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2020.06.24
朝鮮通信使98
朝鮮通信使一行を大歓迎する江戸庶民
朝鮮通信使の江戸到来は、徳川幕府が将軍一代の盛儀としてその威信を高めるれる行事で、通信使一行の江戸入場時の歓迎では江戸庶民・民衆にも見物が奨励された。江戸庶民にとって朝鮮通信使行列は一生一代の見物であった。
朝鮮通信使一行が、幕府役人に先導されて品川を出発すると、日本橋から本町3丁目を通り浅草本願寺へと進む。その行列をひと目見ようと盛装した江戸の庶民が沿道をうめつくした。
その様子について、第9次(1719年)通信使の製述官申唯翰は、
「見物する男女がぎっしり埋まり、屋上を仰ぎ看れば、梁間に衆目が集まって一寸の隙間もない。衣の裾には花が飾られ、簾幕は日に輝く。大阪、京都に比べて3倍におよぶ」(『海遊録』)と述べ、江戸庶民の歓迎ぶりを伝えている。
江戸庶民の歓迎の様子は、すでに「朝鮮通信使53」 ”朝鮮通信使の江戸入場”で記したので、ここでは羽川籐永が描いた「朝鮮人來朝図」(神戸市立博物館所蔵)を基に熱狂的な歓迎の様子を、各場面ごとに画像を拡大して動画風に編集した。よりリアルな表現を試みて見たのであるが、、、
江戸時代の日本は、朝鮮だけが心を開いて交わる唯一の「通信」(よしみを通わす)国であった。貿易のみの「通商」の国(中国、オランダ)とは違い、はるかに大切に親近感をもって隣国の外交使節団・朝鮮通信使一行を迎えたことを物語っている。つづく
朝鮮通信使の江戸到来は、徳川幕府が将軍一代の盛儀としてその威信を高めるれる行事で、通信使一行の江戸入場時の歓迎では江戸庶民・民衆にも見物が奨励された。江戸庶民にとって朝鮮通信使行列は一生一代の見物であった。
朝鮮通信使一行が、幕府役人に先導されて品川を出発すると、日本橋から本町3丁目を通り浅草本願寺へと進む。その行列をひと目見ようと盛装した江戸の庶民が沿道をうめつくした。
その様子について、第9次(1719年)通信使の製述官申唯翰は、
「見物する男女がぎっしり埋まり、屋上を仰ぎ看れば、梁間に衆目が集まって一寸の隙間もない。衣の裾には花が飾られ、簾幕は日に輝く。大阪、京都に比べて3倍におよぶ」(『海遊録』)と述べ、江戸庶民の歓迎ぶりを伝えている。
江戸庶民の歓迎の様子は、すでに「朝鮮通信使53」 ”朝鮮通信使の江戸入場”で記したので、ここでは羽川籐永が描いた「朝鮮人來朝図」(神戸市立博物館所蔵)を基に熱狂的な歓迎の様子を、各場面ごとに画像を拡大して動画風に編集した。よりリアルな表現を試みて見たのであるが、、、
江戸時代の日本は、朝鮮だけが心を開いて交わる唯一の「通信」(よしみを通わす)国であった。貿易のみの「通商」の国(中国、オランダ)とは違い、はるかに大切に親近感をもって隣国の外交使節団・朝鮮通信使一行を迎えたことを物語っている。つづく
2020.06.14
朝鮮通信使97
朝鮮通信使の小田原・相模路への旅
朝鮮通信使一行は、東海道最後の難所・箱根を越え、急坂を下りて小田原に着き、小田原城南の大蓮寺に宿泊した。第2次通信使以降の宿泊所は城周辺の茶屋になった。
翌朝、小田原を出発すると大磯、藤沢を経て戸塚、保土ヶ谷、神奈川へと進む。そして通信使の旅は、いよいよ最終コースとなる江戸の入口・六郷川(多摩川)にさしかかる。この小田原・相模路にも朝鮮通信使の足跡がいくつか残されている。
小田原は、箱根の嶮を控えて江戸の西入口を押さえる要衝であった。そのため幕府は老中歴任者や譜代大名ら重臣を城主に配置した。
幕府は、朝鮮通信使が箱根に到着する3ヵ月前に、江戸から問慰使を小田原藩に派遣して迎接準備を急がせた。
箱根を下る途中、湯本のほど近くに北条氏の菩提寺・早雲寺がある。通信使はこの寺に立ち寄った形跡はないが、どうしたことか寺の山門に「金湯山 朝鮮雪峰」の扁額が掛けられている。雪峰は5次(1643年)、6次(1655年)通信使の書記・金義信の号である。おそらく早雲寺の僧が通信使の宿舎を訪ねて揮毫してもらったものと思われる。

早雲寺の山門・「金湯山」 箱根
小田原から六郷川に至る道路整備や輸送、とくに東海道を横切る酒匂川(さかわ)と馬入川(相模川)に船橋を架ける工事は沿線の 村々から多くの人馬が動員された。
馬入川は相模第一の大川で、両岸の河原に土盛をした台場を造り、長さ300m、幅3mの船橋を架橋した。並べられた船の数は69隻~90隻である。ところが1748年、10次通信使が到着直前にせっかく完成した架橋が流されてしまった。
再度の架橋を造るため緊急に相模国203ヵ村、武蔵国の36ヵ村から多くの人馬動員の「御用」が課せられた。前年が凶作であったため農民は食糧難に喘ぎながら負担であった。
そのため、大住郡北矢名村や高座郡の村々から藩に対して拝借金を願い出たり、通信使宿泊・休憩所の「賄御用」の御免を願い出ている。
こうしてせっかく掛けられ船橋は通信使が通るときのみ使用された。何とも効率の悪い、もったいない船橋架橋であった。幕府が、朝鮮通信使をいかに特別な待遇で迎えたか窺い知るところであるが、負担を背負わされた村民の不満の声も聞こえてくるようある。
このような苛酷な負担にもかかわらず、村民たちは異国の賓客・朝鮮通信使一行が到来すると、快く歓迎し、華やかな大行列に驚嘆したのであった。
国府津(神奈川県大磯町)の国府祭に通信使の行列をまねた「唐人踊り」が行われいたという。
相州淘綾(ゆるぎ)郡山西村の名主志澤家に残されている「覚書」によれば、小田原の「松屋御茶屋」に立ち寄った通信使の下官20数人が茶をゆるゆると呑みながら、日本語での会話を楽しんだと書き記されている。通信使と村民らの和やかな交流の場が想像される。
初代将軍徳川家康が駿府に隠居中、2代将軍秀忠のはからいで第一次朝鮮通信使一行は江戸からの帰途、鎌倉へ立ち寄り鶴岡八幡宮や頼朝廟、鎌倉大仏など見学したことが記録されている。
六郷川の渡し場(現川崎市川崎区)は相模国と江戸との国境である。ここに徳川将軍の命をおびた使者が通信使一行を出迎えた。
通信使一行が6郷川を渡る様子について、9次通信使の製述官申唯翰は、
「川の広さ四五百歩、彩船四隻が待つ、一は国書を奉じ、二つは使臣が分乗した。広大ではないが金彩漆光が照り映え、華麗である。また緒船集まること雲のごとく、人馬や行李を積んだ」(『海遊録』)と書いている。両岸には、ひと目見ようと見物人が押し寄せていた。

六郷川の渡し場の風景 絵
六郷川を渡った通信使一行は、夕刻に品川の東海寺玄性院に着き一泊する。東海寺に掛かる扁額「海上壇林」は、箱根の早雲寺の扁額と同じ五次通信使の書記金義信の書である。
ソウルを出発して、海路、陸路3000㎞、2~3ヵ月の長旅を終えた朝鮮通信使一行は翌日、いよいよ江戸市中入りする。
つづくspan>
朝鮮通信使一行は、東海道最後の難所・箱根を越え、急坂を下りて小田原に着き、小田原城南の大蓮寺に宿泊した。第2次通信使以降の宿泊所は城周辺の茶屋になった。
翌朝、小田原を出発すると大磯、藤沢を経て戸塚、保土ヶ谷、神奈川へと進む。そして通信使の旅は、いよいよ最終コースとなる江戸の入口・六郷川(多摩川)にさしかかる。この小田原・相模路にも朝鮮通信使の足跡がいくつか残されている。
小田原は、箱根の嶮を控えて江戸の西入口を押さえる要衝であった。そのため幕府は老中歴任者や譜代大名ら重臣を城主に配置した。
幕府は、朝鮮通信使が箱根に到着する3ヵ月前に、江戸から問慰使を小田原藩に派遣して迎接準備を急がせた。
箱根を下る途中、湯本のほど近くに北条氏の菩提寺・早雲寺がある。通信使はこの寺に立ち寄った形跡はないが、どうしたことか寺の山門に「金湯山 朝鮮雪峰」の扁額が掛けられている。雪峰は5次(1643年)、6次(1655年)通信使の書記・金義信の号である。おそらく早雲寺の僧が通信使の宿舎を訪ねて揮毫してもらったものと思われる。

早雲寺の山門・「金湯山」 箱根
小田原から六郷川に至る道路整備や輸送、とくに東海道を横切る酒匂川(さかわ)と馬入川(相模川)に船橋を架ける工事は沿線の 村々から多くの人馬が動員された。
馬入川は相模第一の大川で、両岸の河原に土盛をした台場を造り、長さ300m、幅3mの船橋を架橋した。並べられた船の数は69隻~90隻である。ところが1748年、10次通信使が到着直前にせっかく完成した架橋が流されてしまった。
再度の架橋を造るため緊急に相模国203ヵ村、武蔵国の36ヵ村から多くの人馬動員の「御用」が課せられた。前年が凶作であったため農民は食糧難に喘ぎながら負担であった。
そのため、大住郡北矢名村や高座郡の村々から藩に対して拝借金を願い出たり、通信使宿泊・休憩所の「賄御用」の御免を願い出ている。
こうしてせっかく掛けられ船橋は通信使が通るときのみ使用された。何とも効率の悪い、もったいない船橋架橋であった。幕府が、朝鮮通信使をいかに特別な待遇で迎えたか窺い知るところであるが、負担を背負わされた村民の不満の声も聞こえてくるようある。
このような苛酷な負担にもかかわらず、村民たちは異国の賓客・朝鮮通信使一行が到来すると、快く歓迎し、華やかな大行列に驚嘆したのであった。
国府津(神奈川県大磯町)の国府祭に通信使の行列をまねた「唐人踊り」が行われいたという。
相州淘綾(ゆるぎ)郡山西村の名主志澤家に残されている「覚書」によれば、小田原の「松屋御茶屋」に立ち寄った通信使の下官20数人が茶をゆるゆると呑みながら、日本語での会話を楽しんだと書き記されている。通信使と村民らの和やかな交流の場が想像される。
初代将軍徳川家康が駿府に隠居中、2代将軍秀忠のはからいで第一次朝鮮通信使一行は江戸からの帰途、鎌倉へ立ち寄り鶴岡八幡宮や頼朝廟、鎌倉大仏など見学したことが記録されている。
六郷川の渡し場(現川崎市川崎区)は相模国と江戸との国境である。ここに徳川将軍の命をおびた使者が通信使一行を出迎えた。
通信使一行が6郷川を渡る様子について、9次通信使の製述官申唯翰は、
「川の広さ四五百歩、彩船四隻が待つ、一は国書を奉じ、二つは使臣が分乗した。広大ではないが金彩漆光が照り映え、華麗である。また緒船集まること雲のごとく、人馬や行李を積んだ」(『海遊録』)と書いている。両岸には、ひと目見ようと見物人が押し寄せていた。

六郷川の渡し場の風景 絵
六郷川を渡った通信使一行は、夕刻に品川の東海寺玄性院に着き一泊する。東海寺に掛かる扁額「海上壇林」は、箱根の早雲寺の扁額と同じ五次通信使の書記金義信の書である。
ソウルを出発して、海路、陸路3000㎞、2~3ヵ月の長旅を終えた朝鮮通信使一行は翌日、いよいよ江戸市中入りする。
つづくspan>
2020.06.06
朝鮮通信使96
朝鮮通信使の富士山観賞
富士山は、日本最高峰(剣ヶ峰)の山である。日本列島のほぼ中央部に聳え、その優美な姿は日本の象徴として国内外に広く知られている。
富士山は、昔から信仰の対象として人々に崇められ数多くの芸術作品を生み出した。2014年、世界文化遺産に登録された。
富士山の雄姿は、昔のままで今も変わらない。
江戸時代、朝鮮通信使は第1回(1607年)から第12回(1811年)まで、江戸まで行かなかった第2回を除く計10回の東海道往復で富士山を観賞した。どのように観賞したのだろうか、通信使の使行録からいくつかをとり上げて見る。
朝鮮通信使一行の鑑賞場所は、白須賀(浜名湖西)、今切(浜名湖)、浜松、掛川、中山、大井川、駿府、江尻、薩埵峠、蒲原、富士川東、吉原、三島、箱根と静岡県内の東海道の名所全域に亘っている。
使節員らは富士山の雄姿を褒め称え、とくに山頂に万年雪があることに感動している。
第3回(1624)通信使の副使・慶七松(キョンチルソン)は、
「山は大平野の中にあって、三州の境界に雄雄しくそびえ立ち、白雲がつねに中腹に発生し、空に浮かんで天を覆い、山の頂上はいつも雪が積もって白く・・・まことに天下の壮観である」(『海搓録』)と述べ、万年雪が残る富士山を称えている。
第7回(1682)通信使の訳官・洪寓載(ホンウジェ)は、
「富士山の氷雪が消えないという話を、一行の中には出鱈目だと疑う人もいないわけではなかったが、今になってこれを見ると、平山に雪の痕跡があり、頂上には堆(うずたか)く盛られていた。、、疑いをもっていた心を打ち破られた」と記し、夏でも雪が残る富士山を不思議がったのである。
第9回(1719年)通信使の製述官・申維翰(シンユハン)は、
「白須賀村(静岡県湖西市南西部)を過ぎた。日本人が東の雲際を指して”富士山だ!”と叫んだ。
私は輿を停めて、東の空を眺めた。雪の積もった山頂が白いかんざしのように青い空をまっすぐ貫き、山の中腹から下は、雲のかすみにおおわれて、陰となっていた。
聞けば、ここはあの山裾から四百里(1里=400m)も離れているという。それが今、すでに、私の目の中にある。海外に、あまたある山の中でも、富士山に並ぶものはないだろう」(『海遊録』)と記し、世界の山々を直接見たはずもないのに、”世界に並ぶものがない”と褒め称えているのは、外交辞令的であるが、はじめて見る富士山の雄姿に感動したからの表現であろう。
11次(1764年)通信使の書記官・金仁謙は、
『風が吹き渡ると 白い蓮の花が半ば開いたような 白雪嵯峨たる山が姿を現した。、、優雅にして高大 雲の果てに届いている。』(『葵未隋搓録』)と記し、原(沼津市)から富士山の全貌を見渡たし感動している。

富士山を眺める通信使 葛飾北斎画
富士山を眺めながら原を通過する通信使一行の様子を、葛飾北斎が描写して「東海道五十三次」画集の一つに残した。
通信使一行が箱根峠にやっと登りつめると、眼下にひろがる芦ノ湖と左前方にそびえる富士の雄姿に、一行の誰もが感嘆の声を上げ、中国の故事にある神仙が棲む山にたとえて、その優美な姿を賞賛したのであった。

箱根峠からの眺め
朝鮮半島から海をわたって、江戸到着までの海路、陸路の長旅の中で、箱根峠でみる圧倒的な存在感のある富士山の光景は、通信使一行に感動と共に強烈な印象に残したようである。殆どの使行録に記されている。
しかし、18世紀に入り第10回(1748年)と11回(1768年)の2回の朝鮮通信使の中に、富士山の賞賛だけではなく、ナーバスな表現をした日記・記録も残さている。
「優雅で奇観ではあるが、先人の日記にあるような天下の名山というほどではない」
「箱根のほうが山脈として魅力的である」
「伝説では、始皇帝が不老不死の薬を求めて徐福を遣わし、富士山で仙薬を探させたというが、人参の産地である朝鮮を通過して、人参のない日本に来るはずがない」といった記述が見られるようになった。
こうした記事が書かれるようになった背景には、武士の国・日本に対する朝鮮の儒教文化の優越意識と朝鮮王朝(李朝)の支配階級・両班(文班・武班)の間で繰り広げられていた党争(派閥争い)があった。
通信使の使行録は正式に朝廷に報告するためであるが、使行員の日記や記録は国内用のもので、めったに日本人が読むことはなかった。
そのため、使行員個人の日記・記録は、自派閥の優位を誇示するために書かれたもの、たとえば他派閥の先輩通信使が「世界でも比類なき山」と賞賛していた富士山を、「たいした山じゃない」と批判しているのである。
そのような日記・記録を残した使行員は、「主観」・「先入観」という曇ったメガネで見たため、富士山の自然の雄姿を目前にしても素直に感動することができなかったのであろう。
富士山の自然の姿は、江戸時代も現代も変わらず優雅に聳える。いつ、何処から見ても、白雪を被った富士山の雄姿は魅せられるものがある。
筆者は、現在東京の郊外、東大和市の高層アパートの一室に居住している。ベランダから奥多摩の山稜線上に聳える富士山を遠望することが出来る。
これまで朝夕、富士山の写真を撮りつづけてきた。



筆者がベランダから撮った富士山
富士山の自然の風景は、昔も今も変わらず、朝鮮通信使が述べたように”世界に並ぶものがない"日本を象徴する名山である。
つづく
追記、筆者の富士山の記事は、「東大和どっとネット」の”まちで遊ぶ”・「玉川上水駅周辺の風景」に掲載しています。「富士山と夕日と雲」シリーズをご覧下さい。。
富士山は、日本最高峰(剣ヶ峰)の山である。日本列島のほぼ中央部に聳え、その優美な姿は日本の象徴として国内外に広く知られている。
富士山は、昔から信仰の対象として人々に崇められ数多くの芸術作品を生み出した。2014年、世界文化遺産に登録された。
富士山の雄姿は、昔のままで今も変わらない。
江戸時代、朝鮮通信使は第1回(1607年)から第12回(1811年)まで、江戸まで行かなかった第2回を除く計10回の東海道往復で富士山を観賞した。どのように観賞したのだろうか、通信使の使行録からいくつかをとり上げて見る。
朝鮮通信使一行の鑑賞場所は、白須賀(浜名湖西)、今切(浜名湖)、浜松、掛川、中山、大井川、駿府、江尻、薩埵峠、蒲原、富士川東、吉原、三島、箱根と静岡県内の東海道の名所全域に亘っている。
使節員らは富士山の雄姿を褒め称え、とくに山頂に万年雪があることに感動している。
第3回(1624)通信使の副使・慶七松(キョンチルソン)は、
「山は大平野の中にあって、三州の境界に雄雄しくそびえ立ち、白雲がつねに中腹に発生し、空に浮かんで天を覆い、山の頂上はいつも雪が積もって白く・・・まことに天下の壮観である」(『海搓録』)と述べ、万年雪が残る富士山を称えている。
第7回(1682)通信使の訳官・洪寓載(ホンウジェ)は、
「富士山の氷雪が消えないという話を、一行の中には出鱈目だと疑う人もいないわけではなかったが、今になってこれを見ると、平山に雪の痕跡があり、頂上には堆(うずたか)く盛られていた。、、疑いをもっていた心を打ち破られた」と記し、夏でも雪が残る富士山を不思議がったのである。
第9回(1719年)通信使の製述官・申維翰(シンユハン)は、
「白須賀村(静岡県湖西市南西部)を過ぎた。日本人が東の雲際を指して”富士山だ!”と叫んだ。
私は輿を停めて、東の空を眺めた。雪の積もった山頂が白いかんざしのように青い空をまっすぐ貫き、山の中腹から下は、雲のかすみにおおわれて、陰となっていた。
聞けば、ここはあの山裾から四百里(1里=400m)も離れているという。それが今、すでに、私の目の中にある。海外に、あまたある山の中でも、富士山に並ぶものはないだろう」(『海遊録』)と記し、世界の山々を直接見たはずもないのに、”世界に並ぶものがない”と褒め称えているのは、外交辞令的であるが、はじめて見る富士山の雄姿に感動したからの表現であろう。
11次(1764年)通信使の書記官・金仁謙は、
『風が吹き渡ると 白い蓮の花が半ば開いたような 白雪嵯峨たる山が姿を現した。、、優雅にして高大 雲の果てに届いている。』(『葵未隋搓録』)と記し、原(沼津市)から富士山の全貌を見渡たし感動している。

富士山を眺める通信使 葛飾北斎画
富士山を眺めながら原を通過する通信使一行の様子を、葛飾北斎が描写して「東海道五十三次」画集の一つに残した。
通信使一行が箱根峠にやっと登りつめると、眼下にひろがる芦ノ湖と左前方にそびえる富士の雄姿に、一行の誰もが感嘆の声を上げ、中国の故事にある神仙が棲む山にたとえて、その優美な姿を賞賛したのであった。

箱根峠からの眺め
朝鮮半島から海をわたって、江戸到着までの海路、陸路の長旅の中で、箱根峠でみる圧倒的な存在感のある富士山の光景は、通信使一行に感動と共に強烈な印象に残したようである。殆どの使行録に記されている。
しかし、18世紀に入り第10回(1748年)と11回(1768年)の2回の朝鮮通信使の中に、富士山の賞賛だけではなく、ナーバスな表現をした日記・記録も残さている。
「優雅で奇観ではあるが、先人の日記にあるような天下の名山というほどではない」
「箱根のほうが山脈として魅力的である」
「伝説では、始皇帝が不老不死の薬を求めて徐福を遣わし、富士山で仙薬を探させたというが、人参の産地である朝鮮を通過して、人参のない日本に来るはずがない」といった記述が見られるようになった。
こうした記事が書かれるようになった背景には、武士の国・日本に対する朝鮮の儒教文化の優越意識と朝鮮王朝(李朝)の支配階級・両班(文班・武班)の間で繰り広げられていた党争(派閥争い)があった。
通信使の使行録は正式に朝廷に報告するためであるが、使行員の日記や記録は国内用のもので、めったに日本人が読むことはなかった。
そのため、使行員個人の日記・記録は、自派閥の優位を誇示するために書かれたもの、たとえば他派閥の先輩通信使が「世界でも比類なき山」と賞賛していた富士山を、「たいした山じゃない」と批判しているのである。
そのような日記・記録を残した使行員は、「主観」・「先入観」という曇ったメガネで見たため、富士山の自然の雄姿を目前にしても素直に感動することができなかったのであろう。
富士山の自然の姿は、江戸時代も現代も変わらず優雅に聳える。いつ、何処から見ても、白雪を被った富士山の雄姿は魅せられるものがある。
筆者は、現在東京の郊外、東大和市の高層アパートの一室に居住している。ベランダから奥多摩の山稜線上に聳える富士山を遠望することが出来る。
これまで朝夕、富士山の写真を撮りつづけてきた。



筆者がベランダから撮った富士山
富士山の自然の風景は、昔も今も変わらず、朝鮮通信使が述べたように”世界に並ぶものがない"日本を象徴する名山である。
つづく
追記、筆者の富士山の記事は、「東大和どっとネット」の”まちで遊ぶ”・「玉川上水駅周辺の風景」に掲載しています。「富士山と夕日と雲」シリーズをご覧下さい。。
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