必要であるが、
秦氏が巨大な勢力であったことは間違いなく事実であろう。、
秦氏は仏教や儒教などの思想と、土木、建築、製陶、機織、造仏、絵画など
さまざまな新技術を持った殖産的集団であった。
高句麗、百済、新羅三国文化の日本伝播 (韓国歴史教科書引用)
やがて秦氏一族は瀬戸内海の沿岸を北上し、
西日本一帯と日本全国にその勢力を拡大していったと考えられる
秦氏が何処から日本へ渡来して来たかについては
、新羅説、百済説と加羅(伽耶)説があり、古代中国節もある。、
加羅(伽耶)は小国群で現在の慶尚南道南海高霊、金海、咸安地方である、
加羅が新羅に併合される以前、以後、この地方から移住してきた説である。
また、古代中国説として秦氏は秦国(前221~205)始皇帝の後裔説がある。
① 高句麗に設置された漢四郡の半島内にあったとされる楽浪郡、帯方郡から
渡来した。
② 秦始皇帝の14世子孫、功満君が仲哀期に渡来した。
③ 応神紀(270~310)に始皇帝の末裔、秦氏祖・弓月君が
120県の人夫を率いて渡来した。
いずれの説も始皇帝の秦が倒れて500年以上経過していることから信憑性がない。
筆者は、秦氏一族は新羅に併合される前の加羅地方から、
併合後の新羅 から渡来してきた説を有力視している、
2)ハタ(秦)、ウズマサ(太秦)の由来
なぜ、秦をハタと読み、太秦をウズマサと呼ぶようになったか?
(1)ハタ(秦)の由来
① パダ(海)説、 海を渡って来た人々。
② ハタ(機織)説、 機織る人々。
③ ハダ(体)説、 秦氏が織った布が肌膚(ハダ)に温かい。
④ 地名説 慶尚北道蔚珍郡の波旦(パタン)から渡来した。
以上、四つの説があるが、どれも決定的な根拠はない。
ただ、渡来人の秦氏に次ぐ大勢力であった「漢」(アヤ)氏は
現在の慶尚南道咸安地方の 安羅(アンラ)出身者である。
安羅出身者をアヤと呼ぶのはアンラをハングル(朝鮮語・韓国語)で
発音するとき転化して「アヤ」と呼んだためである。
安羅出身のアヤ氏に「漢」の漢字が当てたのは、後に彼らが
後漢(105~230)霊帝の子孫であると称えたためである。
これに対抗して、秦氏は漢よりも古い秦国・始皇帝(BC200~200)
の子孫であると称え、 ハタに「秦」の字が当てられたと考えられる。
渡来氏族が競って中国古代大帝国の秦、漢などの漢字が当てたことは、
当時、すでに朝廷内に中華思想が浸透していたのであろう。
(2)ウズマサ(太秦)の由来
太秦(ウズマサ)の地名が最初に登場するのは『日本書紀』の雄略紀(456~479)
「秦の民が、四方に分散していて各豪族に使われて、
秦造(みやつこ)の思うままにならなかった。
秦酒公(さかのきみ)が、それを嘆いていたので、天皇は詔をだして
秦の民92部1万8670人を 集めて酒公に賜った。
そこで酒公は百八十種の勝部を率いて、庸調の絹・かとりを朝廷にたてまつり、
それが朝廷に充積された。そこで禹豆麻佐(ウズマサ)という姓をあたえられた。」
天皇から与えられたウズマサの姓がそのまま
秦氏の根拠地を太秦の地名になった説をはじめ、 いろいろな説があるがあるが、
筆者は次のように考えている。
秦氏の姓の一つに「勝」(マサル)があり
「勝」姓をもつ者が秦人・秦人部・秦部を支配する立場にあった。
ハングル(朝鮮語・韓国語)で支配者・組織の最高位・トップに立つ
人のことを「ウズ(ドウ)モリ」と呼ぶ。
したがって、秦の族長・太=大人(ウズモリ)と「勝」(マサ)が合成されて、
ウズモリマサがウズマサと 簡略化かされ、
「太秦」をウズマサと呼ぶようになったと考える。
ウズモリマサ=秦河勝が居住している場所が
そのままウズマサ=「太秦」の地名になったのではないかと考えている。、
現在の京都市右京区秦河勝が建立した広隆寺の場所が太秦である。

京都名所 清水寺
この平安京遷都・造営には、朝鮮半島からの渡来人が深く関わった。
秦氏一族は早くから山城地方(京都盆地)を開拓、遷都の基礎を築いたばかりでなく、
桓武朝廷による平安京造営に積極的に協力・貢献した。まさに、
平安京遷都・造営は秦氏一族の協力・貢献なくして、不可能であったと云われる。
秦氏が平安京建設で果した役割・貢献について、古代史研究者、専門家は
史実として認識しているが、歴史教科書に載せられていないこともあって、
一般的にはあまり知られていない。
筆者は、先学者たちの研究にもとづいて、平安京遷都・造営に秦氏一族が
いかなる役割・貢献したかについて記してみたい。
1、 秦氏一族による京都盆地(山城)の開発
Ⅰ)朝鮮半島から秦氏一族の渡来
古代の巨大な氏族集団であった秦氏の日本への渡来は
4世紀後半~6世紀と考えられている。
当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国による覇権争いが絶え間なかった。
中でも、北方の高句麗が次第に勢力を伸ばして百済、新羅に侵攻した。
百済、新羅は次第に国境の南下をよぎなくされた。
朝鮮半島南部海岸にあった加羅(伽耶)地方の小国民は
南下する百済・新羅の挟撃にさらされ戦乱から逃れるように
集団的、波状的に日本列島に移住・渡来してきた。
また、加羅系だけでなく、百済系、新羅系の人々も渡来してきた、
その中に秦氏一族も含まれていた。

5世紀 高句麗の拡大と百済・新羅の後退 (韓国歴史教科書引用)
秦氏一族は最初、北九州に定着した。とくに豊前地方には多くの秦氏一族が集中し
「秦氏王国」(『日本にあった朝鮮王国』大和岩雄)を築くまでになった。
「王国」を築いた説については、もう少し検証する必要であるが、
秦氏が巨大な勢力であったことは間違いなく事実であろう。、
秦氏は仏教や儒教などの思想と、土木、建築、製陶、機織、造仏、絵画など
さまざまな新技術を持った殖産的集団であった。

高句麗、百済、新羅三国文化の日本伝播 (韓国歴史教科書引用)
やがて秦氏一族は瀬戸内海の沿岸を北上し、
西日本一帯と日本全国にその勢力を拡大していったと考えられる
秦氏が何処から日本へ渡来して来たかについては
、新羅説、百済説と加羅(伽耶)説があり、古代中国節もある。、
加羅(伽耶)は小国群で現在の慶尚南道南海高霊、金海、咸安地方である、
加羅が新羅に併合される以前、以後、この地方から移住してきた説である。
また、古代中国説として秦氏は秦国(前221~205)始皇帝の後裔説がある。
① 高句麗に設置された漢四郡の半島内にあったとされる楽浪郡、帯方郡から
渡来した。
② 秦始皇帝の14世子孫、功満君が仲哀期に渡来した。
③ 応神紀(270~310)に始皇帝の末裔、秦氏祖・弓月君が
120県の人夫を率いて渡来した。
いずれの説も始皇帝の秦が倒れて500年以上経過していることから信憑性がない。
筆者は、秦氏一族は新羅に併合される前の加羅地方から、
併合後の新羅 から渡来してきた説を有力視している、
2)ハタ(秦)、ウズマサ(太秦)の由来
なぜ、秦をハタと読み、太秦をウズマサと呼ぶようになったか?
(1)ハタ(秦)の由来
① パダ(海)説、 海を渡って来た人々。
② ハタ(機織)説、 機織る人々。
③ ハダ(体)説、 秦氏が織った布が肌膚(ハダ)に温かい。
④ 地名説 慶尚北道蔚珍郡の波旦(パタン)から渡来した。
以上、四つの説があるが、どれも決定的な根拠はない。
ただ、渡来人の秦氏に次ぐ大勢力であった「漢」(アヤ)氏は
現在の慶尚南道咸安地方の 安羅(アンラ)出身者である。
安羅出身者をアヤと呼ぶのはアンラをハングル(朝鮮語・韓国語)で
発音するとき転化して「アヤ」と呼んだためである。
安羅出身のアヤ氏に「漢」の漢字が当てたのは、後に彼らが
後漢(105~230)霊帝の子孫であると称えたためである。
これに対抗して、秦氏は漢よりも古い秦国・始皇帝(BC200~200)
の子孫であると称え、 ハタに「秦」の字が当てられたと考えられる。
渡来氏族が競って中国古代大帝国の秦、漢などの漢字が当てたことは、
当時、すでに朝廷内に中華思想が浸透していたのであろう。
(2)ウズマサ(太秦)の由来
太秦(ウズマサ)の地名が最初に登場するのは『日本書紀』の雄略紀(456~479)
「秦の民が、四方に分散していて各豪族に使われて、
秦造(みやつこ)の思うままにならなかった。
秦酒公(さかのきみ)が、それを嘆いていたので、天皇は詔をだして
秦の民92部1万8670人を 集めて酒公に賜った。
そこで酒公は百八十種の勝部を率いて、庸調の絹・かとりを朝廷にたてまつり、
それが朝廷に充積された。そこで禹豆麻佐(ウズマサ)という姓をあたえられた。」
天皇から与えられたウズマサの姓がそのまま
秦氏の根拠地を太秦の地名になった説をはじめ、 いろいろな説があるがあるが、
筆者は次のように考えている。
秦氏の姓の一つに「勝」(マサル)があり
「勝」姓をもつ者が秦人・秦人部・秦部を支配する立場にあった。
ハングル(朝鮮語・韓国語)で支配者・組織の最高位・トップに立つ
人のことを「ウズ(ドウ)モリ」と呼ぶ。
したがって、秦の族長・太=大人(ウズモリ)と「勝」(マサ)が合成されて、
ウズモリマサがウズマサと 簡略化かされ、
「太秦」をウズマサと呼ぶようになったと考える。
ウズモリマサ=秦河勝が居住している場所が
そのままウズマサ=「太秦」の地名になったのではないかと考えている。、
現在の京都市右京区秦河勝が建立した広隆寺の場所が太秦である。
京都太秦 広隆寺
同人誌『丹青』8号記載記事より
同人誌『丹青』8号記載記事より