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2020.04.29
朝鮮通信使92
鈴鹿市に残る「唐人踊り」
江戸時代、朝鮮通信使の訪日は天下公認の祭事であった。6か月から8ヵ月もかかる外交使節の行列であるとともに文化交流の使節団でもあった。陸路・海路の通信使を見物した民衆の数は大変な数にのぼったと思われる。

朝鮮通信使 音楽隊
祭り好きな日本人にとって、朝鮮通信使・異国の音楽と衣装は模倣せずにいられない強烈な文化的刺激物であったに違いない。
通信使が通る沿道の農民や町民たちは、通信使の行列、音楽隊に魅せられ、自らが主人公になって豊作を祝う秋祭りなどに朝鮮笛や太鼓、ラッパをつくり楽隊を編成して吹奏しながら「辻踊り」や「唐人踊り」を楽しんだ。
朝鮮通信使が通る沿道各地で行われてた唐人行列、辻踊り、唐人踊りは、明治維新以後衰退し、ほとんどは第二次世界大戦時に廃絶した。
現在、日本を往来した朝鮮通信使の影響をうけて始まった「唐子踊り」・「唐人踊り」が、3か所において今日まで続けられている。
一か所目は、岡山県牛窓町の「唐子踊り」(参照、朝鮮通信使71)

牛窓の「唐子踊り」
二か所目は、三重県津市の「唐人踊り」(参照、朝鮮通信使90・91)

津まつりの唐人踊り
三か所目が三重県鈴鹿市東玉垣町の「唐人踊り」である。

鈴鹿市東玉垣町の唐人踊り
津市から15㎞離れた鈴鹿市の「唐人踊り」は、東玉垣町牛頭天王社祭礼の伝統芸能として受け継がれている。
東玉垣町の唐人踊りは、3人の仮面を被った唐人がドラ、うちわ、ラッパをもって現われ、笛、太鼓の曲にあわせて腰をかがめて左右に振り、飛び上がる激しい動作で踊りまくる。ドラとラッパは、津市分部町の唐人行列に使われる物とよく似ている。
東玉垣町の祭礼参加者は総勢60人、それぞれ役割をもって須賀社から東安寺まで練り歩き、夜には神輿や駕籠馬が勇壮な掛け声で町内を駆け回る。
人気の的は、なんといってもひょうきんな振りをしながら踊る唐人姿の3人、村中を進む途中、女性を見ると走りだしてからかったり、逃げるのを追いかけたりするが、女性たちも嫌がらずむしろ開放的な所作として共に楽しんでいるという。

唐人姿の踊手にだっこをねだる子供
また、東玉垣町の唐人踊りには、田植えのしぐさがあり豊作を喜ぶ素朴な農民の歓喜と感謝を表現しているのである。
「唐人踊りの音楽、旋律、歌詞は日本化しているが朝鮮音楽の影響で作られたもので、歌詞は朝鮮の古い農夫歌の五穀豊穣を祈る踊りとして即興的に歌って踊ったものを模倣したものであろう」と民族音楽専門家の草野妙子氏は述べている。
鈴鹿市の唐人踊りの由来について、東玉垣町の保存会が古老たちから聞き書きをした調査によれば、伊勢商人として江戸に進出した村の先祖が江戸で踊りの道具一式を求めて生まれ故郷に送り、唐人踊りが始まったと伝えている。
東玉垣町の唐人踊りも分部町の由来と同様、江戸に進出した伊勢商人が実際に見聞した朝鮮通信使の色鮮やかな衣装とエキゾチックな音楽に魅せられ、それを真似てつくらせ、故郷の東玉垣町の牛頭天王社に寄進、祭のなかに加えられたようである。

三重県鈴鹿市の位置図
分部町の人々も、東玉垣町の人々も、徳川家康の信頼厚かった藤堂高虎が支配する伊勢津藩に属し、幕府が開かれると商人・「士魂商才」として江戸に進出し、新しい商品、良い商品を求める商い同様、異国文化であっても良いものは良いとして、新しい朝鮮文化を受け入れる国際感覚を持ち合わせていたのであろう。

朝鮮通信使行列江戸入場絵図
また、そのような気質をもった商人、町人によって唐人踊りは地域に根づき、紆余曲折を経ながらも伝統芸能として守られてきた。
牛窓、津市、鈴鹿市の唐人踊りいずれも個性があり、それぞれ若干の違いがあるが、いずれも朝鮮通信使の江戸往還の過程で豪華な行列や朝鮮文化の影響を受けて始まり、長い歴史を経て地域のまつりとして定着したのである。
「唐子踊り」、「唐人踊り」それぞれの市や県の重要無形文化財と指定されているが、江戸時代の日朝両国の友好関係を物語る貴重な文化遺産であることは間違いないであろう。
日本に残る3か所の「唐子踊り」・「唐人踊り」は、平和と共存共栄、文化交流の象徴として、いついつまでも続けられていくことを願ってやまない。
つづく
江戸時代、朝鮮通信使の訪日は天下公認の祭事であった。6か月から8ヵ月もかかる外交使節の行列であるとともに文化交流の使節団でもあった。陸路・海路の通信使を見物した民衆の数は大変な数にのぼったと思われる。

朝鮮通信使 音楽隊
祭り好きな日本人にとって、朝鮮通信使・異国の音楽と衣装は模倣せずにいられない強烈な文化的刺激物であったに違いない。
通信使が通る沿道の農民や町民たちは、通信使の行列、音楽隊に魅せられ、自らが主人公になって豊作を祝う秋祭りなどに朝鮮笛や太鼓、ラッパをつくり楽隊を編成して吹奏しながら「辻踊り」や「唐人踊り」を楽しんだ。
朝鮮通信使が通る沿道各地で行われてた唐人行列、辻踊り、唐人踊りは、明治維新以後衰退し、ほとんどは第二次世界大戦時に廃絶した。
現在、日本を往来した朝鮮通信使の影響をうけて始まった「唐子踊り」・「唐人踊り」が、3か所において今日まで続けられている。
一か所目は、岡山県牛窓町の「唐子踊り」(参照、朝鮮通信使71)

牛窓の「唐子踊り」
二か所目は、三重県津市の「唐人踊り」(参照、朝鮮通信使90・91)

津まつりの唐人踊り
三か所目が三重県鈴鹿市東玉垣町の「唐人踊り」である。

鈴鹿市東玉垣町の唐人踊り
津市から15㎞離れた鈴鹿市の「唐人踊り」は、東玉垣町牛頭天王社祭礼の伝統芸能として受け継がれている。
東玉垣町の唐人踊りは、3人の仮面を被った唐人がドラ、うちわ、ラッパをもって現われ、笛、太鼓の曲にあわせて腰をかがめて左右に振り、飛び上がる激しい動作で踊りまくる。ドラとラッパは、津市分部町の唐人行列に使われる物とよく似ている。
東玉垣町の祭礼参加者は総勢60人、それぞれ役割をもって須賀社から東安寺まで練り歩き、夜には神輿や駕籠馬が勇壮な掛け声で町内を駆け回る。
人気の的は、なんといってもひょうきんな振りをしながら踊る唐人姿の3人、村中を進む途中、女性を見ると走りだしてからかったり、逃げるのを追いかけたりするが、女性たちも嫌がらずむしろ開放的な所作として共に楽しんでいるという。

唐人姿の踊手にだっこをねだる子供
また、東玉垣町の唐人踊りには、田植えのしぐさがあり豊作を喜ぶ素朴な農民の歓喜と感謝を表現しているのである。
「唐人踊りの音楽、旋律、歌詞は日本化しているが朝鮮音楽の影響で作られたもので、歌詞は朝鮮の古い農夫歌の五穀豊穣を祈る踊りとして即興的に歌って踊ったものを模倣したものであろう」と民族音楽専門家の草野妙子氏は述べている。
鈴鹿市の唐人踊りの由来について、東玉垣町の保存会が古老たちから聞き書きをした調査によれば、伊勢商人として江戸に進出した村の先祖が江戸で踊りの道具一式を求めて生まれ故郷に送り、唐人踊りが始まったと伝えている。
東玉垣町の唐人踊りも分部町の由来と同様、江戸に進出した伊勢商人が実際に見聞した朝鮮通信使の色鮮やかな衣装とエキゾチックな音楽に魅せられ、それを真似てつくらせ、故郷の東玉垣町の牛頭天王社に寄進、祭のなかに加えられたようである。

三重県鈴鹿市の位置図
分部町の人々も、東玉垣町の人々も、徳川家康の信頼厚かった藤堂高虎が支配する伊勢津藩に属し、幕府が開かれると商人・「士魂商才」として江戸に進出し、新しい商品、良い商品を求める商い同様、異国文化であっても良いものは良いとして、新しい朝鮮文化を受け入れる国際感覚を持ち合わせていたのであろう。

朝鮮通信使行列江戸入場絵図
また、そのような気質をもった商人、町人によって唐人踊りは地域に根づき、紆余曲折を経ながらも伝統芸能として守られてきた。
牛窓、津市、鈴鹿市の唐人踊りいずれも個性があり、それぞれ若干の違いがあるが、いずれも朝鮮通信使の江戸往還の過程で豪華な行列や朝鮮文化の影響を受けて始まり、長い歴史を経て地域のまつりとして定着したのである。
「唐子踊り」、「唐人踊り」それぞれの市や県の重要無形文化財と指定されているが、江戸時代の日朝両国の友好関係を物語る貴重な文化遺産であることは間違いないであろう。
日本に残る3か所の「唐子踊り」・「唐人踊り」は、平和と共存共栄、文化交流の象徴として、いついつまでも続けられていくことを願ってやまない。
つづく
2020.04.22
朝鮮通信使91
津市の唐人行列・唐人踊りの由来
戦国武将・藤堂高虎(1556~1630)は、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争の折、朝鮮の南原城から儒学者・姜沆(カンハン)を拉致連行して、伊予大洲城(現愛媛県大洲市)に拘留した。
拘留中の姜沆が、高い学識と教養、品格を備えていることを知った高虎は、その身柄を徳川家康が滞在する京都伏見に移し、ある程度の自由を与えた。

藤堂高虎 姜沆
姜沆は京都において藤原惺窩と会合・交流・親交を深めた。(参照、朝鮮通信使14「藤原惺窩と姜抗」)
姜沆は、藤原惺窩、角倉了以らの援助を受けて、朝鮮に無事帰国した。
藤原惺窩は、江戸時代初期に日本の儒学祖として名を成した。
藤堂高虎は、関ヶ原の戦いや大坂の陣で徳川家康につき、武功を上げて家康の信頼を得、伊賀、伊勢路の要衝の地に国替え、伊勢津藩の初代藩主となった。

津城跡に残る三層の角櫓
高虎は、家康が推し進めた朝鮮との和平交渉、その後の善隣友好の使節・朝鮮通信使の日本往還実現に協力したものと思われる。
家康は臨終の際、「国に大事あらば藤堂高虎を一番手とせよ」とまで言わしめるほど、高虎に対する家康の信頼は厚かった。
高虎は、1次朝鮮通信使(1607年)京都伏見において、2次、(1617年)3次(1624年)は江戸において迎えている。
朝鮮から連行してきた姜坑の学識と教養を認識している高虎にとって、朝鮮通信使の江戸入場から帰国するまでの全行程を見聞して、学問、医学、書画、音楽など朝鮮文化の高い水準を確認する機会になったと思われる。
そして、高虎は、朝鮮文化を国元の伊勢津藩に導入することを考えていたのではと想像される。
高虎の幕府に対する献身と朝鮮文化に対する憧憬は、2代目藩主高次に受け継がれた。
1636年、第4次朝鮮通信使が江戸往還した。この年、津八幡宮の造営が完成した。
藤堂高次は、城下町津の繁栄を促すために町々に資金を貸し与えた。各町々では、八幡宮祭礼に練り物や仮装行列を繰りだし競い合って楽しんだ。この時から分部町の唐人行列・唐人踊りが始まったと伝えられている。
なぜ、分部町の人々は唐人行列・唐人踊りを始めるようになったのか?
分部町の人々は、関ヶ原の戦いで東軍に味方して、西軍に包囲された津城に入城し戦ったという。江戸に幕府が開かれると分部町の人々は、日本橋伝馬町に店舗を開き伊勢商人の基を築いた。伊勢商人の江戸進出は高虎の尽力によるものと考えられる。
江戸繁栄の象徴であった日本橋に店舗を連ねた分部町の人々は、幕府あげての国家的盛儀であった朝鮮通信使歓待の様子を目のあたりにして、この素晴らしい異国文化を郷里の津の人々に見せたいと相談して唐人行列を計画した。当時、分部町を束ねていた四三右衛門の国際友好の精神によって、「唐人行列、歓喜踊り」が実現した。
こうして始められた唐人行列、唐人踊りは、毎年の年中行事として行われ明治維新、日清戦争、日露戦争、朝鮮植民地化(日韓併合)などの政治的事変の空白期があったが、太平洋戦争が開戦するまで続けられた。
1945年7月の津市大空襲によって、分部町は廃塵に帰した。「形名旗」だけが個人の家に残されたが、唐人行列の旗、衣装、楽器、仮面など全て焼失し、唐人行列、唐人踊りの復活は不可能な状態にあった。

朝鮮通信使の龍を描いた形名旗
しかし、分部町の人々は、戦後の苦難の中でも唐人行列、唐人踊り復興復元にとりかかり、清道旗、赤黄黒の朝鮮服、大将(正使役)の衣装、表情豊かな仮面、かね、太鼓、大ラッパ、横笛などを調達して、津まつり復興の原動力となった。
1967年、復活・津まつりに分部町町印旗を先頭に、登り龍を描いた形名旗、清道旗、役唐人、楽工(ラッパ、笛、かね、太鼓)、大将(正使)、傘もち(ひょうきんな面をつけ赤い傘を大将にさしかける)、軍官(弓矢をもつ)、ささら(朝鮮帽子をかぶり悪霊ばらいの役)、拍子木役などつぎつぎ登場した。まさに津の人々が待ちに待った賑やかな唐人行列、唐人踊りの復活であった。津市民の感激の様子が目に浮かぶ。

津まつり 唐人行列
「他の風流が次々と姿を消していった中で、この「唐人踊り」だけが連綿として3百年以上の長い生命を保っているのは、ユーモラスで異国的なあじわいと分部町の人々の変わらない熱意によるものである」と『津市史』は誇らしげに書いている。
津市に残る唐人行列、唐人踊り、380余年の歴史を振り返って見ると空白期と中断は全て戦争が原因である。
平和の大切さを思い知らされる津まつりの唐人行列・唐人踊りではなかろうか。
つづく
戦国武将・藤堂高虎(1556~1630)は、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争の折、朝鮮の南原城から儒学者・姜沆(カンハン)を拉致連行して、伊予大洲城(現愛媛県大洲市)に拘留した。
拘留中の姜沆が、高い学識と教養、品格を備えていることを知った高虎は、その身柄を徳川家康が滞在する京都伏見に移し、ある程度の自由を与えた。


藤堂高虎 姜沆
姜沆は京都において藤原惺窩と会合・交流・親交を深めた。(参照、朝鮮通信使14「藤原惺窩と姜抗」)
姜沆は、藤原惺窩、角倉了以らの援助を受けて、朝鮮に無事帰国した。
藤原惺窩は、江戸時代初期に日本の儒学祖として名を成した。
藤堂高虎は、関ヶ原の戦いや大坂の陣で徳川家康につき、武功を上げて家康の信頼を得、伊賀、伊勢路の要衝の地に国替え、伊勢津藩の初代藩主となった。

津城跡に残る三層の角櫓
高虎は、家康が推し進めた朝鮮との和平交渉、その後の善隣友好の使節・朝鮮通信使の日本往還実現に協力したものと思われる。
家康は臨終の際、「国に大事あらば藤堂高虎を一番手とせよ」とまで言わしめるほど、高虎に対する家康の信頼は厚かった。
高虎は、1次朝鮮通信使(1607年)京都伏見において、2次、(1617年)3次(1624年)は江戸において迎えている。
朝鮮から連行してきた姜坑の学識と教養を認識している高虎にとって、朝鮮通信使の江戸入場から帰国するまでの全行程を見聞して、学問、医学、書画、音楽など朝鮮文化の高い水準を確認する機会になったと思われる。
そして、高虎は、朝鮮文化を国元の伊勢津藩に導入することを考えていたのではと想像される。
高虎の幕府に対する献身と朝鮮文化に対する憧憬は、2代目藩主高次に受け継がれた。
1636年、第4次朝鮮通信使が江戸往還した。この年、津八幡宮の造営が完成した。
藤堂高次は、城下町津の繁栄を促すために町々に資金を貸し与えた。各町々では、八幡宮祭礼に練り物や仮装行列を繰りだし競い合って楽しんだ。この時から分部町の唐人行列・唐人踊りが始まったと伝えられている。
なぜ、分部町の人々は唐人行列・唐人踊りを始めるようになったのか?
分部町の人々は、関ヶ原の戦いで東軍に味方して、西軍に包囲された津城に入城し戦ったという。江戸に幕府が開かれると分部町の人々は、日本橋伝馬町に店舗を開き伊勢商人の基を築いた。伊勢商人の江戸進出は高虎の尽力によるものと考えられる。
江戸繁栄の象徴であった日本橋に店舗を連ねた分部町の人々は、幕府あげての国家的盛儀であった朝鮮通信使歓待の様子を目のあたりにして、この素晴らしい異国文化を郷里の津の人々に見せたいと相談して唐人行列を計画した。当時、分部町を束ねていた四三右衛門の国際友好の精神によって、「唐人行列、歓喜踊り」が実現した。
こうして始められた唐人行列、唐人踊りは、毎年の年中行事として行われ明治維新、日清戦争、日露戦争、朝鮮植民地化(日韓併合)などの政治的事変の空白期があったが、太平洋戦争が開戦するまで続けられた。
1945年7月の津市大空襲によって、分部町は廃塵に帰した。「形名旗」だけが個人の家に残されたが、唐人行列の旗、衣装、楽器、仮面など全て焼失し、唐人行列、唐人踊りの復活は不可能な状態にあった。

朝鮮通信使の龍を描いた形名旗
しかし、分部町の人々は、戦後の苦難の中でも唐人行列、唐人踊り復興復元にとりかかり、清道旗、赤黄黒の朝鮮服、大将(正使役)の衣装、表情豊かな仮面、かね、太鼓、大ラッパ、横笛などを調達して、津まつり復興の原動力となった。
1967年、復活・津まつりに分部町町印旗を先頭に、登り龍を描いた形名旗、清道旗、役唐人、楽工(ラッパ、笛、かね、太鼓)、大将(正使)、傘もち(ひょうきんな面をつけ赤い傘を大将にさしかける)、軍官(弓矢をもつ)、ささら(朝鮮帽子をかぶり悪霊ばらいの役)、拍子木役などつぎつぎ登場した。まさに津の人々が待ちに待った賑やかな唐人行列、唐人踊りの復活であった。津市民の感激の様子が目に浮かぶ。

津まつり 唐人行列
「他の風流が次々と姿を消していった中で、この「唐人踊り」だけが連綿として3百年以上の長い生命を保っているのは、ユーモラスで異国的なあじわいと分部町の人々の変わらない熱意によるものである」と『津市史』は誇らしげに書いている。
津市に残る唐人行列、唐人踊り、380余年の歴史を振り返って見ると空白期と中断は全て戦争が原因である。
平和の大切さを思い知らされる津まつりの唐人行列・唐人踊りではなかろうか。
つづく
2020.04.15
朝鮮通信使90
津まつりの唐人行列・唐人踊り
朝鮮通信使一行が、尾張名古屋を離れるとひたすら東海道を岡崎、浜松と東に進み江戸へ向かう。
したがって、津や鈴鹿(三重県)は東海道の沿道から外れているため朝鮮通信使は通らなかった。
ところが、不思議なことに津市や鈴鹿市に、朝鮮通信使の行列を真似た「唐人行列」、「唐人踊り」が、江戸時代から今日に至る400年もの間、練錦として続けられているのである。(江戸時代の唐人は異国人・外国人を指し、朝鮮人を唐人と呼んだ)
津まつりに登場する19町村の山車の中で、ひときわ異彩を放つのが分部町の唐人行列、唐人踊りで、江戸時代の朝鮮通信使の身なりを真似たものである。
行列の主人公らはそれぞれ喜・怒・哀・楽の面をつけ、黄・白・赤色の上着、虎皮模様のズボン、笠、わらじをつけて登場する。
止まってはラッパを吹き、笛やかね、太鼓の音に併せて、町中をユーモアあふれる仕草で練り歩き、辻々で「歓喜の踊り」を披露する。
津まつりに登場する分部町の唐人行列・唐人踊りとは どのようなものか、12枚の画像を組み合わせてストーリー風に編集して見た。
津まつりの唐人行列・唐人踊りの雰囲気でも味わえればと、敢えて作成したもので、実際のものと違いがあることを了解していただきたい。
それでは、いつから、どうして、津市や鈴鹿市で通信使を真似た唐人行列、唐人踊りが行われるようになったのか?
なぜ、津市と鈴鹿市の唐人行列・唐人踊りだけが断絶することなく、今日までつづけられているのか?
それらの理由を、次回以降の記事に記したい。
つづく
朝鮮通信使一行が、尾張名古屋を離れるとひたすら東海道を岡崎、浜松と東に進み江戸へ向かう。
したがって、津や鈴鹿(三重県)は東海道の沿道から外れているため朝鮮通信使は通らなかった。
ところが、不思議なことに津市や鈴鹿市に、朝鮮通信使の行列を真似た「唐人行列」、「唐人踊り」が、江戸時代から今日に至る400年もの間、練錦として続けられているのである。(江戸時代の唐人は異国人・外国人を指し、朝鮮人を唐人と呼んだ)
津まつりに登場する19町村の山車の中で、ひときわ異彩を放つのが分部町の唐人行列、唐人踊りで、江戸時代の朝鮮通信使の身なりを真似たものである。
行列の主人公らはそれぞれ喜・怒・哀・楽の面をつけ、黄・白・赤色の上着、虎皮模様のズボン、笠、わらじをつけて登場する。
止まってはラッパを吹き、笛やかね、太鼓の音に併せて、町中をユーモアあふれる仕草で練り歩き、辻々で「歓喜の踊り」を披露する。
津まつりに登場する分部町の唐人行列・唐人踊りとは どのようなものか、12枚の画像を組み合わせてストーリー風に編集して見た。
津まつりの唐人行列・唐人踊りの雰囲気でも味わえればと、敢えて作成したもので、実際のものと違いがあることを了解していただきたい。
それでは、いつから、どうして、津市や鈴鹿市で通信使を真似た唐人行列、唐人踊りが行われるようになったのか?
なぜ、津市と鈴鹿市の唐人行列・唐人踊りだけが断絶することなく、今日までつづけられているのか?
それらの理由を、次回以降の記事に記したい。
つづく
2020.04.08
朝鮮通信使89
尾張藩の朝鮮通信使接待
朝鮮通信使一行が、大垣を出ると美濃路から東海道へと進み尾張名古屋に向かう。約40㎞の道のり、大垣を早朝に出発したとしても、到着は夜半になる強行軍の旅である。
通信使一行の宿館は、城下大須の大雄山性高院とその周辺の寺院である。性高院は、家康の4男で早逝した松平忠吉の生母宝台院の菩提を弔うために建立された。第2次大戦中、軍事道路拡張のため名古屋大学付近に縮小移転した。

朝鮮通信使楽隊
尾張藩は、62万石の大藩、徳川御三家の一つである。徳川家雄藩の威信・名誉・面子をかけて通信使一行の接待にあたった。
通信使が名古屋に近ずくと、藩は「盗賊の他、すべてあばれ者はこの際、是非を論ぜず召し捕え候」と町触れ、予備拘禁令まで出していた。
尾張藩は、藩内915ヵ村の内813か村に通信使を迎えるために国役を課し、漁村には木曽川など河川の船橋仮設のため、船ならびに水夫・人足を加役した。村民にとっては大変な負担であった。
通信使が到着し、正使が性高院の正門をくぐると鉄砲がいっせいに号砲をうちは放った。士卒隊が夜を徹して寺町一帯を巡回し、それに鉄砲隊、火消隊まで配備されたという。
尾張藩が、通信使一行の道中安全と彼らの接待にいかに配慮、気配りをしたか窺い知るところである。
尾張藩士の朝日重章は、御畳奉行を務めながら名古屋の文人仲間と交流をもち、歌舞伎、浄瑠璃、文学など元禄時代の生活を満喫していた。彼はその過程で見聞した全てを27年間にわたって記録し続けた。その日記『鸚鵡籠日記』の中に尾張藩の朝鮮通信使接待の様子が詳しく記されている。
1711年、8次通信使を迎えたとき、「朝鮮人の好む鹿の肉を供するため、6月には2千5百人の勢子が平山谷で棚落しという捕獲法で鹿16頭を生け捕りした」(『鸚鵡籠日記』)と記録している。通信使一行が名古屋に着く4か月前から接待用の食肉の確保・準備をしていたのである。
実際に通信使に饗されたご馳走は、「正使への下行(たまもの)を予見るに、鴨1、真鴨1、このしろ5、たこ1、ぼら1、鯛1。この他鹿足1、鶏2羽、忍にく酒、味醂酒、酢、油,醤油各少徳利1つ宛入る。塩は籠に入。味噌は小樽に入。白米は鳫に入。副使、従事官へも同じ」と書き、その豪華な食事メニューに驚きを示している。
性高院は、詩文の唱和、書画の揮毫を求めて北陸、東海から学者、文人、町人がおしかけ混雑した。応対する通信使の文人たちは、一睡もできず筆をおく暇もないありさまであった。

性高院における詩文贈答の図『尾張名所図会』
重章は「その根気は称賛すべきものである」と感嘆しながら、自らも書画の揮毫を求めて長い廊下を行ったり来たり、目付けから「遠慮すべし」と注意されるが、朝鮮の文人との出会いを一生一代の栄誉と考える彼は、暁になって通信使から絵4枚を入手した。
「御目付50人、目付代わる代わる席々を見回る故予席に不入。暁方少のひまありて絵を4枚得たり、うち1枚は人形を逆さに書す」と書き、ようやく通信使から得た書画を手にした朝日重章の得意満面な姿が思い浮かぶ。
重章は通信使たちは、「いずれもいずれも容儀しずかに、君子の風あり、唐士人礼儀の国也と称美せしも虚ならざるにや。其のつかさつかさも科高きはいともおごそかに見えたり」と好評している。
通信使側から見た尾張藩の印象はどのようなものであっただろうか?
3次(1624年)通信使の副使姜弘重(カンホンジュン)は、「黄昏に名古屋に到着した。人家はどこも灯火を揚げないところはなく、また松明で道を照らして、明るいことは白昼のようであった。宝台院に宿舎を定めた。・・この地は土壌が肥沃で、村落も繁盛しており、城下は人家数万余戸あると言う」(『東沙録』)
9次(1719年)通信使製述官申維翰(シンユハン)は、「黄昏に名古屋に着いた。州俣からここまで尾張州である。繁栄はほとんど大阪と白昼する。藩主は・・関白の近親にあたり、雄府である。使館は性高院で、私の座室も傑客で高潔、ちまたを俯瞰できる。ここに来ると詩を乞う人々が人垣をつくっている」(『海遊録』)
11次(1765年)通信使正使趙厳(チョオム)は、「灯火をともして町の中を進み、性高院に到着した。館所は広大であり、人々の繁盛は京・大阪に匹敵する。ここが尾張藩主の城下町で城郭・楼閣はきわめて壮麗である。雄府と言えよう」(『海搓日記』)
いずれも朝鮮朝廷に報告するための公式文章のようなものであろう。
しかし、同じ11次通信使の書紀(3使より下位)金仁謙(キムインキョム)の次の文章がおもしろい。
「人々の容姿もすぐれて、これまた沿道随一であろう。わけても女人がみなとび抜けて美しい。明星のような瞳、朱砂の唇、白玉の歯、蛾の触角に似た細い眉、秋の蝉の羽のように透き通った額、楊貴妃も万古より美女とのほまれ高いが、この地で見れば色を失うのは必定」(『日東壮游歌』)と日本の女性に関心を示し、楊貴妃より日本の女性がより美しいとその美貌に魅了されたことを吐露ししている。
儒教思想で凝り固まった通信使高官が、日本女性に特別な関心を抱き、世俗的な観察描写していることに驚かされる。
朝鮮通信使は、尾張藩名古屋に大きな足跡を残した。通信使沿道の地域の中では、尾張藩は比較的に多くの文献、絵図、遺墨などの資料を保管・保存していた。
朝鮮通信使関連刊行物
『尾張名所図会』、『尾張名家誌』、『名古屋叢書』
朝鮮通信使関連絵図
「朝鮮人御饗応七五三膳部図」、「朝鮮人物旗仗轎輿之図」、「朝鮮来朝道絵図」、「名古屋東照宮祭礼絵巻」、「唐人行列図」、「張州雑誌」、「韓使來聘図」等々
多くの書、絵図は蓬左文庫(尾張徳川家の旧蔵書)で閲覧出来る。
追記、
1624年、徳川家康3回忌を機に東照宮祭礼(名古屋祭)が始まった。この年に第3次朝鮮通信使一行が訪れ、その豪華華麗な行列は名古屋城下の町民に強烈なインパクトを与えた。
その後、東照宮際礼は年々規模が大きくなり、その過程で朝鮮通信使風の衣装を纏った「唐人行列」や「唐子遊び山車」などが登場し、異国情緒豊かな彩りを見せたのであった。
東照宮祭礼は、毎年、神輿ととに9両の山車が連なり、6000人余りの町民が練り歩く豪華絢爛な祭であった。壮厳な祭礼は名古屋最大の年中行事として定着していた。

東照宮際 江戸時代『尾張名所図会』
明治維新後、紆余曲折を経ながらも祭りはつづけられたが、第二次大戦中、創建時の東照宮と山車が戦災で全焼してしまった。

写真 東照宮祭 明治時代
戦後、名古屋東照宮祭礼が復活し、毎年とり行わているが残念ながらかつて「唐人行列」、「唐人山車」の面影はないという。

最近の名古屋まつり
最近、「東海地方朝鮮通信使研究会」が発足、定例会を開き通信使に関わる資料の調査、研究が積み重ねられ、本『朝鮮通信使と名古屋』が出版された。
江戸時代、朝鮮通信使が名古屋に残した歴史の遺産を知る好著である。
つづく
朝鮮通信使一行が、大垣を出ると美濃路から東海道へと進み尾張名古屋に向かう。約40㎞の道のり、大垣を早朝に出発したとしても、到着は夜半になる強行軍の旅である。
通信使一行の宿館は、城下大須の大雄山性高院とその周辺の寺院である。性高院は、家康の4男で早逝した松平忠吉の生母宝台院の菩提を弔うために建立された。第2次大戦中、軍事道路拡張のため名古屋大学付近に縮小移転した。

朝鮮通信使楽隊
尾張藩は、62万石の大藩、徳川御三家の一つである。徳川家雄藩の威信・名誉・面子をかけて通信使一行の接待にあたった。
通信使が名古屋に近ずくと、藩は「盗賊の他、すべてあばれ者はこの際、是非を論ぜず召し捕え候」と町触れ、予備拘禁令まで出していた。
尾張藩は、藩内915ヵ村の内813か村に通信使を迎えるために国役を課し、漁村には木曽川など河川の船橋仮設のため、船ならびに水夫・人足を加役した。村民にとっては大変な負担であった。
通信使が到着し、正使が性高院の正門をくぐると鉄砲がいっせいに号砲をうちは放った。士卒隊が夜を徹して寺町一帯を巡回し、それに鉄砲隊、火消隊まで配備されたという。
尾張藩が、通信使一行の道中安全と彼らの接待にいかに配慮、気配りをしたか窺い知るところである。
尾張藩士の朝日重章は、御畳奉行を務めながら名古屋の文人仲間と交流をもち、歌舞伎、浄瑠璃、文学など元禄時代の生活を満喫していた。彼はその過程で見聞した全てを27年間にわたって記録し続けた。その日記『鸚鵡籠日記』の中に尾張藩の朝鮮通信使接待の様子が詳しく記されている。
1711年、8次通信使を迎えたとき、「朝鮮人の好む鹿の肉を供するため、6月には2千5百人の勢子が平山谷で棚落しという捕獲法で鹿16頭を生け捕りした」(『鸚鵡籠日記』)と記録している。通信使一行が名古屋に着く4か月前から接待用の食肉の確保・準備をしていたのである。
実際に通信使に饗されたご馳走は、「正使への下行(たまもの)を予見るに、鴨1、真鴨1、このしろ5、たこ1、ぼら1、鯛1。この他鹿足1、鶏2羽、忍にく酒、味醂酒、酢、油,醤油各少徳利1つ宛入る。塩は籠に入。味噌は小樽に入。白米は鳫に入。副使、従事官へも同じ」と書き、その豪華な食事メニューに驚きを示している。
性高院は、詩文の唱和、書画の揮毫を求めて北陸、東海から学者、文人、町人がおしかけ混雑した。応対する通信使の文人たちは、一睡もできず筆をおく暇もないありさまであった。

性高院における詩文贈答の図『尾張名所図会』
重章は「その根気は称賛すべきものである」と感嘆しながら、自らも書画の揮毫を求めて長い廊下を行ったり来たり、目付けから「遠慮すべし」と注意されるが、朝鮮の文人との出会いを一生一代の栄誉と考える彼は、暁になって通信使から絵4枚を入手した。
「御目付50人、目付代わる代わる席々を見回る故予席に不入。暁方少のひまありて絵を4枚得たり、うち1枚は人形を逆さに書す」と書き、ようやく通信使から得た書画を手にした朝日重章の得意満面な姿が思い浮かぶ。
重章は通信使たちは、「いずれもいずれも容儀しずかに、君子の風あり、唐士人礼儀の国也と称美せしも虚ならざるにや。其のつかさつかさも科高きはいともおごそかに見えたり」と好評している。
通信使側から見た尾張藩の印象はどのようなものであっただろうか?
3次(1624年)通信使の副使姜弘重(カンホンジュン)は、「黄昏に名古屋に到着した。人家はどこも灯火を揚げないところはなく、また松明で道を照らして、明るいことは白昼のようであった。宝台院に宿舎を定めた。・・この地は土壌が肥沃で、村落も繁盛しており、城下は人家数万余戸あると言う」(『東沙録』)
9次(1719年)通信使製述官申維翰(シンユハン)は、「黄昏に名古屋に着いた。州俣からここまで尾張州である。繁栄はほとんど大阪と白昼する。藩主は・・関白の近親にあたり、雄府である。使館は性高院で、私の座室も傑客で高潔、ちまたを俯瞰できる。ここに来ると詩を乞う人々が人垣をつくっている」(『海遊録』)
11次(1765年)通信使正使趙厳(チョオム)は、「灯火をともして町の中を進み、性高院に到着した。館所は広大であり、人々の繁盛は京・大阪に匹敵する。ここが尾張藩主の城下町で城郭・楼閣はきわめて壮麗である。雄府と言えよう」(『海搓日記』)
いずれも朝鮮朝廷に報告するための公式文章のようなものであろう。
しかし、同じ11次通信使の書紀(3使より下位)金仁謙(キムインキョム)の次の文章がおもしろい。
「人々の容姿もすぐれて、これまた沿道随一であろう。わけても女人がみなとび抜けて美しい。明星のような瞳、朱砂の唇、白玉の歯、蛾の触角に似た細い眉、秋の蝉の羽のように透き通った額、楊貴妃も万古より美女とのほまれ高いが、この地で見れば色を失うのは必定」(『日東壮游歌』)と日本の女性に関心を示し、楊貴妃より日本の女性がより美しいとその美貌に魅了されたことを吐露ししている。
儒教思想で凝り固まった通信使高官が、日本女性に特別な関心を抱き、世俗的な観察描写していることに驚かされる。
朝鮮通信使は、尾張藩名古屋に大きな足跡を残した。通信使沿道の地域の中では、尾張藩は比較的に多くの文献、絵図、遺墨などの資料を保管・保存していた。
朝鮮通信使関連刊行物
『尾張名所図会』、『尾張名家誌』、『名古屋叢書』
朝鮮通信使関連絵図
「朝鮮人御饗応七五三膳部図」、「朝鮮人物旗仗轎輿之図」、「朝鮮来朝道絵図」、「名古屋東照宮祭礼絵巻」、「唐人行列図」、「張州雑誌」、「韓使來聘図」等々
多くの書、絵図は蓬左文庫(尾張徳川家の旧蔵書)で閲覧出来る。
追記、
1624年、徳川家康3回忌を機に東照宮祭礼(名古屋祭)が始まった。この年に第3次朝鮮通信使一行が訪れ、その豪華華麗な行列は名古屋城下の町民に強烈なインパクトを与えた。
その後、東照宮際礼は年々規模が大きくなり、その過程で朝鮮通信使風の衣装を纏った「唐人行列」や「唐子遊び山車」などが登場し、異国情緒豊かな彩りを見せたのであった。
東照宮祭礼は、毎年、神輿ととに9両の山車が連なり、6000人余りの町民が練り歩く豪華絢爛な祭であった。壮厳な祭礼は名古屋最大の年中行事として定着していた。

東照宮際 江戸時代『尾張名所図会』
明治維新後、紆余曲折を経ながらも祭りはつづけられたが、第二次大戦中、創建時の東照宮と山車が戦災で全焼してしまった。

写真 東照宮祭 明治時代
戦後、名古屋東照宮祭礼が復活し、毎年とり行わているが残念ながらかつて「唐人行列」、「唐人山車」の面影はないという。

最近の名古屋まつり
最近、「東海地方朝鮮通信使研究会」が発足、定例会を開き通信使に関わる資料の調査、研究が積み重ねられ、本『朝鮮通信使と名古屋』が出版された。
江戸時代、朝鮮通信使が名古屋に残した歴史の遺産を知る好著である。
つづく
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