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           雨森芳洲の里1
 「東アジア交流ハウス・雨森芳洲庵」
  

  芳洲郷
          雨森芳洲の里
 

 彦根から琵琶湖湖岸を北へ24㎞上がった滋賀県長浜市高月町に、江戸時代、朝鮮外交の第一線で活躍した雨森芳洲の故郷がある。

  雨森芳洲(参照・朝鮮通信使34、雨森芳洲の国際感覚)は、江戸時代中期(18世紀)、朝鮮外交の基本的な原則を説き「朝鮮との交際について は、第一に人情、社会のありようを知ることが大切です」と述べ、善隣友好の「誠信外交」のため一生をささげた人物である。

 地元長浜市高月町では、戦前(1920年代)に「芳洲会」を結成して、芳洲文庫、芳洲神社、芳洲碑、芳洲の生家・「雨森芳洲書院」など建立し、芳洲を顕彰する活動を活発に展開していたのである。春秋には「芳洲祭」を行っていた。

 しかし、戦中から戦後にかけて、雨森芳洲の名は忘れられ、「雨森芳洲書院」は一時期「芳洲保育所」となっていた。

 1960年代後半、当時の京都大学教授の上田正昭、朝鮮通信使研究者の申基秀らによって、江戸時代中期の日朝関係の外交官として善隣友好の「誠信外交」を実践した国際感覚の持主・思想家・教育者としての雨森芳洲に光が当てられ、歴史上の人物として大きくクローズアップされるようになった。

  芳洲庵
       芳洲庵の入口 

 1984年11月3日、地元民待望の雨森芳洲顕彰記念館・「東アジア交流ハウス・雨森芳洲庵」がオープンした。

 この日、地元住民総出の祭となった。稲刈りが終わったあぜ道に「朝鮮通信使行列」「学問の神様雨森芳洲」の赤い旗が立ち並び、地元の人たち数百人が朝鮮通信使の衣装を身にまとい、地元小学校から芳洲庵まで1㎞余を盛大なパレードを行った。数千人の観客の盛んな拍手を受けながらの通信使行列は、湖北の歴史始まって以来の最大の祭、一大イベントであったという。

 「東アジア交流ハウス・雨森芳洲庵」の名称には、江戸時代中期、対朝鮮との「誠信外交」を実践した芳洲の意思を現代に継承していこうという地元民の切なる願いがこめられたという。

  東アジア交流ハウスでは、雨森芳洲の生涯をたどり、彼の思想や業績を顕彰するとともに東アジアとの交流と友好をめざす拠点として、展示室と研修室が設けられている。

 展示室には、芳洲の遺墨・遺構や通信使資料と在日コリアンの有志が寄贈した朝鮮通信使関係の絵図など多数展示されている。

  雨森1
      雨森芳洲の肖像のある展示室

 研修室では芳洲や朝鮮通信使についてのスライド、講座、国際交流、人権学習、まちづくりの講話など聞くことができる。

  芳洲3
        講演会の風景

 東アジア交流ハウス・雨森芳洲庵がオープンして以来、來庵者は年々増加しているという。

 在日コリアン(朝鮮人・韓国人)の人たちも沢山訪れているようである。なかでも在日1世のおじいさん、おばあさんが芳洲庵を訪れると、その感慨は深いものがあるらしい。

 彼らを案内した芳洲庵の館長・木村一雄は
「なかでも高齢者の方がおいでになると、集落内の案内板に書かれているハングル文字をご覧になって”万歳”を叫ばれたり、涙を流して感動されることがある。琵琶湖の北辺にある小さな農村に想いもしなかった祖国の文字ハングルがあった。しかも”今日は、いらっしゃい”と歓迎のことばが書かれている。このおじいさんやおばあさんの胸の中には、土地を奪われ、言葉や文字を奪われ、”創始改名”で、名前まで奪われてしまった36年間の植民地時代の悲しい歴史の数々が浮かび上がってきたにちがいない」と述べている。(『わが町に来た朝鮮通信使』・「東アジア交流ハウス・雨森芳洲庵の記」)

 在日朝鮮人1世のおじいさんおばあさんたちは、異国日本に渡航して以来、公の場所で歓迎されることはなかったと思われる。
  
  芳洲④
    雨森芳洲の里を訪ねる人たち

 民族的差別と蔑視の対象であった在日朝鮮人一世たちは、芳洲庵を訪れ、「誠信外交」を実践し、日朝の善隣友好のために生涯を捧げた雨森芳洲を初めて知り感激すると共に、地元民の親切な案内をうけて心から歓迎されていることを実感したのであろう。

 「おじいさんたちの中にはお帰りの時、”館長ありがとう”と感激の面持ちで、心のこもった握手を求められることもある」

 1人のおばあさんは、「私は、日本にやってきて今年で54年が経ちました。その長い年月のあいだで今日ほど嬉しい日は初めてです。ありがとうございましたと涙ながらにみんなの前で言いきったのであった」(前掲書)

 また、芳洲庵を訪れた在日朝鮮人・韓国人からの感動的なお礼の手紙が多数とどけられているという。
 
 芳洲庵は、苦難の歴史の中で生きぬいてきた在日一世のおじいさん、おばあさんの心をとらえたのであろう。

 在日朝鮮人一世の父母の背中を見て育った二世の筆者自身も、雨森芳洲の里・芳洲庵を訪ねて画像や書物では味わえない感動を覚えた。なぜか、見たことのない父母の故郷を思いはせた。

   芳洲神社
          芳洲神社

 芳洲庵の入口前の道沿いを流れる小川に鯉が泳ぎ、付近から水車がまわる音が聞こえ、素朴な芳洲神社があった。なにより、村民の善隣友好の優しい眼差しを全身に感じ、安らぎを憶える「故郷」のようであった。

   芳洲1
     多くの訪問者をお待ちしています

 「東アジア交流ハウス・雨森芳洲庵」は、湖東の片田舎にある小さな庵にすぎないが、これからの日朝、日韓の交流、東アジア交流の広がりの拠点の一つであることは確かであろう。
  つづく
   彦根宗安寺の「黒門」について

 朝鮮通信使一行は、守山寺を出発して近江八幡金台寺で休憩、安土城の麓を通り、能登川を渡って宿泊地の彦根城下に入る。琵琶湖の東にそびえる彦根城は「国堅固の城」として領外にまで立派な姿を誇っていた。

  彦根城
       彦根城  滋賀県彦根市
 
 通信使の正使・副使・従事官の三使の宿泊所は、彦根城の西にある藩主・井伊家の菩提寺・宗安寺である。朝鮮通信使を迎えると迎賓館になった。

 宗安寺が通信使の宿泊所ときまった時、急きょ正門から少し隣れたところに小さな別門が造られた。正門は朱色であったことから「赤門」と呼び、小さな別門を「黒門」と呼ばれた。

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     大きい赤門(正門)と小さい黒門

 通信使一行は肉類を好んで食した。「黒門」は通信使接待のために食材を運び込むために特別に造られた。接待のためとはいえ、仏寺の正門から鳥や猪、鹿肉の生ものを運び込むわけにはいかず、正門とは別に出入口を設けたのである。

  黒門
        宗安寺の黒門

 朝鮮通信使を接待するために、彦根藩がわざわざ「黒門」を設けたことは、幕府が招聘した賓客に対する、藩主の並々ならぬ気づかい・配慮を窺い知るところである。

 「黒門」は、通信使が宿泊するときのみ使用されたことから「唐人門」、「高麗門」と呼ばれた。
 
 歴代彦根藩主は譜代大名として江戸詰めであったため、通信使の接待役は留守を預かる家老がつとめた。

 通信使の歓迎宴に出された膳には、山海の珍味のご馳走が並んだという。

 第4次朝鮮通信使の正使・任絖(イム・ク ワン)は、ご馳走がよほど気に入ったのか、家老に謝礼の詩を詠んで贈った。

  近江彦根城にいて、大盃に書く 朝鮮正使 白麗

酒の肴は大皿に満ちあふれ、すべて貴重で珍しく美味しいものばかりです、
お壺の中の春の新酒は、ほどよく発酵して大変うまい、
心地よく酔いが回ってきました、
帰り路がまだまだ遠いことを忘れさってしまいます、
この厚いもてなしを、ご主人にどのように感謝すればよいのかわかりません、

 これに対して家老の岡本半介宣就の返答の詩

   謹んで格調の高い詩にならって 宣就拝

とりそろえた酒の肴は、格別めずらしいものではございません、
準備させていただくのは当たり前のことでございます、
それを貴方様から大変すばらしいお褒めの言葉をいただき、感激を新たにしました、ただいま城主は江戸におります。
正使の格調高き御厚志を、早速書をもって主人のもとに報告いたします。

    再び返答の詩  白麗

次いで申し上げます。
先に、江戸に参りました折も、大変歓待を受けました、
今、佐保(彦根)にきて再び歓待を受け、改めて厚く礼を申し上げたい、
朝鮮に帰り、国王に東方日本のことを報告するとき、
中でも平公(井伊当主)は第一の人であると申し上げます。(原文漢字文)

  宗安寺庭
         宗安寺中庭

 このように、接待する側の彦根藩家老と接待を受ける朝鮮側の正使、お互いに尊敬と謙遜、礼節をつくして「誠信の交」を実践していることが認識される。

  彦根天守
      彦根城天守閣からの琵琶湖

 ところが、明治維新後、政権内に徳川幕府の朝鮮との交隣外交(対等平等)や朝鮮通信使の接待に対して批判するようになった。

 そればかりでなく、これからの対朝鮮との関係は対等ではなく、朝鮮が日本に隷属する上下の関係で行うべきであるとし、それまで平等な関係で行われた朝鮮通信使を「朝貢使」と呼び、通信使が行った歴史的事実までも歪曲・矮小化するようになった。
 
 そして、彦根宗安寺の「黒門」の由来についても歪曲されたのであった。

 朝鮮通信使の研究者・李進熙は、1960年代初期、宗安寺を訪れ「黒門」前に立てられた「説明札」に
 「通信使はː朝貢の使節だったので寺の正門から入れるわけにはいかず、彼らを通すために小さな門を設けた」と書いてあることに驚き、

 住職に「正使は駕籠(かご)に乗ったまま山門をくぐり、この館の前に来ると、彦根藩の家老がでてきて、よくいらっしゃいましたといって駕籠の扉を開けるんです。そして、どうぞといって、館の中に上がっていくんですよ。儀式は決まっています。あの黒門の説明文は間違っています」と指摘したと述べている。(李進熙著『朝鮮通信使と日本人』・「朝鮮通信使とはなにか」)

 この「説明札」は、明治初期から終戦後の1960年代中頃まで、凡そ一世紀・100年にわたって立てられていたという。

 朝鮮通信使は「朝貢使」であり、朝鮮通信使を正門からでははなく「黒門から通した」という、事実と全く異なった「説」が、あたかも史実であったかのように堂々と伝えられたのであった。

 明治政府は通信使を「朝貢使」とみなすことで日本の優位性を主張し、朝鮮を格下に見る意識を広めていった。

 このような日本優越意識から「征韓論」が起こり、1870年代、帝国主義への道を歩みはじめた日本は、東アジアの植民地獲得を目指して真っ先に朝鮮侵略を開始したのであった。
 つづく

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         朝鮮人街道

 朝鮮通信使一行が京都を出発すると、一日に約40キロの行程で江戸に向かう。

 近江大津で休息してから琵琶湖の景観を楽しみ、最初の宿泊地、守山の守山寺(東門院)に入る。

  東門院
        守山寺(東門院)
 
 この寺には、10次通信使の押物判事(荷物輸送の責任者)黄敬庵の書「守山寺」の扁額が掛かっていたが、1966年の火災で他の貴重な文化財と共に焼失したという。残念なことである。

 守山寺を出発した通信使一行は、野洲の行畑で中山道と分かれ、近江八幡-安土ー能登川ー彦根に入り、鳥居本町で再び中山道に合流する40kmの道を進む。この道が「朝鮮人街道」呼ばれて、その道標が現在も残っている。

  雨森3
       朝鮮人街道の地図

 この街道の由来は、織田信長が安土城築城の際に道を整備し、京都まで結んだことによるもので、「京街道」・「京町通り」と呼ばれていた。中山道の「上街道」に対して「下街道」と呼ばれた。また、琵琶湖岸を通ることから「浜街道」とも呼ばれていた。

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      街道筋の道標

 1600年、天下分け目の関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は、佐和田山からこの道を通り八幡町金台寺(八幡別院)に泊まり、そこから上洛して以来、縁起の良い街道として、代々徳川将軍の上洛時に用いたのであった。

 そのため、この街道は諸大名の参勤交代時の利用を禁じ、オランダの商館長、琉球使節の通行も許さなかったという。

 しかし、国賓として送迎する道として朝鮮通信使一行だけは、毎回の江戸往来時の使用を認めたのであった。
 
 徳川家にとって、将軍上洛の道を特別に朝鮮通信使一行に限って認めたのは、善隣友好の外交を大事にし、また、将軍就任の慶賀をより権威あるものにする意図があったと思われる。
 
 それにしても、朝鮮通信使の江戸までの長い往還道中、この区間だけが「朝鮮人街道」と呼ばれ、唯一その名を残したのはなぜだろうか?

 朝鮮通信使の研究者、京都造形大学教授・仲尾宏は、
 「この名称の由来はいうまでもなく、信使來聘の際に一行の通交路として恒例の道とされたことによる」(『朝鮮通信使の軌跡』)と述べている。

 作家の杉洋子は、
 「考えられるのは、将軍上洛の吉道に朝鮮人街道の名を冠せて、幕府の権威を近江の植えつけたかったのか、それとも国際人といわれる近江の人たちが、朝鮮通信使行列に強いインパクトをうけ、自然とそう呼ぶようになったのか、そのどちらかであろう」(『朝鮮通信使紀行』)と述べている。

 将軍家だけが通る縁起の良い道を、朝鮮通信使一行と先導・護衛する対馬藩士、接待役を務める沿道の各藩の随行員ら千数百人の大行列が、エキゾチックな音楽とともにパレードしたのである。はじめて見る異国文化に強烈な印象を受けた沿道の人々が、「朝鮮人街道」と自然に呼ぶようになったのではなかろうか!

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      朝鮮通信使大ラッパ手

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        先頭をゆく清道旗隊

 今でも、地元では「朝鮮人街道」を「貴い人が通る道」といい伝えられているという。
 
 通信使一行は、野洲の行畑からこの街道を進み、近江八幡金台寺(八幡別院)で昼食・休憩する。金台寺は徳川家康・秀忠・家光が上洛の際に宿泊した名刹である。徳川幕府が朝鮮通信使を国賓として迎えるために、道程や宿泊、休憩にいたるまで優遇し、配慮したことを窺い知ることができる。
 (因みに、金台寺の寺名を八幡別院に変更したのは、明治初期である)

  八幡別院
        金台寺=八幡別院 

 今も、八幡別院には9次朝鮮通信使の従事官李邦彦の漢詩書が保存されている。

 朝鮮通信使一行の次の宿泊先は、彦根宗安寺である。
  つづく