fc2ブログ
      琵琶湖の景観を楽しむ

 朝鮮通信使一行は、早朝、京都の本圀寺を出発して三条大橋を渡り、栗田口、山科を通って近江の追分から逢阪峠を越えて大津に入り休息、そこから琵琶湖の東岸沿いをたどり守山で宿泊、翌日に朝鮮人街道を通り近江八幡から彦根、さらに摺針峠を越え大垣に向かう。 

  DSC_5039.jpg
        朝鮮通信使行列画
 
 その行程で、逢阪峠の茶屋と琵琶湖について書いた使行員の見聞録が興味深い。

 第9次(1719年)朝鮮通信使の製述官・申維翰は、『海遊録』で近江の逢阪峠茶屋について、
「道をはさんで人家はみな酒店である。地勢が山峡に近く、村落はまばらであるが、居人はそれぞれ酒、餅、煎茶、焼芋を用意して路傍に列べ置き、通行人を待って銭をかせぐ。酒屋の女子はかならず化粧して鮮やかな服装をし、盤や皿も清潔で新しい。日本のならわしでは、器が不潔であっても食わず、店の女が不器量であっても食わない。峠に列んだ店の女がみな美しいのは、そのせいである」と書いている。

 峠茶屋の女性たちが晴着で通信使一行を出迎え、あるいは旅人を出迎えている様子が鮮明に浮かんでくる。通信使の記録は、この時代の日本の風俗、風景などを細かく観察していること分かる。

 通信使一行が大津に到着すると本長寺で昼食、休憩後、琵琶湖と水城を眺めながら瀬田の唐橋へと進む。水城とは瀬田川に近い湖南の膳所城のことである。

 膳所城は、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、翌年の1601年に京都守護のために築いた城であった。城構えは北・東・南が湖水で、西に濠をめぐらせた水城である。4層の天守閣は湖に映えて素晴らしい景観であったという。
 (因みに膳所城は、明治維新政府が全国に廃城命令を出し、最初に取り壊した城とされている)

  膳所城
       膳所城跡 大津市琵琶湖畔

 通信使一行が、江戸への往還道中で最も関心を持ち、楽しみにしたのは琵琶湖の景観である。
 朝鮮では、中国の湖南省の洞庭湖は名勝中の名勝として名高い。中国歴代の詩人によってたびたび詠われた洞庭湖の景勝は、朝鮮の文人で知らない者はいなかったという。朝鮮半島には大きな湖がないこともあって、朝鮮通信使が日本訪問でいちばん期待を寄せたのは、琵琶湖を見ることであった。

 第1回目(609年)の朝鮮通信使副使の慶暹(キョン・ソム)は、
 「京都を離れ・・東行20里(朝鮮の1里=400m)大津村あり、近江州に属す。また行くこと10余里、大湖あり、・・周囲800余里、蒼波浩渺、風帆点々、いまだ津涯(しんがい)を見ず」と琵琶湖の広大さに驚きをかくさず、さらに

 「湖に沿うて征くこと5里ばかり、湖辺に巨村あり、村名瀬々崎(膳所の旧名)、村の後、湖中に小島あり。石を築き城を設く(膳所城)。・・何層にもなる高楼、いろどりも美しいひめがき」が湖を圧しているようであると、その美観に見とれたという。『海搓録』

 3次通信使の副使・姜弘重(カン・ホンジュン)は、「・・洞庭の岳陽といえど、風致の勝絶、気勢の雄壮、想うにいずくんぞ以て此(琵琶湖)に過ぐるや」と激賞した。『東搓録』

  琵琶湖1
      現在の琵琶湖の風景 大津市

 9次通信使(1719年)の製述官・申維翰は、小雨降る中から膳所城と琵琶湖を眺め、その景観を褒めたたえるとともに、洞庭湖とどちらが美しいか「ほとんど洞庭湖と争駆す」と嘆息したという。

  瀬田唐橋
       瀬田の唐橋 現在の風景

 こうして、朝鮮通信使一行は琵琶湖の景観を楽しみながら瀬田、草津の2橋渡り守山へと進んで行った。
 つづく
... 続きを読む
   通信使権侙と石川丈山の筆談(2)
 
  ルート
       朝鮮通信使日本往還ルート

 第4次朝鮮通信使の詩学教授権侙(クオンチョク)と石川丈山の筆談は、緊張した雰囲気の中で、丈山が毛筆で挨拶文を書き、それを権侙に手渡して始まった。

 丈山「西の果てから東の果てまで、海陸万里の遠きを極められた船と車の大旅行もまことに支障なく江戸に参られて、貴国からの信義正しきお祝いの盛儀をおえられましたこと、まことに大いなる幸いでございました。めでたい、めでたい」

 権侙「風や霜にさらされる苦労などは、職務上、当然のことでありまして、お慰めを賜り、まことに痛み入ります」

 丈山「じつは私、このたび、貴国通信使の正副使および貴下のお三方に随い、貴国の風俗を見たいという願いをもちまして、、、大明国と貴国とは地続きの国境を接しておられるでしょう。もし貴国に参りまして、学僧たちに混じって行けば杭州の西湖に遊び、南京を通過することができますでしょうか。そのようにして私だけが大明国に入って、孔孟の儒教をひろめられた聖地をこの目で見ることはできないでしょうか。そのほかは、いずれの国をさまよい、いずれの地にとどまることができるものか、どうかお聞かせ願いたい」

 権侙が、その実現は難しいことだと書き伝えるが、丈山は朝鮮を軽由して明に行きたい願いをくり返した。

 丈山「さきに書きましたように、貴国から大明への渡航をすてていません。他日、もし国法の制限がなくなれば、商船の便を得て、朝鮮の国土にわが足跡を遺したいと望んでおりますが、私にその機会が与えられるものでしょうか」 

 権侙「謹んで仰せの趣を承り、袂をふるって立ち敬礼します。なんとこの俗世間を逃れて高く飛び上がり、さように高遠なる偉人たらんとされておられるとは、深く敬い、かつ慕います、、、私めもまた貴国の山河をきわめて、しかもまた、尊公とこうして本日お会いできたのだから、このたびの壮途における最高の幸せでした。、、、お国とわが国とは、遠く離ればなれの天地であり、往来の便などありません。あなたはまだご存じないようだが、いかなる乗り物の便によってわが国にやってこられるようとするのでせしょうか」

 中略

 丈山「仕官して兵法を教えていた間、六経を読みこなし、また諸子百家を研究したといっても、お粗末な勉強ぶりで、一つとして自慢できるものではありません。ただ、興味にまかせて一咏また一吟の詩句をひねり出しては、自らの心に楽しむのみであります。こうして、お粗末で雑駁な作品ばかりながら、二百余篇ができました。机のすき間にこれらを集めた旧詩一巻があり、ここに持参しましたので、どうか御一瞥を賜り、お笑い草にして下さいますならば幸いでございます」
 丈山は筆を置いて、包みから一巻の詩稿を取り出して、恭しくさし出した。頷いて受けとった権侙は、詩稿を一枚々めくり無言のまま読み終えた。

 権侙「一巻の詩集を拝読しつつ、いまだ読みおえぬうちに、貴国にはかかる大家のあることを知りました。ひそかに拝察しますに、詩境は円熟し、用語は新たにして使い方は古典に則って風格も清らかです。これほど詩作に力を用いて、かくも巧みな詩篇を作られる方がいようとは、思いもよらなかったことです、、、」

 丈山「わが詩篇の中にこれぞと思われるものがありましたら、どうか添削を加えて下さい。作品にたいする巧拙や浅薄さへの批判を、心の中に残されるようなことのございませんように」

 権侙「あなたの詩篇が、どうしていやしい言葉で追っかけて輝きだすということがありましょうか。まして私の如き、万里の出張で心がふさがれていて、およそかかるお申し出に値する意見を述べることなどできせん」

 中略

 権侙「、、、私は、こういいたい。尊公を以て貴国における詩壇の嫡流たる本家とし、堀杏庵(藤原惺窩の門下生)を以て文壇の老将としたい。これまで唱和したその他の方では、太刀うちできず、文は杏庵に太刀うちできなかった、、、文章はよく読んで研究する者が巧みになるものです。しかしながら、詩は天性の稟質がなければ作ることができません。尊公はいうならば、日東(日本)の李杜(唐の詩仙李白、詩聖杜甫)であります。古人も、後漢の政治家の楊伯紀を孔子にたとえたようような先例がございます。そう、私が尊公を以て日東の李杜というのは、けっして言葉を弄んでいるのではありません」

 丈山「堀杏庵を以て、わが文壇の将師とされるのは、誰も異存はないでしょう。けれども、私を詩壇の宗匠などと推されるのは、いかなる選者の選によるものかといわざるを得ません。とはいえ、天道による眼光の照らされるところ、身を避ける術もありません。ことに天子から功臣を認めた朱印やみ言葉を以てわが詩集を飾られたならば、寒々とした死灰の積む土地、腐った草原もたちまち光輝を発するでありましょう。これはまた、楚の国の影響が晋に及ぶたとえでありましょうか。ああ、これ以上の幸いがありましょうか。感謝、感謝」

 権侙「ただ、言葉を知る者は、よく人の善不善をあげつらうなどといいますけれど、私は才学うすく愚か者に拘わらず、貴公の詩集を読むことができました。あげつらうこと、すでに甚だしいものがあります、、、」

 中略

  権侙「古人が友と別れるさいの詩に詠んだように、渭城(秦の咸陽)の柳は青青たる緑に、灞(は)水にかかる橋畔の梅は発(ひら)くといえども、人生ここに極まり、別離の情はいかんとも計り難い無量の想いがあります」

 丈山「ここに旅舎をたたき、朝鮮国の菊軒学士権文丈にお会いして、筆談の時を長々とすごし、喜び勇んでのあまり、余興に一首を吟じ、机下におそなえします」
  ”日本朝鮮 海映を隔て 図らずも相遇い 文明を結ぶ
  使星明日 この地に留まれば 皇華を唱和し 鹿鳴を唱わん”

 権侙は丈山に礼を返して、すぐさま唱和の一詩を書いた。
  ”片帆千里 蓬えいを渡り 此の日詞壇 主盟を見る
  道(い)うなかれ 東來好事無しと 暫時消却す 不平の鳴を”

 丈山「本日のめぐり遇い人情の極まるところ、一日を三たびの秋、一月を三歳の豊かな体験としますが、ましてこれからは貴下との間に航海万里のへだたりがあり、とうてい再会の望みなきを思いますならば、なおさらのことでごあいます、、、」

 権侙「もはや、対話を重ねることができぬ夕べとなり、ご帰館のときがせまったようです。名残惜しく、別れを惜しむ悲しみに、旅衣をまとった不都合を忘れ、ここに留連したいほどです、、、別離はたしかに老いをすすませるのです。古人もいうように、暗然として魂も消してしまういうほどの出来事は、ただ別れのみではありませんか、、、貴下の詩巻を、大切に書類箱にしまって帰国し、わが国で誇りたい、、、」

 中略

 丈山「陽は傾き、道は遠い。ああ、丈夫といえども涙なしにはいられません。いたずらに恨みを飲むばかりです。歌っていわく、美丈夫遠く去って音信を欠き、千里をへだてて、明日を共に待つ、と。たがいに思いあって永く歌うばかりです。私とても、まさにそのように思うでしょう。用紙に筆を下しながら、哀しみに胸ふさぎつつも、ご自愛千万のことおねがいして」

 権侙「人生でただ一度だけ会うのも、これまた天の定めであります。まして、ただいまに至るまで、終日、文について論じあい、たがいに真実を吐露しつくした間柄であってみれば、その天の定めをうけ入れねばなりますまい。一たび立派なお姿にお別れしてしまえば、もはや二度とお会いする機会はありますまい。他日、たがいに思うときがあっても、李白が詠んだように長安一片の月を見るのみでございます。ただ嘆き恨むこと、私めと先生と何の変るところがございましょうか。明日また、一切れの書信をたがいに交わすことがができましたならば、それすなわち明日また先生とかなうことと期待しながら、終わりにし難き恨みを抱いて、不一」

 こうして長時間の筆談の過程で、丈山との間に篤い友情が育まれた。二人は、敬語を使い、誠心と謙譲を発揮し、互いに異国人の立場を尊重しつつ、信頼と連帯の関係を築いたのであった。

 筆談の翌日、丈山はお礼の手紙に土産物の干柿を使いの者にもたせ、権侙にとどけさせた。

 これに対し、権侙はただちに返事を書き、土産物へのお返しとして黄扇2本と草書の筆法8幅を付け、また、新たな五言律の詩作を返したのであった。

 権侙「旅立ちの気配はますますさしせまり、もはやご尊顔を拝する機会はないでしょう。名残りはつきず、恨めしいばかりです。ただただ願くは、くれぐれもお体を大切に、ときに風便に乗せて幸いにお便りを恵まれんことを」

 一年後、丈山は権侙との筆談(文戦)の文章を整理して、「朝鮮国権学士菊軒と筆語」にまとめ世に残した。

  詩仙堂4
       詩仙堂 入り口付近

 その後、丈山は武士をすて、文人として詩心を守り、風雅を友として生涯を送った。
   つづく

 
 朝鮮通信使権侙と石川丈山の筆談(1)


  行列1
         朝鮮通信使行列図 

 1637年(寛永14年)1月18日、京都本圀寺(六条堀川・西本願寺西側)において、第4次朝鮮通信使の詩学教授・権侙(クオンチョク・菊軒)と日本の文人・石川丈山(大拙)との間で筆談が行われた。

 二人の筆談を、日本側は京都所司代板倉重宗の家老都築吉保、淀城城主の永井尚政、朝鮮通信使側は副使の金世濂、従事官の黄房が左右の席から見守った。
 
 特別に設けられたこの席で、通信使の詩学教授権侙に相対した石川丈山は、いかなる人物であったか?

  丈山詩吟
      詩吟「富士山」 原文は漢字のみ

 石川丈山は、大阪夏の陣に登場したこと、詩吟「富士山」の作詩者であることなどから、歴史愛好者や詩吟愛好舎らにはよく知られているらしい。しかし、丈山が一般的に知られている人物とは思われないので、彼の人生経路を簡単に紹介しておきたい。

  石川丈山
       石川丈山肖像 狩野探幽画

 石川丈山(1583‐1672)は、三河(現在の安城市)の武門に生まれ、名を嘉右衛門と呼んだ。

 徳川家康に仕えて、大坂夏の陣に出陣し戦功があったが、抜駆けをし軍令に背いたかどで罰せられ浪人となり妙心寺に隠棲した。清見寺(静岡県)の説信和尚から禅を学び、家康に仕えていた時代に知人となった林羅山に薦められて藤原惺窩の門下に入り儒学を学んだ。
 
 文武に優れていると評判の丈山は、各藩から仕官の誘いがあり、病気がちな母を養うために一旦は浅野家に仕官し安芸(広島)に赴いた。それから13年後の1636年(丈山53歳)、母が亡くなると無断で京に戻り、相国寺の近くに竹林に囲まれた質素な睡竹堂をつくり隠棲した。
 
 その間、丈山は一貫して中国古典漢詩の研究と漢詩句の試作に余念がなかったという。丈山の漢詩句は優れ、心得のある者から文人として一目置かれていた。

  詩仙堂3
    中国歴代詩人36人の肖像画 詩仙堂内
 
 この頃、4次朝鮮通信使一行が三代将軍徳川家光に国書伝達の任務を果たし、日光を遊覧した後に帰国の途につき、京都に着くと往路と同じ本圀寺に宿泊した。

 京都所司代板倉重宗は、丈山と家康に仕えた同郷人で、文武に優れた逸材の丈山を誰よりもよく知っていた。その所司代の説得と誘いにより丈山が本圀寺に赴くことになり、通信使権侙との筆談が実現したのであった。

 筆談の部屋には、硯、毛筆と机の上に巻紙が準備されていた。毛筆で巻紙に漢文漢字を書き綴り、それを交換しながら筆談がはじめられた。通訳は控えているが一切口出ししない。

 漢字漢文は、古代中国から周辺諸国に伝わり、日朝両国ともに長い歴史のあいだ使用されてきた。話し言葉は通じなくても、漢字の文章は互いの意思疎通を可能にしていた。

 朝鮮通信使が、江戸時代を通じて日朝間の善隣友好の象徴として12回、260年もつづけられたのは、共通の漢字文化があったことが一つの理由に上げられる。 漢字文化は、使節員と日本の文化人が筆談唱和し多様な文化交流を可能にしたのである。

 朝鮮通信使の権侙と日本の文人石川丈山の筆談は、長時間、長文のやり取りが行われたために、その分量はかなり多い。その中の一部内容を次回の記事で紹介したい。


 通信使と筆談を終えた数年後、丈山は京都の洛北一乗寺村に詩仙堂(凹凸窠)を建てて終の棲家と定めた(丈山58歳)。この時、中国歴代の詩人を36人選び(三十六詩仙)、その肖像を狩野探幽に描かせて、堂内2階の四方の壁に9面ずつ掲げた。

  詩仙堂
        詩仙堂内 庭園

 丈山はここで煎茶を嗜み、庭を作り、漢詩を読み、90歳で亡くなるまでの約30年間を好きなことだけをして過ごした。清貧、質素であったが、精神的には充実した歳月であったらしい。

つづく



... 続きを読む