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2019.12.29
朝鮮通信使78
朝鮮通信使と京都五山
朝鮮通信使一行は、大阪の難波から川御座船に乗り、淀川をさかのぼり淀に上陸、休憩後に行列して京都に入る。

「淀川30石船」 歌川広重画
京都における通信使の宿館は、最初大徳寺であったが、4次以降は本圀寺(ほんこくじ)が指定され、本圀寺修理のため本能寺が一回のみ使用された。
したがって、朝鮮通信使と京都五山(天龍寺、東福寺、相国寺、建仁寺、萬寿寺)は、直接の関係や交流があったわけではない。

天龍寺庭園
ところが、対馬藩のお家騒動「国書偽造事件」(参照・朝鮮通信使18)が契機となって、4次通信使(1636年)の往還時、対馬に以釘庵(いていあん)が設置されたことから、通信使と京都五山はつながるようになったのである。
以酊庵とは、幕府が朝鮮との外交事務を管掌する場所として対馬府中(厳原)に設置したもので、そこに京都五山から優秀な僧侶を輪番制で派遣した。
京都五山では、室町時代から仏典の研究だけでなく儒学の研鑽も行っていた。そのため選ばれて以酊庵に派遣される僧侶らは、儒学の先進国である朝鮮文化と通信使に高い関心をもって対馬に赴いた。
こうして、朝鮮通信使と京都五山との関係は、対馬の以酊庵に派遣された僧侶らと使節員の個別的な交流関係が生まれたのである。個別的であるために使節員らとより親密な、より深い交流が行れたと思われる。
4次通信使から通信使が廃止される1866年まで、天竜寺から37人、東福寺から33人、建仁寺から32人、相国寺から24人、総計126人が以釘庵に派遣された。
因みに、4次朝鮮通信使から12次まで、以酊庵に派遣された京都五山の代表的な僧侶1人づつ上げてみる。
玉峰交隣(東福寺)、釣天永浩(建仁寺)、茂源紹柏(建仁寺)、太虚顕霊(相国寺)、別宗祖縁(相国寺)、月心性湛(天龍寺)、翠岩承堅(天龍寺)、維天承澹(相国寺)、月耕玄宣(東福寺)
以酊庵に赴任した僧侶らは、通信使の接判僧として案内護衛役を務める対馬藩主とともに、江戸まで通信使一行の行列に加わった。
以酊庵の僧侶らは、外交・貿易交渉、朝鮮通信使の派遣の要請・応接に関する交渉、江戸までの道程・行事の折衝など道中すべての出来事を記録に残した。それを証明するかのように、現在も対馬にある宗家文庫には、膨大な記録・文書が山積みのように保管されている。

宗家文庫内 史料文書
以酊庵に派遣された僧侶が任務を終えて、朝鮮通信使一行との交流の証として土産に持ち帰った遺物、書、画などが僅かながら目にすることができる。

相国寺楼門
相国寺慈照院に「朝鮮書画帖交小屏風」が所蔵されている。屏風には通信使画員・李民寿の画「高士読書図」、槐園の画「百合図」・「山水図」と清翁筆「扇面詩稿」など6面よりなる貴重な小屏風である。
京都の郊外、亀岡市曽我部町の金剛寺楼門に「金剛窟」の扁額が掲げられている。

金剛寺楼門 京都府亀岡市
また、京都府峰山町の金性寺には「朝鮮国梅軒」の扁額が掛かっている。

金性寺 京都府丹後市
両寺とも天龍寺派である。以酊庵の輪番制の任務を終えた天龍寺の僧侶が通信使との交流で、親しくなった使節員朴徳俊(パクトクジュン・11次通信使員)から書いて貰ったものと思われる。
こうして、京都から遠く離れた田舎の寺に、今日まで朝鮮通信使の書が掲げられているのである。
京都五山から選抜された126人もの優秀な僧侶が、朝鮮通信使と直接関わり交流した過程で得た多数の書、画、記録などが、いまだに世に出ず古寺や個人の蔵に眠っているのではないかと想われてならない。
つづく
朝鮮通信使一行は、大阪の難波から川御座船に乗り、淀川をさかのぼり淀に上陸、休憩後に行列して京都に入る。

「淀川30石船」 歌川広重画
京都における通信使の宿館は、最初大徳寺であったが、4次以降は本圀寺(ほんこくじ)が指定され、本圀寺修理のため本能寺が一回のみ使用された。
したがって、朝鮮通信使と京都五山(天龍寺、東福寺、相国寺、建仁寺、萬寿寺)は、直接の関係や交流があったわけではない。

天龍寺庭園
ところが、対馬藩のお家騒動「国書偽造事件」(参照・朝鮮通信使18)が契機となって、4次通信使(1636年)の往還時、対馬に以釘庵(いていあん)が設置されたことから、通信使と京都五山はつながるようになったのである。
以酊庵とは、幕府が朝鮮との外交事務を管掌する場所として対馬府中(厳原)に設置したもので、そこに京都五山から優秀な僧侶を輪番制で派遣した。
京都五山では、室町時代から仏典の研究だけでなく儒学の研鑽も行っていた。そのため選ばれて以酊庵に派遣される僧侶らは、儒学の先進国である朝鮮文化と通信使に高い関心をもって対馬に赴いた。
こうして、朝鮮通信使と京都五山との関係は、対馬の以酊庵に派遣された僧侶らと使節員の個別的な交流関係が生まれたのである。個別的であるために使節員らとより親密な、より深い交流が行れたと思われる。
4次通信使から通信使が廃止される1866年まで、天竜寺から37人、東福寺から33人、建仁寺から32人、相国寺から24人、総計126人が以釘庵に派遣された。
因みに、4次朝鮮通信使から12次まで、以酊庵に派遣された京都五山の代表的な僧侶1人づつ上げてみる。
玉峰交隣(東福寺)、釣天永浩(建仁寺)、茂源紹柏(建仁寺)、太虚顕霊(相国寺)、別宗祖縁(相国寺)、月心性湛(天龍寺)、翠岩承堅(天龍寺)、維天承澹(相国寺)、月耕玄宣(東福寺)
以酊庵に赴任した僧侶らは、通信使の接判僧として案内護衛役を務める対馬藩主とともに、江戸まで通信使一行の行列に加わった。
以酊庵の僧侶らは、外交・貿易交渉、朝鮮通信使の派遣の要請・応接に関する交渉、江戸までの道程・行事の折衝など道中すべての出来事を記録に残した。それを証明するかのように、現在も対馬にある宗家文庫には、膨大な記録・文書が山積みのように保管されている。

宗家文庫内 史料文書
以酊庵に派遣された僧侶が任務を終えて、朝鮮通信使一行との交流の証として土産に持ち帰った遺物、書、画などが僅かながら目にすることができる。

相国寺楼門
相国寺慈照院に「朝鮮書画帖交小屏風」が所蔵されている。屏風には通信使画員・李民寿の画「高士読書図」、槐園の画「百合図」・「山水図」と清翁筆「扇面詩稿」など6面よりなる貴重な小屏風である。
京都の郊外、亀岡市曽我部町の金剛寺楼門に「金剛窟」の扁額が掲げられている。

金剛寺楼門 京都府亀岡市
また、京都府峰山町の金性寺には「朝鮮国梅軒」の扁額が掛かっている。

金性寺 京都府丹後市
両寺とも天龍寺派である。以酊庵の輪番制の任務を終えた天龍寺の僧侶が通信使との交流で、親しくなった使節員朴徳俊(パクトクジュン・11次通信使員)から書いて貰ったものと思われる。
こうして、京都から遠く離れた田舎の寺に、今日まで朝鮮通信使の書が掲げられているのである。
京都五山から選抜された126人もの優秀な僧侶が、朝鮮通信使と直接関わり交流した過程で得た多数の書、画、記録などが、いまだに世に出ず古寺や個人の蔵に眠っているのではないかと想われてならない。
つづく
2019.12.20
朝鮮通信使77
大阪文化人との交流
朝鮮通信使一行は、大阪の繁栄と活気に満ちた賑わいに驚いたようである。
日本の制度や各地の風物を観察記録した、九次通信使製述官・申維翰は「道をはさんで百貨の交易店舗がならび、人波が充満し、その華美なること眼も眩むばかり」(『海遊録』)と記した。

大阪市内を流れる淀川
大阪はまた、書物の出版も盛んで、学者、文人、芸能人も多数輩出していた。
使節員らが大阪西本願寺北御堂(津村別院)に滞留する間、日本の儒者、文人、墨家たちが押し寄せた。
通信使一行の中には、上通使(日本語の教員)、製述官(文章の起草・記録を担当、文才の実力者から選抜)をはじめ一級の儒学者、医者、画員、芸能人が多数含まれていた。
訪問者らにとって優れた異国の朝鮮文化に触れる絶好の機会であった。
通信使が停留する諸藩の宿館でも筆談や書・画を求める者が多かったが、
「大阪は文を求める者が諸地方に倍して劇しく、あるときは鶏鳴のときに至っても寝られず」と申維翰が悲鳴をあげるほどだった。
通信使の人気が過熱して宿館前があまりに混雑するので、町奉行所が無用の者が立ち止まるのを禁止したり、許可を得た者でも制限したという。

江戸時代の大阪の町(くらし今昔館)
このころ大阪商人の中には、家業を営みながらさまざまな分野で活躍する町人学者が輩出した。町人たちの間で 儒学を修めて漢詩を楽しむことも流行っていた。
酒造業を営む木村兼加堂(けんかどう)が、酒を売って4万冊の書物を購入して私設図書館のように所蔵・開放していた。
その話を聞いた11次通信使の書紀・成大中(ソン・デジュン)は、早速、見学に行き「天下の奇事だ」と感嘆したと言う。

木村兼加堂画
町人学者の木村は、友人である京都・相国寺の大典禅師の仲介によって、通信使と大阪の文人・細合半斎、福原承明らと親交・交流がつづいたという。
木村兼暇堂は、成大中と製述官・南玉(ナム・オク)ら15人に姓名と字号を篆刻した印章を贈呈した。
淀藩士の渡辺善右衛門は、絵入りの『朝鮮人來聘記』(全3巻)を記録した。
混沌社(詩社)を設立した儒学者の片山北海が通信使書紀に贈った詩が残されている。
また、河内一屋村の儒医・北村橘庵が通信使良医との筆談記録などが残されている。
大阪において、いろいろな分野の筆談唱和や交歓、交流が活発に行われたことを物語る記録や詩、書、画などが現存している。
江戸時代の代表的な俳人・与謝蕪村は次のように詠った。
白梅や 墨芳ばしき 鴻臚館
この俳句は、通信使の宿舎・大阪西本願寺で日朝の文化人がひざを突き合わせて、夜通し墨をすりながら詩文の唱和や書、画の交流をしている様子を、古代の迎賓館・高麗館を重ねて詠んだ一句である。(因みに鴻臚館は奈良時代に難波にあった外交使節の迎賓館・高麗館のことで、高句麗、百済、新羅から使節が渡日した)

難波宮跡公園
蕪村が通信使一行と直接に交わったことを示す記録はないが、大阪摂津(北御堂に近い)出身の蕪村は、生涯3回通信使を見る機会があり、リアルな俳句の内容から使節員と交わったことが窺がえられる。
筆者は、 蕪村自身が通信使と会合して、日本の俳句や朝鮮の時調(短歌詩)などについて唱和・交流・交歓したのではないかと想像を膨らませている。(参照・朝鮮通信使69)
つづく
朝鮮通信使一行は、大阪の繁栄と活気に満ちた賑わいに驚いたようである。
日本の制度や各地の風物を観察記録した、九次通信使製述官・申維翰は「道をはさんで百貨の交易店舗がならび、人波が充満し、その華美なること眼も眩むばかり」(『海遊録』)と記した。

大阪市内を流れる淀川
大阪はまた、書物の出版も盛んで、学者、文人、芸能人も多数輩出していた。
使節員らが大阪西本願寺北御堂(津村別院)に滞留する間、日本の儒者、文人、墨家たちが押し寄せた。
通信使一行の中には、上通使(日本語の教員)、製述官(文章の起草・記録を担当、文才の実力者から選抜)をはじめ一級の儒学者、医者、画員、芸能人が多数含まれていた。
訪問者らにとって優れた異国の朝鮮文化に触れる絶好の機会であった。
通信使が停留する諸藩の宿館でも筆談や書・画を求める者が多かったが、
「大阪は文を求める者が諸地方に倍して劇しく、あるときは鶏鳴のときに至っても寝られず」と申維翰が悲鳴をあげるほどだった。
通信使の人気が過熱して宿館前があまりに混雑するので、町奉行所が無用の者が立ち止まるのを禁止したり、許可を得た者でも制限したという。

江戸時代の大阪の町(くらし今昔館)
このころ大阪商人の中には、家業を営みながらさまざまな分野で活躍する町人学者が輩出した。町人たちの間で 儒学を修めて漢詩を楽しむことも流行っていた。
酒造業を営む木村兼加堂(けんかどう)が、酒を売って4万冊の書物を購入して私設図書館のように所蔵・開放していた。
その話を聞いた11次通信使の書紀・成大中(ソン・デジュン)は、早速、見学に行き「天下の奇事だ」と感嘆したと言う。

木村兼加堂画
町人学者の木村は、友人である京都・相国寺の大典禅師の仲介によって、通信使と大阪の文人・細合半斎、福原承明らと親交・交流がつづいたという。
木村兼暇堂は、成大中と製述官・南玉(ナム・オク)ら15人に姓名と字号を篆刻した印章を贈呈した。
淀藩士の渡辺善右衛門は、絵入りの『朝鮮人來聘記』(全3巻)を記録した。
混沌社(詩社)を設立した儒学者の片山北海が通信使書紀に贈った詩が残されている。
また、河内一屋村の儒医・北村橘庵が通信使良医との筆談記録などが残されている。
大阪において、いろいろな分野の筆談唱和や交歓、交流が活発に行われたことを物語る記録や詩、書、画などが現存している。
江戸時代の代表的な俳人・与謝蕪村は次のように詠った。
白梅や 墨芳ばしき 鴻臚館
この俳句は、通信使の宿舎・大阪西本願寺で日朝の文化人がひざを突き合わせて、夜通し墨をすりながら詩文の唱和や書、画の交流をしている様子を、古代の迎賓館・高麗館を重ねて詠んだ一句である。(因みに鴻臚館は奈良時代に難波にあった外交使節の迎賓館・高麗館のことで、高句麗、百済、新羅から使節が渡日した)

難波宮跡公園
蕪村が通信使一行と直接に交わったことを示す記録はないが、大阪摂津(北御堂に近い)出身の蕪村は、生涯3回通信使を見る機会があり、リアルな俳句の内容から使節員と交わったことが窺がえられる。
筆者は、 蕪村自身が通信使と会合して、日本の俳句や朝鮮の時調(短歌詩)などについて唱和・交流・交歓したのではないかと想像を膨らませている。(参照・朝鮮通信使69)
つづく
2019.12.12
朝鮮通信使76
日朝料理人の食文化交流
江戸時代、幕府があった江戸が外交、武家文化の中心地であったのに対して、大阪は町人文化が花開いた町である。
大阪は、武家屋敷も少なく町人が全人口の90%を占め、各地の物資が集散する「天下の台所」と称された。大名を凌ぐ財力を誇る豪商・商人の活力みなぎる「町人のまち」であった。

通信使宿館 西本願寺北御堂津村別院
朝鮮通信使の大阪滞在は、往路・復路とも3~10日であった。幕府は、その間の接待役として大坂町奉行を担当させ、その下に町の有力者-豪商を配して賄(まかない)方を命じた。豪商の財力と物資の調達力を見込んでのことである。
後に、接待役は町奉行から岸和田藩に替わるが、町方の通信使の送迎に関わる物資の調達や財政負担は変わらなかった。
接待でもっとも気を使うのは料理である。使節員が好む食べ物の食材調達に町方・豪商がその力量を発揮した。
第4次朝鮮通信使(1636年)賄方の記録によると、接待に必要な一日分の品々は、「白米10石、味噌3石5斗、醤油1石、酢1石、塩2石、酒6石、ろうそく百本、油玉5斗3升、その他魚、野菜、菓子など数品づつ」とある。
この他に通信使は牛、豚、鶏など肉類を最も好んでいたため、特別に調達しなければならなかった。
通信使一行の中に次官として調理人、下官として屠牛匠(牛をさばく包丁人)が同行していた。日本で饗応料理が度々出されるが、使節員らは長旅にそなえて体調管理のため基本的に本国の料理で済ませたのである。
通信使の宿所・西本願寺北御堂津村別院内に特設された厨房で山羊を丸焼きにしている絵図が描かれている。

日朝料理人の作業風景
絵図には、長方形の大きな網張り火鉢の上に梯子のような2本の鉄棒が並べてあり、その上にまだ毛を残した山羊がのっかり、二人の朝鮮の男が大うちわで炭火をあおっている。

その様子を真剣な眼差しで見ているのは日本の若者・板前であろう。ねじり鉢巻きにたすき姿、食器を洗いそろえるているのであるが、手が止っている。

土間にはござが敷かれ、豚や山羊がむぞうさに置かれ、その周辺では日本と朝鮮の料理人が鶏の毛をむしったり、煮だった大釜に肉を放りこんだり、まな板で調理に励んでいる。

日本の調理人は、町の賄方が選んだ料亭の板前たちである。
通信使の中に料理人いることを知った板前たちは、こぞって北御堂の厨房行きを願い出たという。
この絵図から、日朝の料理人が使節団一行の食事の準備をする過程で、お互いの食文化の違いを分かり合い、お互いの食材、調味料、味の良い調理方などを学びあったと思われる。調理という共同作業・実践を通じて食文化の交流が行われたのである。
日本で鍋料理として「すき焼き」の調理法を、朝鮮通信使が帰国して伝えたのが「煎骨」という鍋料理で、今も朝鮮人・韓国人に好まれている。
日本と朝鮮の代表的な食べ物を5つ挙げてみる。
日本=タクアン、刺身、天ぷら、すし、すき焼き
朝鮮=キムチ、ナムル、汁類、揚げ物、焼肉、
通信使が通過する沿道の各藩は、盛大な使節員の饗応接待を行った。

3汁15采の膳
各藩の献立は「七五三の膳」、「3汁15采の膳」など、最高級の料理でもてなしたと記録されている。
つづく
2019.12.03
朝鮮通信使75
朝鮮通信使の大阪入り
朝鮮通信使大船団が兵庫津を出航すると、いよいよ瀬戸内海航路の最終港・大阪である。

朝鮮通信使船団大阪入り
大阪に到着すると、川底が浅いために通信使船は淀川河口で滞留、使節員一行は日本の川御座船に乗りかえて尻無川をさかのぼり、宿泊所となる御堂筋西本願寺に向かう。
先頭の幕府の御楼船、ついで国書船、正使船、副使船、従事船、各大名の川御座船、それぞれの伴船などおよそ150隻の船団、土提下を大勢の綱引き人足が網で船を引っ張り、両岸は見物人が押し寄せ立錐の余地もない状況であった。
船上では通信使の楽隊が朝鮮音楽を奏でる。その音楽に和して日本の漕ぎ手たちは舟歌を歌ってこたえる。その豪華絢爛な海上パレードは、両岸の見物人を感嘆の渦に巻き込んだ。
船団と見物人を描いた当時の何枚かの絵図と、最近の朝鮮民族楽器による演奏を組み合わせて、海上パレードの様子をストリー風に再現を試みてみた。
クリックしてください
大阪の民衆にとって人気が高いのが朝鮮の楽隊であった。彼らは日本にない、さまざまな楽器で演奏されるエキゾチックな音色に陶酔したという。
通信使一行は上陸後、大阪の人々とさまざまな文化交流を行った。
つづく
朝鮮通信使大船団が兵庫津を出航すると、いよいよ瀬戸内海航路の最終港・大阪である。

朝鮮通信使船団大阪入り
大阪に到着すると、川底が浅いために通信使船は淀川河口で滞留、使節員一行は日本の川御座船に乗りかえて尻無川をさかのぼり、宿泊所となる御堂筋西本願寺に向かう。
先頭の幕府の御楼船、ついで国書船、正使船、副使船、従事船、各大名の川御座船、それぞれの伴船などおよそ150隻の船団、土提下を大勢の綱引き人足が網で船を引っ張り、両岸は見物人が押し寄せ立錐の余地もない状況であった。
船上では通信使の楽隊が朝鮮音楽を奏でる。その音楽に和して日本の漕ぎ手たちは舟歌を歌ってこたえる。その豪華絢爛な海上パレードは、両岸の見物人を感嘆の渦に巻き込んだ。
船団と見物人を描いた当時の何枚かの絵図と、最近の朝鮮民族楽器による演奏を組み合わせて、海上パレードの様子をストリー風に再現を試みてみた。
クリックしてください
大阪の民衆にとって人気が高いのが朝鮮の楽隊であった。彼らは日本にない、さまざまな楽器で演奏されるエキゾチックな音色に陶酔したという。
通信使一行は上陸後、大阪の人々とさまざまな文化交流を行った。
つづく
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