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2020.03.30
朝鮮通信使88
日朝医学交流
江戸時代、日本の医者は朝鮮の医書を基にして診察・治療を行っていた。
朝鮮の医書が日本に大量に入ってきたのは、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争の折、宇喜多秀家らが朝鮮朝廷の弘文館から大量の書物を盗み出してきた時である。その中に54種138冊の朝鮮医書が含まれていた。秀吉はその医書の全てを侍医・曲直瀬正琳(まなせまさよし)に渡した。

江戸時代に入って、徳川家康の侍医となった曲直瀬正琳は、朝鮮医書を「安養院蔵朝鮮医書目録」にまとめてその普及につとめたいう。
朝鮮では戦後、14代王宣祖の命により、名医・許浚(ホ・ジュン)が朝鮮、中国の医書を集めて編纂した『東医宝鑑』23編25巻を完成させ、1613年に刊行された。
『東医宝鑑』の内容は、内景(内科)、外形(外科)、雑編(流行病)、婦人科、小児病、湯疫(薬方)、鍼灸の各編に分かれ、各病名下に国内産薬剤の処方を付している。

1613年刊行 『東医宝鑑』
『東医宝鑑』は、それまで蓄積された東洋医学を集大成した「医学事典」であると高く評価され、当時の朝鮮国内外の医者に愛用された。
『東医宝鑑』が出版されてまもなく、朝鮮と密接な関係にあった対馬藩を通じて日本に伝わり、江戸幕府によって刊行された。多くの版を重ねて広く普及したようである。
『東医宝鑑』が普及していたことを窺い知る次のようなエピソードがある。
大阪の港に滞留中の朝鮮通信使船の病人を診察した浪花の医者樋口淳叟は、患者を全治させ通信使の正使から感謝された。彼はそのいきさつを『韓客治験』にまとめたが、日本の医者が朝鮮人からあまり信用されていない様子に憤慨して「私はあなたの国の『東医宝鑑』によって学んだ。何ぞこれ疑うことあらんや」と糺したという。

聖医 許浚像 韓国大邱市
1711年、幕府の要請により第8次朝鮮通信使一行に医学を講義する良医が加えられた。
江戸時代の名医と言われた大垣藩医・北尾春圃(しゅんほ1656~1741)は春竹、春倫、春仙、道山、春乙、春達の5人の息子をつれて、8次通信使が宿泊する大垣全昌寺を訪れ、良医・奇斗文(キ・トウムン)と夜を徹して筆談による様々な医事問答を交わした。

現在の全昌寺山門 大垣市
当時、高価で入手が困難であった朝鮮人参の代用薬の問題や難病の治療についてなど多様な医事問題の質疑応答が行われた。一夜の医事問答で春圃は大いに触発されたという。この問答は『桑韓医談』二冊(1713年)と題して京都の万屋喜兵衛から出版された。奇斗文は、北尾春圃を「東海の天民」と称えたという。
1719年、9次朝鮮通信使がやってくると、春圃の次男春倫が彦根の宗安寺まで出迎えに行き、美濃路を同行し、通信使の宿館大垣全昌寺には春圃と5人の兄弟そろって訪れた。
通信使側は、製述官申維翰(シンユハン)と良医権道(クオンド)、医員金光̪泗(キムクアンサ)らが対応した。
申維翰によれば、この日、「北尾春圃父子六人がともに来て、詩を賦す。その家は大垣にあり、みな書を読み、医を業とする。その他の書生もあって満座となり、夜半を過ぎてかえった」と書いている。にぎやかな医事に関する筆談問答がくり広げられたようである。
申維翰は日本での医学の盛んなことに驚くとともに、春圃の著書『精気神論』が優れていたので序文を贈ったと書いている。この序文は、帰国の船上で書き対馬から送られたのであった。
「医学は日本でもっとも崇尚するものである。天皇関白をはじめ各州の藩主、みな医官数人を置いて、稟料をあたえることはなはだ厚い。ゆえに、医官はみな富む・・余は筑前川おいては小野玄林を見、江戸では林太医の父子と交歓した・・北尾春圃は号を当社庵といい、その著『精気神論』数巻書が、内容の出来がよいので、余はこれに序した、製薬は精妙で、京外(中央や地方)の港や道筋の間には金牌が林の如く、それに何丸、何湯、何散などの諸薬名を書いている。そのうち和中散、通聖散というのがもっとも最も多い」(『海遊録』)
八代将軍吉宗は、朝鮮医学に特別な関心をもっていた。9次通信使が江戸に着くや、奥医師を務めていた林良以と息子の良喜を通信使の宿館浅草本願寺へ送り込み、良医権道、医員白興銓、金光泗らと医事問答をさせた。

現在の浅草東本願寺
対面は四度に及び、従来の筆談による質疑応答をより確実にするため、対馬の医師仁位元春、通詞広松茂助を同席させた。朝鮮側も3人の医師の他に製述官申維翰、書記張応斗、画員咸世輝らが参加した。
この時の医事問答をきっかけに、吉宗は本草学(薬用植物の研究)、朝鮮人参の生産に傾倒し、『東医宝鑑』をはじめ朝鮮医学の読書を好んだという。
その後、日本では本草学が盛んとなり、朝鮮人参が栽培されるようになった。
江戸時代末期、オランダ医学(蘭方医学)が普及すると、朝鮮医学は次第に後退していった。現在、江戸時代に伝わった朝鮮医学は、東洋医学として病院以外の施設で漢方薬や鍼灸治療法で細々と受け継がれている。
江戸時代の朝鮮通信使と日本の医者たちとの医事問答・医学交流の経験は、いつの時代においても、異国や異民族が医学など学術、技術などの文化交流は、お互いの国の人々の助けとなり、相互理解を深め、共存共栄のために大切であることを物語っているではなかろうか!
追記、
2009年、『東医宝鑑』は医学書として世界で初めてユネスコの世界記憶遺産に登録された。

韓国では、『東医宝鑑』の著者・許浚(ホジュン)の波乱万丈の生涯をドラマ化し大ヒットした。日本でも放映され好評であったらしい。筆者も見たが感動的なドラマであった。
つづく
江戸時代、日本の医者は朝鮮の医書を基にして診察・治療を行っていた。
朝鮮の医書が日本に大量に入ってきたのは、豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争の折、宇喜多秀家らが朝鮮朝廷の弘文館から大量の書物を盗み出してきた時である。その中に54種138冊の朝鮮医書が含まれていた。秀吉はその医書の全てを侍医・曲直瀬正琳(まなせまさよし)に渡した。

江戸時代に入って、徳川家康の侍医となった曲直瀬正琳は、朝鮮医書を「安養院蔵朝鮮医書目録」にまとめてその普及につとめたいう。
朝鮮では戦後、14代王宣祖の命により、名医・許浚(ホ・ジュン)が朝鮮、中国の医書を集めて編纂した『東医宝鑑』23編25巻を完成させ、1613年に刊行された。
『東医宝鑑』の内容は、内景(内科)、外形(外科)、雑編(流行病)、婦人科、小児病、湯疫(薬方)、鍼灸の各編に分かれ、各病名下に国内産薬剤の処方を付している。

1613年刊行 『東医宝鑑』
『東医宝鑑』は、それまで蓄積された東洋医学を集大成した「医学事典」であると高く評価され、当時の朝鮮国内外の医者に愛用された。
『東医宝鑑』が出版されてまもなく、朝鮮と密接な関係にあった対馬藩を通じて日本に伝わり、江戸幕府によって刊行された。多くの版を重ねて広く普及したようである。
『東医宝鑑』が普及していたことを窺い知る次のようなエピソードがある。
大阪の港に滞留中の朝鮮通信使船の病人を診察した浪花の医者樋口淳叟は、患者を全治させ通信使の正使から感謝された。彼はそのいきさつを『韓客治験』にまとめたが、日本の医者が朝鮮人からあまり信用されていない様子に憤慨して「私はあなたの国の『東医宝鑑』によって学んだ。何ぞこれ疑うことあらんや」と糺したという。

聖医 許浚像 韓国大邱市
1711年、幕府の要請により第8次朝鮮通信使一行に医学を講義する良医が加えられた。
江戸時代の名医と言われた大垣藩医・北尾春圃(しゅんほ1656~1741)は春竹、春倫、春仙、道山、春乙、春達の5人の息子をつれて、8次通信使が宿泊する大垣全昌寺を訪れ、良医・奇斗文(キ・トウムン)と夜を徹して筆談による様々な医事問答を交わした。

現在の全昌寺山門 大垣市
当時、高価で入手が困難であった朝鮮人参の代用薬の問題や難病の治療についてなど多様な医事問題の質疑応答が行われた。一夜の医事問答で春圃は大いに触発されたという。この問答は『桑韓医談』二冊(1713年)と題して京都の万屋喜兵衛から出版された。奇斗文は、北尾春圃を「東海の天民」と称えたという。
1719年、9次朝鮮通信使がやってくると、春圃の次男春倫が彦根の宗安寺まで出迎えに行き、美濃路を同行し、通信使の宿館大垣全昌寺には春圃と5人の兄弟そろって訪れた。
通信使側は、製述官申維翰(シンユハン)と良医権道(クオンド)、医員金光̪泗(キムクアンサ)らが対応した。
申維翰によれば、この日、「北尾春圃父子六人がともに来て、詩を賦す。その家は大垣にあり、みな書を読み、医を業とする。その他の書生もあって満座となり、夜半を過ぎてかえった」と書いている。にぎやかな医事に関する筆談問答がくり広げられたようである。
申維翰は日本での医学の盛んなことに驚くとともに、春圃の著書『精気神論』が優れていたので序文を贈ったと書いている。この序文は、帰国の船上で書き対馬から送られたのであった。
「医学は日本でもっとも崇尚するものである。天皇関白をはじめ各州の藩主、みな医官数人を置いて、稟料をあたえることはなはだ厚い。ゆえに、医官はみな富む・・余は筑前川おいては小野玄林を見、江戸では林太医の父子と交歓した・・北尾春圃は号を当社庵といい、その著『精気神論』数巻書が、内容の出来がよいので、余はこれに序した、製薬は精妙で、京外(中央や地方)の港や道筋の間には金牌が林の如く、それに何丸、何湯、何散などの諸薬名を書いている。そのうち和中散、通聖散というのがもっとも最も多い」(『海遊録』)
八代将軍吉宗は、朝鮮医学に特別な関心をもっていた。9次通信使が江戸に着くや、奥医師を務めていた林良以と息子の良喜を通信使の宿館浅草本願寺へ送り込み、良医権道、医員白興銓、金光泗らと医事問答をさせた。

現在の浅草東本願寺
対面は四度に及び、従来の筆談による質疑応答をより確実にするため、対馬の医師仁位元春、通詞広松茂助を同席させた。朝鮮側も3人の医師の他に製述官申維翰、書記張応斗、画員咸世輝らが参加した。
この時の医事問答をきっかけに、吉宗は本草学(薬用植物の研究)、朝鮮人参の生産に傾倒し、『東医宝鑑』をはじめ朝鮮医学の読書を好んだという。
その後、日本では本草学が盛んとなり、朝鮮人参が栽培されるようになった。
江戸時代末期、オランダ医学(蘭方医学)が普及すると、朝鮮医学は次第に後退していった。現在、江戸時代に伝わった朝鮮医学は、東洋医学として病院以外の施設で漢方薬や鍼灸治療法で細々と受け継がれている。
江戸時代の朝鮮通信使と日本の医者たちとの医事問答・医学交流の経験は、いつの時代においても、異国や異民族が医学など学術、技術などの文化交流は、お互いの国の人々の助けとなり、相互理解を深め、共存共栄のために大切であることを物語っているではなかろうか!
追記、
2009年、『東医宝鑑』は医学書として世界で初めてユネスコの世界記憶遺産に登録された。

韓国では、『東医宝鑑』の著者・許浚(ホジュン)の波乱万丈の生涯をドラマ化し大ヒットした。日本でも放映され好評であったらしい。筆者も見たが感動的なドラマであった。
つづく
2020.03.20
朝鮮通信使87
美濃路に残る「朝鮮山車」
朝鮮通信使一行は、彦根を出発すると摺針峠の茶屋で休憩、眼下に広がる琵琶湖最後の眺望を楽しみ、中山道を経て美濃国(岐阜県)に入いる。
美濃路は、中山道と東海道の二大街道間14里(60㎞)を結ぶバイパスである。
この道を通信使は一泊2日かけて、現在の関ヶ原町ー樽井町ー大垣市ー安八町ー墨俣町―岐阜市ー羽島市を通り、愛知県に入り名古屋へと向かう。
朝鮮通信使行列
美濃路は、戦国時代はもちろん、全国統一をはたし天下人となった豊臣秀吉によって引き起こされた朝鮮侵略戦争、そして関ヶ原の戦いに至るまで軍馬が駆け巡る戦街道のような役割をはたした。
戦争にあけくれた時代と決別してからの美濃路は、徳川将軍の上洛道・「吉例街道」として栄え、松並木がつづく美しい景観をなしていたという。
国賓として朝鮮通信使を迎えたときには、沿道の一里塚や宿所、休憩所、堤、垣根の修理は入念に行われ、直前には砂がまかれ水がうたれた。
美濃路を通る外交使節・朝鮮通信使を、ひと目見ようと押し寄せた沿道の村民らは、エキゾチックな大パレードに驚き、強烈な印象を受けたようである。

十六町の豊年踊り 大垣まつり
とくに、朝鮮通信使行列の馬の手網を引き荷を担ぐ十六町の農民たちは、身近に接した朝鮮人から受けた異文化に感銘し、自ら主人公として演ずる豊年祭りとして再現させ、仮装「朝鮮通信使」行列・豊年踊りを繰りだしたのであった。
17世紀初めから始まった十六町の豊年の秋祭りの通信使行列は、江戸時代を通してつづけられた。
通信使の宿泊地となった大垣竹嶋町では、秋の例祭に朝鮮山車(だし)による曳山行列が始められた。
町人文化が発達していた大垣竹嶋町の大黒屋河合治兵衛の先祖は、大垣全昌寺に滞在中の通信使らと接して、武骨な武士とは異なり使節員の気品溢れる物腰に感動した。そして、行列に従って名古屋まで同行しながら衣装や飾りつけの全てをスケッチして帰り、それをもとに秋祭りに繰り出す朝鮮山車をつくったのであった。朝鮮服は京都の西陣に特別に発注して揃えた。
こうして1648年秋から朝鮮山車による曳山行列が催されるようになった。
曳山行列は、正使に似せた大将官人形を乗せた山車に朝鮮王の旗を掲げて、その前後に華やかな朝鮮服を着た行列と笛、喇叭、太鼓などエキゾチックな音楽を奏でる楽隊が練り歩く勇壮活発な行列であった。
大垣竹嶋町の「全昌寺練り物」とも呼ばれた朝鮮山車は、他所では見られない異色の曳山行列と評判になり、近郷近在の見物客から秋祭りの最大の呼び物ともてはやされたという。

朝鮮山車に乗る大将官人形の衣装
しかし、江戸時代を通じて200年つづけられたこの祭りは、明治維新後、朝鮮山車は「国家神道に反する」「朝鮮王を祭りの山車に乗せるのはけしからん」と禁圧された。町民らは、「朝鮮王」の旗を「猿田彦大神」と変えて何とか祭りを続けようとしたが、「神事に関係しない」と1874年廃止された。
明治政府は、隣国朝鮮を侵略の対象とし、上から民族差別を植えつけていったために、竹嶋町の人々が朝鮮山車の「朝鮮王」装束や朝鮮服と曳山行列に使われた旗、楽器、小道具などを隠すことになったと思われる。そして世代が変わり、いつしか竹嶋町の人々も朝鮮山車のことは忘れられた。
1972年、大垣市の歴史学者・山田晴美氏が、市の文化財を研究する過程で、竹嶋町の朝鮮山車を発見した。また収納されている倉庫から先祖の遺産・数十点が見つかった。山車収納の二階の天井裏に隠されていた頑丈な木箱の中から、「朝鮮王」の装束とともに多数の朝鮮服が出てきたのである。祭りに着用された揃いの衣装で、紺の地に龍と飛雲紋が金襴(きんらん)され、金糸銀糸で刺繍されていた。
その他にも、清道旗、令旗、笛、楽器、冠など曳山行列で使われた小道具も木箱に収められていた。
100年ぶりに色あざやかな朝鮮山車、朝鮮服、楽器などが陽の目をみることになった。
発見された遺産は、岐阜県重要有形民俗文化財に指定され、現在、竹嶋町公民館に保存展示されているという。

大垣まつりの風景
竹嶋町の朝鮮通信使を模した朝鮮山車の行列は、大垣まつりのなかに取り込まれて復活した。各町から繰り出す13両の山車はそれぞれ特色のある山車であるが、竹嶋町の朝鮮山車(榊山)は、ひときわ目立つ練り物として、昔の曳山行列の名残を偲ばせているという。

大垣まつりの風景
2016年、「大垣祭の山車行事」はユネスコの「無形文化遺産」として登録され、次の2017年には、「朝鮮通信使に関する記録」について「世界記憶遺産」に登録された。
この年の11月、朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会が大垣市で開催されると、朝鮮通信使に対する関心が一気に高まり、大垣まつりは年々盛り上がっているという。

朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会ポスター
毎年5月に開催されている「大垣まつり」、一度は見学したいものである。
つづく
朝鮮通信使一行は、彦根を出発すると摺針峠の茶屋で休憩、眼下に広がる琵琶湖最後の眺望を楽しみ、中山道を経て美濃国(岐阜県)に入いる。
美濃路は、中山道と東海道の二大街道間14里(60㎞)を結ぶバイパスである。
この道を通信使は一泊2日かけて、現在の関ヶ原町ー樽井町ー大垣市ー安八町ー墨俣町―岐阜市ー羽島市を通り、愛知県に入り名古屋へと向かう。

朝鮮通信使行列
美濃路は、戦国時代はもちろん、全国統一をはたし天下人となった豊臣秀吉によって引き起こされた朝鮮侵略戦争、そして関ヶ原の戦いに至るまで軍馬が駆け巡る戦街道のような役割をはたした。
戦争にあけくれた時代と決別してからの美濃路は、徳川将軍の上洛道・「吉例街道」として栄え、松並木がつづく美しい景観をなしていたという。
国賓として朝鮮通信使を迎えたときには、沿道の一里塚や宿所、休憩所、堤、垣根の修理は入念に行われ、直前には砂がまかれ水がうたれた。
美濃路を通る外交使節・朝鮮通信使を、ひと目見ようと押し寄せた沿道の村民らは、エキゾチックな大パレードに驚き、強烈な印象を受けたようである。

十六町の豊年踊り 大垣まつり
とくに、朝鮮通信使行列の馬の手網を引き荷を担ぐ十六町の農民たちは、身近に接した朝鮮人から受けた異文化に感銘し、自ら主人公として演ずる豊年祭りとして再現させ、仮装「朝鮮通信使」行列・豊年踊りを繰りだしたのであった。
17世紀初めから始まった十六町の豊年の秋祭りの通信使行列は、江戸時代を通してつづけられた。
通信使の宿泊地となった大垣竹嶋町では、秋の例祭に朝鮮山車(だし)による曳山行列が始められた。
町人文化が発達していた大垣竹嶋町の大黒屋河合治兵衛の先祖は、大垣全昌寺に滞在中の通信使らと接して、武骨な武士とは異なり使節員の気品溢れる物腰に感動した。そして、行列に従って名古屋まで同行しながら衣装や飾りつけの全てをスケッチして帰り、それをもとに秋祭りに繰り出す朝鮮山車をつくったのであった。朝鮮服は京都の西陣に特別に発注して揃えた。
こうして1648年秋から朝鮮山車による曳山行列が催されるようになった。
曳山行列は、正使に似せた大将官人形を乗せた山車に朝鮮王の旗を掲げて、その前後に華やかな朝鮮服を着た行列と笛、喇叭、太鼓などエキゾチックな音楽を奏でる楽隊が練り歩く勇壮活発な行列であった。
大垣竹嶋町の「全昌寺練り物」とも呼ばれた朝鮮山車は、他所では見られない異色の曳山行列と評判になり、近郷近在の見物客から秋祭りの最大の呼び物ともてはやされたという。

朝鮮山車に乗る大将官人形の衣装
しかし、江戸時代を通じて200年つづけられたこの祭りは、明治維新後、朝鮮山車は「国家神道に反する」「朝鮮王を祭りの山車に乗せるのはけしからん」と禁圧された。町民らは、「朝鮮王」の旗を「猿田彦大神」と変えて何とか祭りを続けようとしたが、「神事に関係しない」と1874年廃止された。
明治政府は、隣国朝鮮を侵略の対象とし、上から民族差別を植えつけていったために、竹嶋町の人々が朝鮮山車の「朝鮮王」装束や朝鮮服と曳山行列に使われた旗、楽器、小道具などを隠すことになったと思われる。そして世代が変わり、いつしか竹嶋町の人々も朝鮮山車のことは忘れられた。
1972年、大垣市の歴史学者・山田晴美氏が、市の文化財を研究する過程で、竹嶋町の朝鮮山車を発見した。また収納されている倉庫から先祖の遺産・数十点が見つかった。山車収納の二階の天井裏に隠されていた頑丈な木箱の中から、「朝鮮王」の装束とともに多数の朝鮮服が出てきたのである。祭りに着用された揃いの衣装で、紺の地に龍と飛雲紋が金襴(きんらん)され、金糸銀糸で刺繍されていた。
その他にも、清道旗、令旗、笛、楽器、冠など曳山行列で使われた小道具も木箱に収められていた。
100年ぶりに色あざやかな朝鮮山車、朝鮮服、楽器などが陽の目をみることになった。
発見された遺産は、岐阜県重要有形民俗文化財に指定され、現在、竹嶋町公民館に保存展示されているという。

大垣まつりの風景
竹嶋町の朝鮮通信使を模した朝鮮山車の行列は、大垣まつりのなかに取り込まれて復活した。各町から繰り出す13両の山車はそれぞれ特色のある山車であるが、竹嶋町の朝鮮山車(榊山)は、ひときわ目立つ練り物として、昔の曳山行列の名残を偲ばせているという。

大垣まつりの風景
2016年、「大垣祭の山車行事」はユネスコの「無形文化遺産」として登録され、次の2017年には、「朝鮮通信使に関する記録」について「世界記憶遺産」に登録された。
この年の11月、朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会が大垣市で開催されると、朝鮮通信使に対する関心が一気に高まり、大垣まつりは年々盛り上がっているという。

朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会ポスター
毎年5月に開催されている「大垣まつり」、一度は見学したいものである。
つづく
2020.03.10
朝鮮通信使86
雨森芳洲の里3
韓国中高校生のホームステイ
琵琶湖の北、長浜市高月町・雨森芳洲の里では、1990年代から毎年夏と冬、研修旅行で日本にやってくる韓国の中高校生をうけ入れ、住民の家にホームステイさせ交流を深めている。

水車がまわる 雨森芳洲の里
韓国の中高生は、韓国青少年連盟の青少年で韓国全土から選抜されて、8日間の予定で日本を訪れるのであるが、民泊は芳洲の里だけであるという。
「高月町国際交流協会」では、東アジア諸国との交流を積極的に推進するため、最初の事業として来訪する韓国の中高生たちを受け入れ、日本の文化や生活・習慣などを直接体験してもらおうと、芳洲の里の民家に宿泊させることにしたのである。
一泊二日であるが、異国の2,3人の子供を受け入れる家庭では、言葉が通じないことや生活習慣や嗜好の違いなど、異国からやって来る中高生たちに満足してもらえるのか、不安がいっぱいだったという。
しかし、不安は無用であったようである。この行事を見守ってきた元芳洲庵館長の大村一雄氏は、
「ホストファミリーの家庭では、心づくしの料理でもてなそうとしたが、言葉が通じずせっかくのご馳走が口にしてもらえずに残念な家庭も多かった。しかし、入浴後の夕涼みや広場で催した村の子供たちとの交流会には、女生徒たちはみんな申し合わせたかのように、日本人の民族衣装である浴衣に色とりどりの帯をしめてもらって参加したのである。彼女たちは大喜びで得意満面の表情であった。そして、彼女たちを笑顔で見守るホストファミリーの人たちの温かい眼差しがそこにあった」と述べている。

韓国高校生と地元民の交流風景
交流会での韓国の生徒たちは、地元の特産品のスイカを並べてスイカ割り競争、金魚すくい、餅つきなど日本固有の催しを村の子供、お母さん、おばあさんらと楽しみ、異文化の体験を重ねて、喜びを胸いっぱいにふくらませていたという。
すばらしい日本の田舎の夜を楽しんだ生徒たちは、翌朝には満足し切った表情で集会場に集まった。僅かに一泊のえにし(縁)であるにもかかわらず生徒たちは、「日本のお母さんとてもやさしい」「日本のおばあさんとても親切」だったと口々に語り、女生徒たちは見送りにきたホストファミリーのお母さんやおばあさんの手をとり肩を抱き、涙を流しながら「カムサハンニダ、カムサハムニダ」をくり返して、別れを惜しんだという。
いま、ホストファミリーの家々にホームステイした生徒から、お礼の手紙がつぎつぎ届いているという。
大村一雄氏が紹介した2通の手紙を要約掲載する。
「・・・おじさん、おばさん、お姉さんに会いたくなると私はおばさんからいただいたお人形を見て、日本を思い出している毎日です。14時間という短い時間をすごさせて頂きましたが、それはまるで、私がそこに行って、いつの頃より知っている所のような感じがして一層なつかしかったです・・ 韓国固有の韓服を送りします。
みなさんがして下さった親切に比べものになりませんが、私の真心と思ってお受けとり下さい。何時の日かぜひ韓国に来られたときには、私の住む安東を訪問してください。私も、来年はきっと日本へ行こうと思っています。(行くことを約束します)。また、お便りを致します。
お体を気をつけて、また、会える日まで」
国や民族を超えて、人と人の温かい友好の思いが伝わってくる文である。また、民間レベルの文化交流の大切さを教えてくれるようである。
日本へ研修旅行に行くことを両親や周辺から反対されながらも参加した女生徒は、
「・・・私が想像していた暗い嫌な日本人や日本国とは、大違いでした。日本人はとても親切でやさしい人ばかりでした。日本国はとても美しい国でした。私は一週間の研修旅行で、グッドフレンドを沢山つくって、人生のすばらしい旅の思い出をつくりました・・・」(『わが町に来た朝鮮通信使<東アジア交流ハウス・雨森芳洲庵の記>』)と書き、それまでの日本に対するイメージが大きく変化したことを伝えている。
韓国の青少年にとっては、一泊のホームステイであるが、もてなしてくれた芳洲の里の人たちを通して、日本に対する印象を良くし、日本人に親密感を抱くようになったと思われる。

雨森芳洲の里・公園
今や、芳洲の里の住民と韓国の青少年とのホームステイ交流会は、毎年夏冬の恒例の行事として定着しているという。
江戸時代、先進的な国際感覚の持主だった雨森芳洲が、生涯をかけて実践した誠信外交の精神が、今、芳洲の里の村人たちに受け継がれて、日韓友好のほのぼのとした花を咲かせているようである。

雨森芳洲肖像画
こうした、芳洲の里での民間レベルの善隣友好・文化交流 の輪を広めていくことこそが、国家間の関係改善、相互理解、共存共栄の扉が大きく開かれ、東アジアや世界の平和につながってゆくのではなかろうか。
つづく
韓国中高校生のホームステイ
琵琶湖の北、長浜市高月町・雨森芳洲の里では、1990年代から毎年夏と冬、研修旅行で日本にやってくる韓国の中高校生をうけ入れ、住民の家にホームステイさせ交流を深めている。

水車がまわる 雨森芳洲の里
韓国の中高生は、韓国青少年連盟の青少年で韓国全土から選抜されて、8日間の予定で日本を訪れるのであるが、民泊は芳洲の里だけであるという。
「高月町国際交流協会」では、東アジア諸国との交流を積極的に推進するため、最初の事業として来訪する韓国の中高生たちを受け入れ、日本の文化や生活・習慣などを直接体験してもらおうと、芳洲の里の民家に宿泊させることにしたのである。
一泊二日であるが、異国の2,3人の子供を受け入れる家庭では、言葉が通じないことや生活習慣や嗜好の違いなど、異国からやって来る中高生たちに満足してもらえるのか、不安がいっぱいだったという。
しかし、不安は無用であったようである。この行事を見守ってきた元芳洲庵館長の大村一雄氏は、
「ホストファミリーの家庭では、心づくしの料理でもてなそうとしたが、言葉が通じずせっかくのご馳走が口にしてもらえずに残念な家庭も多かった。しかし、入浴後の夕涼みや広場で催した村の子供たちとの交流会には、女生徒たちはみんな申し合わせたかのように、日本人の民族衣装である浴衣に色とりどりの帯をしめてもらって参加したのである。彼女たちは大喜びで得意満面の表情であった。そして、彼女たちを笑顔で見守るホストファミリーの人たちの温かい眼差しがそこにあった」と述べている。

韓国高校生と地元民の交流風景
交流会での韓国の生徒たちは、地元の特産品のスイカを並べてスイカ割り競争、金魚すくい、餅つきなど日本固有の催しを村の子供、お母さん、おばあさんらと楽しみ、異文化の体験を重ねて、喜びを胸いっぱいにふくらませていたという。
すばらしい日本の田舎の夜を楽しんだ生徒たちは、翌朝には満足し切った表情で集会場に集まった。僅かに一泊のえにし(縁)であるにもかかわらず生徒たちは、「日本のお母さんとてもやさしい」「日本のおばあさんとても親切」だったと口々に語り、女生徒たちは見送りにきたホストファミリーのお母さんやおばあさんの手をとり肩を抱き、涙を流しながら「カムサハンニダ、カムサハムニダ」をくり返して、別れを惜しんだという。
いま、ホストファミリーの家々にホームステイした生徒から、お礼の手紙がつぎつぎ届いているという。
大村一雄氏が紹介した2通の手紙を要約掲載する。
「・・・おじさん、おばさん、お姉さんに会いたくなると私はおばさんからいただいたお人形を見て、日本を思い出している毎日です。14時間という短い時間をすごさせて頂きましたが、それはまるで、私がそこに行って、いつの頃より知っている所のような感じがして一層なつかしかったです・・ 韓国固有の韓服を送りします。
みなさんがして下さった親切に比べものになりませんが、私の真心と思ってお受けとり下さい。何時の日かぜひ韓国に来られたときには、私の住む安東を訪問してください。私も、来年はきっと日本へ行こうと思っています。(行くことを約束します)。また、お便りを致します。
お体を気をつけて、また、会える日まで」
国や民族を超えて、人と人の温かい友好の思いが伝わってくる文である。また、民間レベルの文化交流の大切さを教えてくれるようである。
日本へ研修旅行に行くことを両親や周辺から反対されながらも参加した女生徒は、
「・・・私が想像していた暗い嫌な日本人や日本国とは、大違いでした。日本人はとても親切でやさしい人ばかりでした。日本国はとても美しい国でした。私は一週間の研修旅行で、グッドフレンドを沢山つくって、人生のすばらしい旅の思い出をつくりました・・・」(『わが町に来た朝鮮通信使<東アジア交流ハウス・雨森芳洲庵の記>』)と書き、それまでの日本に対するイメージが大きく変化したことを伝えている。
韓国の青少年にとっては、一泊のホームステイであるが、もてなしてくれた芳洲の里の人たちを通して、日本に対する印象を良くし、日本人に親密感を抱くようになったと思われる。

雨森芳洲の里・公園
今や、芳洲の里の住民と韓国の青少年とのホームステイ交流会は、毎年夏冬の恒例の行事として定着しているという。
江戸時代、先進的な国際感覚の持主だった雨森芳洲が、生涯をかけて実践した誠信外交の精神が、今、芳洲の里の村人たちに受け継がれて、日韓友好のほのぼのとした花を咲かせているようである。

雨森芳洲肖像画
こうした、芳洲の里での民間レベルの善隣友好・文化交流 の輪を広めていくことこそが、国家間の関係改善、相互理解、共存共栄の扉が大きく開かれ、東アジアや世界の平和につながってゆくのではなかろうか。
つづく
2020.03.03
朝鮮通信使85
雨森芳洲の里2
「平成通信使」の民間交流
1990年6月24日、韓国の盧泰愚(ロ・テウ)大統領の訪日を歓迎する宮中晩さん会の席上、平成天皇 は「今後両国の相互理解が一層深まることを 希望する」旨のお言葉を述べられた。

宮中晩さん会 1990年6月
盧泰愚大統領は答礼あいさつの中で、
「今から270年前、朝鮮との外交にたずさわった雨森芳洲は、”誠意と信義の交際”を信条としたと伝えられます。彼の相手役であった朝鮮の玄徳潤は、東来に誠信堂を建てて日本の使節をもてなしました。今後我々両国関係も、このような相互尊重と理解の上に、共同の理想と価値を目指して発展するでありましょう」と述べ、雨森芳洲の名をとり上げて日韓関係の今後の指標にしたいと称賛したのであった。
これまで、雨森芳洲の名は、芳洲の出身地元民と専門家、朝鮮通信使に関心をもつ人に限られ、殆どの日本人はその名を知らなかった。
一国の大統領の名指しを受けて、雨森芳洲は日本の歴史上の人物としてクローズアップされると共に、国際社会のひのき舞台に主役として登場したのであるから、ビックリしたのは地元民である。テレビや新聞のニュースで知った芳洲の里・長浜市高月町の町全体が感激と興奮につつまれいたという。
芳洲の里の人たちは、すぐさま大統領に感謝の意を表するため、地元小学校運動所で児童とPTAによる「アンニョンハシムニカ 盧大統領ありがとう 世界に光れ芳洲先生」の人文字を描き、写真パネルにして盧大統領に贈呈したという。町おこしに努力してきた地元民の興奮と大喜びの様子が伝わってくる。

富永小学校運動場
その後、町長以下50名の有志が、盧大統領にお礼を意味をかねて、韓国を訪問した。訪問団は、その名を「朝鮮通信使」にあやかって「平成の通信使」と名付けた。
ソウルでは、歓迎のレセプションに、芳洲庵を研修訪問したことのある高校生たちが、心づくしのプレゼント手にして駆けつけ「平成の通信使」を歓迎したという。
1992年、二回目の「平成の通信使」が訪韓した際は、釜山市東來にある蓬莱国民学校と芳洲の里の長浜市立富永小学校とが姉妹校として提携することになった。

蓬莱山頂から釜山市を眺望
300年の昔、雨宮芳洲が対馬藩の真文役として釜山の草梁倭館(参照・朝鮮通信使9)に赴任中、親交のあった地方官・玄徳潤が私財を投じて、日本の使節をもてなす「誠信堂」を蓬莱山の麓に建てた。現在、その跡地に蓬莱国民学校がある。
姉妹校の提携は、江戸時代の雨宮芳洲と玄徳潤という偉大な善隣友好の心を現代の子供たちに継承させよういうもので、両校の校長とPTA会長が調印に参加したという。
このような韓国との交流活動を踏まえ、高月町では芳洲庵を中心に「高月町国際交流協会」を発足させ、町民ぐるみで他国との交流を積極的に推進することになった。

芳洲の里がある長浜市高月町
先ず最初の取り組みとして、韓国から来訪する中・高校生たちに協会員の家庭に一泊のホームステイさせ、日本の文化や生活・習慣などを直接体験してもらうことであった。
その後、芳洲の里では毎年夏・冬に韓国から200~300人の高校生を受け入れて2,3人づつ各家庭に民泊させて交流を深めているという。
次回、その交流の様子を伝えたい。
つづく
「平成通信使」の民間交流
1990年6月24日、韓国の盧泰愚(ロ・テウ)大統領の訪日を歓迎する宮中晩さん会の席上、平成天皇 は「今後両国の相互理解が一層深まることを 希望する」旨のお言葉を述べられた。

宮中晩さん会 1990年6月
盧泰愚大統領は答礼あいさつの中で、
「今から270年前、朝鮮との外交にたずさわった雨森芳洲は、”誠意と信義の交際”を信条としたと伝えられます。彼の相手役であった朝鮮の玄徳潤は、東来に誠信堂を建てて日本の使節をもてなしました。今後我々両国関係も、このような相互尊重と理解の上に、共同の理想と価値を目指して発展するでありましょう」と述べ、雨森芳洲の名をとり上げて日韓関係の今後の指標にしたいと称賛したのであった。
これまで、雨森芳洲の名は、芳洲の出身地元民と専門家、朝鮮通信使に関心をもつ人に限られ、殆どの日本人はその名を知らなかった。
一国の大統領の名指しを受けて、雨森芳洲は日本の歴史上の人物としてクローズアップされると共に、国際社会のひのき舞台に主役として登場したのであるから、ビックリしたのは地元民である。テレビや新聞のニュースで知った芳洲の里・長浜市高月町の町全体が感激と興奮につつまれいたという。
芳洲の里の人たちは、すぐさま大統領に感謝の意を表するため、地元小学校運動所で児童とPTAによる「アンニョンハシムニカ 盧大統領ありがとう 世界に光れ芳洲先生」の人文字を描き、写真パネルにして盧大統領に贈呈したという。町おこしに努力してきた地元民の興奮と大喜びの様子が伝わってくる。

富永小学校運動場
その後、町長以下50名の有志が、盧大統領にお礼を意味をかねて、韓国を訪問した。訪問団は、その名を「朝鮮通信使」にあやかって「平成の通信使」と名付けた。
ソウルでは、歓迎のレセプションに、芳洲庵を研修訪問したことのある高校生たちが、心づくしのプレゼント手にして駆けつけ「平成の通信使」を歓迎したという。
1992年、二回目の「平成の通信使」が訪韓した際は、釜山市東來にある蓬莱国民学校と芳洲の里の長浜市立富永小学校とが姉妹校として提携することになった。

蓬莱山頂から釜山市を眺望
300年の昔、雨宮芳洲が対馬藩の真文役として釜山の草梁倭館(参照・朝鮮通信使9)に赴任中、親交のあった地方官・玄徳潤が私財を投じて、日本の使節をもてなす「誠信堂」を蓬莱山の麓に建てた。現在、その跡地に蓬莱国民学校がある。
姉妹校の提携は、江戸時代の雨宮芳洲と玄徳潤という偉大な善隣友好の心を現代の子供たちに継承させよういうもので、両校の校長とPTA会長が調印に参加したという。
このような韓国との交流活動を踏まえ、高月町では芳洲庵を中心に「高月町国際交流協会」を発足させ、町民ぐるみで他国との交流を積極的に推進することになった。

芳洲の里がある長浜市高月町
先ず最初の取り組みとして、韓国から来訪する中・高校生たちに協会員の家庭に一泊のホームステイさせ、日本の文化や生活・習慣などを直接体験してもらうことであった。
その後、芳洲の里では毎年夏・冬に韓国から200~300人の高校生を受け入れて2,3人づつ各家庭に民泊させて交流を深めているという。
次回、その交流の様子を伝えたい。
つづく
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