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2019.11.27
朝鮮通信使74
朝鮮通信使の兵庫津寄港
室津を出航した朝鮮通信使大船団が明石海峡にさしかかると、明石藩の迎護船に先導されて兵庫津へ向かう。
兵庫津は、奈良時代に行基が設けた摂播五泊の一つ、大和田泊と呼ばれた。平安時代末に平清盛が日宋貿易のために整備し、室町時代には足利義満の日明貿易の拠点として栄えた。

江戸時代の兵庫津
江戸時代には兵庫津と呼ばれ、西国各地から大坂入りの船舶の寄港地として、また山陽道もこの地を通り海運と陸運の結節点として活気に満ちた港町であった。
朝鮮通信使一行は毎回往路、復路とも兵庫津に寄港して、幕府所定の本陣、脇本陣、浜本陣と呼ばれる宿泊所に一泊した。
幕府は大阪から役人を派遣して尼崎藩とともに施設の設営、接待方法など細々と指示した。
それらの内容は、この地の町衆の自治組織であった岡方惣会所や北浜惣会所の「朝鮮人御用覚日記」に書きとめられている。
朝鮮通信使兵庫津入港の様子を伝える絵巻が、尼崎藩主を祀る桜井神社宝物館に保存されている。
極彩色で描かれた全長50mの絵巻は、尼崎藩が朝鮮通信使を出迎え、大阪まで護行する船の配置図で、700隻の船と乗員3000名が米粒のように細々に描かれていると言う。

桜井神社 尼崎市
実際に通信使を迎えるために動員される船や人員は厖大で、8次通信使の場合、船901隻、水主6274人、これに大阪の町奉行・尼崎藩主・対馬藩主の見分、鷹・馬の搬送などの船舶が別に必要であったため尼崎、西宮の両港から調達した。
江戸までの使行した最後の通信使となった11次(1764年)の一行が兵庫に入港したのは夜の11時頃だった。
正使の趙厳(チョウオム)は、「港は深くて広く千万隻は収容が可能であり、燈燭が互いに連なって、月と共に光を競い村や町が点在して人々の群れが山の如くであり、大変富んだ地である」(『海搓日記』)と記しているように、朝鮮通信使が入港した頃の兵庫津は繁栄していた。
その後、幕末の開国時に神戸港が外国船の停泊地に指定されたのをきっかけに、兵庫津はその地位を神戸港に奪われることになった。

現在の神戸港地図
現在、兵庫津は神戸港の西、JR山陽線兵庫駅東側一帯にあたり、戦災やたびたびの埋め立てで往時の面影はない。
今日では、朝鮮通信使正使が宿泊した兵庫宿本陣が西国街道の神明町あたりとされること、
朝鮮通信使関係の文書が神戸市文書館に所蔵されていること、
2001年にオープンした「尼信文化基金展示館」に桜井神社所蔵の「信使來聘自兵庫至大阪引船図」、「尼崎城朝鮮の間配置図」などが展示されていること、

現在の兵庫津の風景

現在の神戸港の風景
これらのことから、国際交流が殆どなかった 江戸時代、外交の使節団として朝鮮通信使が兵庫津に上陸し、地元の人々と交流した歴史的事実はハッキリと確認することができる。
つづく
室津を出航した朝鮮通信使大船団が明石海峡にさしかかると、明石藩の迎護船に先導されて兵庫津へ向かう。
兵庫津は、奈良時代に行基が設けた摂播五泊の一つ、大和田泊と呼ばれた。平安時代末に平清盛が日宋貿易のために整備し、室町時代には足利義満の日明貿易の拠点として栄えた。

江戸時代の兵庫津
江戸時代には兵庫津と呼ばれ、西国各地から大坂入りの船舶の寄港地として、また山陽道もこの地を通り海運と陸運の結節点として活気に満ちた港町であった。
朝鮮通信使一行は毎回往路、復路とも兵庫津に寄港して、幕府所定の本陣、脇本陣、浜本陣と呼ばれる宿泊所に一泊した。
幕府は大阪から役人を派遣して尼崎藩とともに施設の設営、接待方法など細々と指示した。
それらの内容は、この地の町衆の自治組織であった岡方惣会所や北浜惣会所の「朝鮮人御用覚日記」に書きとめられている。
朝鮮通信使兵庫津入港の様子を伝える絵巻が、尼崎藩主を祀る桜井神社宝物館に保存されている。
極彩色で描かれた全長50mの絵巻は、尼崎藩が朝鮮通信使を出迎え、大阪まで護行する船の配置図で、700隻の船と乗員3000名が米粒のように細々に描かれていると言う。

桜井神社 尼崎市
実際に通信使を迎えるために動員される船や人員は厖大で、8次通信使の場合、船901隻、水主6274人、これに大阪の町奉行・尼崎藩主・対馬藩主の見分、鷹・馬の搬送などの船舶が別に必要であったため尼崎、西宮の両港から調達した。
江戸までの使行した最後の通信使となった11次(1764年)の一行が兵庫に入港したのは夜の11時頃だった。
正使の趙厳(チョウオム)は、「港は深くて広く千万隻は収容が可能であり、燈燭が互いに連なって、月と共に光を競い村や町が点在して人々の群れが山の如くであり、大変富んだ地である」(『海搓日記』)と記しているように、朝鮮通信使が入港した頃の兵庫津は繁栄していた。
その後、幕末の開国時に神戸港が外国船の停泊地に指定されたのをきっかけに、兵庫津はその地位を神戸港に奪われることになった。

現在の神戸港地図
現在、兵庫津は神戸港の西、JR山陽線兵庫駅東側一帯にあたり、戦災やたびたびの埋め立てで往時の面影はない。
今日では、朝鮮通信使正使が宿泊した兵庫宿本陣が西国街道の神明町あたりとされること、
朝鮮通信使関係の文書が神戸市文書館に所蔵されていること、
2001年にオープンした「尼信文化基金展示館」に桜井神社所蔵の「信使來聘自兵庫至大阪引船図」、「尼崎城朝鮮の間配置図」などが展示されていること、

現在の兵庫津の風景

現在の神戸港の風景
これらのことから、国際交流が殆どなかった 江戸時代、外交の使節団として朝鮮通信使が兵庫津に上陸し、地元の人々と交流した歴史的事実はハッキリと確認することができる。
つづく
2019.11.20
朝鮮通信使73
朝鮮通信使の室津寄港
牛窓を出航した朝鮮通信使大船団は、播磨灘にさしかかると姫路藩の迎護船の案内で室津(現兵庫県たつの市)に向かう。

室津港位置図
室津は、播磨灘に面する約1300年の歴史をもつ港町。奈良時代の名僧行基(ぎょうき)が開いた摂藩5泊(宿)の一つ、三方を山に囲まれた入江は波静かである。室の内のようだと「室の泊」(むろのとまり)と名づけられた天然の良港である。

室津港の現在の風景
江戸時代、参勤交代の際に西国70の大名が海路で室津港に上陸、陸路で江戸に上り、帰りはここで乗船し帰藩した。年間90回もの大名行列が寄港した室津は、西国最大の宿場町、海駅として大いに繁栄した。
異国から訪れる朝鮮通信使の寄港は、見なれた参勤交代とちがっていた。姫路藩は朝鮮通信使の寄港が伝えられると、早くから通信使一行の応接準備にとりかかり、使節員が上陸するときは藩主をはじめ藩挙げての歓迎であった。そして見物禁止のお触れにもかかわらず、室津周辺の村々から老若男女の見物人が押し寄せた。
瀬戸内海を航行した11回の使節団すべてが往路、復路とも室津に寄港した。
9次通信使の製述官・申唯翰(シンユハン)は、室津入港の風景を「前湾は水潤く、山は険しくて雲霞ただよい、四方を眺むれば、奇勝が客の感懐をすこぶる爽やかにしてくれる」(『海遊録』)と記した。
日本本土に上陸した最後の11次(1764年)通信使が室津に上陸したとき、天候不順で滞在は6日間に及んだ。正使の趙厳(チョウオム)は、三方を山に守られた海辺のお茶屋の精巧な建物に驚きながら、浩々とした月と鏡のような静かな波を見て漢詩一句を吟じた。
通信使船団が室津に入港した様子を伝える貴重な資料が残されている。
室津の港につき出した岬の上に建てられた賀茂神社には、6次通信使入港のあらましを記した巻物『韓客過室津録』(長さ約10メートル)が保存されている。巻物には通信使船団の入港を前にして、不足する水の確保、料理につかう魚の調達、火の用心の夜回りなど、心くだいて接待準備に奔走する様子が詳述されている。

賀茂神社
この巻物は、姫路藩が奉納したもので神社の神宝となっている。
いま一つの資料は、2曲の絵屏風「朝鮮通信使室津湊御船備図屏風」である。
屏風には、迎賓館である姫路藩主のお茶屋・別荘、朝鮮船6隻、数百隻の案内・護衛船、藩の大小の船が細かく描かれている。また屏風の上段、下段の空白部分に藩をあげて通信使を歓迎した歴史がぎっしり書きこまれ、当時の模様をありありと見ることができる。
この屏風は、10次通信使(1748年)が入港したとき、姫路藩主松平明明矩がすべての様子を屏風に記録したものを、藩士の蔭山儀長がすべて描き写して新しい藩主酒井忠恭に提供したものである。
現在、これらの巻物や屏風は、当時の御船問屋の遺構を生かして作られた御津町立の「室津海駅館」に通信使関連の資料とともに展示されている。

室津海駅館
室津は、明治に入ると参勤交代の制度が無くなり、鉄道・道路が内陸部に敷かれたため急速に衰退した。
そのため、朝鮮通信使が往来した室津港は昔と変わらないままの姿を残したのであった。お茶屋は町民センターとなって存在し、通信使下級官吏の宿泊所なった浄蓮寺、寂静寺も現存する。
昨今、江戸時代の善隣友好の外交使節・朝鮮通信使が注目されるようになり、室津においても朝鮮通信使行列や通信使展覧会などさまざまなイベントが行われるようになった。

朝鮮通信使正使宿舎跡
2001年、室津において、「朝鮮通信使の世界記憶遺産」登録に貢献した「朝鮮通信使縁地連絡協議会」(1995年発足、朝鮮通信使1参照)が開催され、室津もまた朝鮮通信使ゆかりの歴史のまちとして広く認知されるようになった。
つづく
牛窓を出航した朝鮮通信使大船団は、播磨灘にさしかかると姫路藩の迎護船の案内で室津(現兵庫県たつの市)に向かう。

室津港位置図
室津は、播磨灘に面する約1300年の歴史をもつ港町。奈良時代の名僧行基(ぎょうき)が開いた摂藩5泊(宿)の一つ、三方を山に囲まれた入江は波静かである。室の内のようだと「室の泊」(むろのとまり)と名づけられた天然の良港である。

室津港の現在の風景
江戸時代、参勤交代の際に西国70の大名が海路で室津港に上陸、陸路で江戸に上り、帰りはここで乗船し帰藩した。年間90回もの大名行列が寄港した室津は、西国最大の宿場町、海駅として大いに繁栄した。
異国から訪れる朝鮮通信使の寄港は、見なれた参勤交代とちがっていた。姫路藩は朝鮮通信使の寄港が伝えられると、早くから通信使一行の応接準備にとりかかり、使節員が上陸するときは藩主をはじめ藩挙げての歓迎であった。そして見物禁止のお触れにもかかわらず、室津周辺の村々から老若男女の見物人が押し寄せた。
瀬戸内海を航行した11回の使節団すべてが往路、復路とも室津に寄港した。
9次通信使の製述官・申唯翰(シンユハン)は、室津入港の風景を「前湾は水潤く、山は険しくて雲霞ただよい、四方を眺むれば、奇勝が客の感懐をすこぶる爽やかにしてくれる」(『海遊録』)と記した。
日本本土に上陸した最後の11次(1764年)通信使が室津に上陸したとき、天候不順で滞在は6日間に及んだ。正使の趙厳(チョウオム)は、三方を山に守られた海辺のお茶屋の精巧な建物に驚きながら、浩々とした月と鏡のような静かな波を見て漢詩一句を吟じた。
通信使船団が室津に入港した様子を伝える貴重な資料が残されている。
室津の港につき出した岬の上に建てられた賀茂神社には、6次通信使入港のあらましを記した巻物『韓客過室津録』(長さ約10メートル)が保存されている。巻物には通信使船団の入港を前にして、不足する水の確保、料理につかう魚の調達、火の用心の夜回りなど、心くだいて接待準備に奔走する様子が詳述されている。

賀茂神社
この巻物は、姫路藩が奉納したもので神社の神宝となっている。
いま一つの資料は、2曲の絵屏風「朝鮮通信使室津湊御船備図屏風」である。
屏風には、迎賓館である姫路藩主のお茶屋・別荘、朝鮮船6隻、数百隻の案内・護衛船、藩の大小の船が細かく描かれている。また屏風の上段、下段の空白部分に藩をあげて通信使を歓迎した歴史がぎっしり書きこまれ、当時の模様をありありと見ることができる。
この屏風は、10次通信使(1748年)が入港したとき、姫路藩主松平明明矩がすべての様子を屏風に記録したものを、藩士の蔭山儀長がすべて描き写して新しい藩主酒井忠恭に提供したものである。
現在、これらの巻物や屏風は、当時の御船問屋の遺構を生かして作られた御津町立の「室津海駅館」に通信使関連の資料とともに展示されている。

室津海駅館
室津は、明治に入ると参勤交代の制度が無くなり、鉄道・道路が内陸部に敷かれたため急速に衰退した。
そのため、朝鮮通信使が往来した室津港は昔と変わらないままの姿を残したのであった。お茶屋は町民センターとなって存在し、通信使下級官吏の宿泊所なった浄蓮寺、寂静寺も現存する。
昨今、江戸時代の善隣友好の外交使節・朝鮮通信使が注目されるようになり、室津においても朝鮮通信使行列や通信使展覧会などさまざまなイベントが行われるようになった。

朝鮮通信使正使宿舎跡
2001年、室津において、「朝鮮通信使の世界記憶遺産」登録に貢献した「朝鮮通信使縁地連絡協議会」(1995年発足、朝鮮通信使1参照)が開催され、室津もまた朝鮮通信使ゆかりの歴史のまちとして広く認知されるようになった。
つづく
2019.11.13
朝鮮通信使72
牛窓の海遊文化館
1992年の春、岡山県瀬戸内市牛窓町に海遊文化館がオープンした。同年の秋には、江戸時代の朝鮮通信使行列を再現するパレードが行われるようになった。

牛窓海遊文化館 後ろ本蓮寺三重塔
海遊文化館は、朝鮮通信使牛窓寄港350周年祭(1986年)のときに開設した朝鮮通信使資料館を充実させると共に、牛窓町に伝えられるだんじり(山車)を展示する博物館である。
朝鮮通信使船団が瀬戸内海を往来した中で、牛窓に寄港したのは17回に及ぶ。
海遊文化館の名称は、第9次(1719年)の朝鮮通信使の製述官申維翰(シン・ユハン)の『海遊録』(日本往還の記録)に因み、「海」と「遊び心」を加味して名付けられたと言う。
海遊文化館は、牛窓港の近く本蓮寺への道すじにある。白壁に窓はステンドグラスをはめた洋風のモダンな建築物(国登録有形文化財)、明治時代に警察署とし建てられ使用された施設である。
内部の朝鮮通信使資料室には、通信使の牛窓寄港時の交流資料と通信使の正使、副使の等身大の人形のほか、朝鮮通信使行列を50体の人形や馬で再現している。

通信使正使・副使の人形
パネル展示では、瀬戸内海を航行する船団図、入港する様子を描いた絵図、通信使行列絵巻、牛窓町筋絵図のほか、韓国国立中央博物館に所蔵されている搓路勝区図(10次朝鮮通信使画員李聖麟の画集)の牛窓場面の複製や写真などが展示されている。
とくに注目されるのは、朝鮮通信使に由来する「唐子人形」を全国各地から収集展示していることである。
京都の伏見人形・人形名「朝鮮通信使」、広島県福山の常石張子・「ラッパ男」、滋賀県五個荘町・小幡人形「唐子人形」、山形県米沢市の相良人形・「虎乗り唐子」、奈良県桜井市の出雲人形・「唐子」など、八か所の地域から16種類の人形が並んでいる。

新たに作られた牛窓唐子人形
ラッパを吹く様子や、馬に乗った唐子、てっぺんの高い帽子をかぶった人形など、朝鮮王朝(李朝)時代独特の風俗をうかがい知ることができる楽しみな展示である。
海遊文化館は、国際交流や地域文化の新たな拠点としてオープンして以来、毎年入場者が増えつづけていると言う。
また一方、海遊文化館のオープンした同年秋から、善隣友好の歴史を伝える朝鮮通信使行列を再現したパレードが行われようになった。

チマ・チョゴリ姿で日・韓・在日コリアンの行進
このパレードは、地元の人々はもちろん、瀬戸内市と交流関係を結んでいる韓国・密陽市から中学生らが毎年派遣され、神戸市にある駐日韓国総領事が「正使」役として参加し、岡山朝鮮学校の生徒、在日コリアンが加わり盛大に行われていると言う。
今年のパレードには、日韓両政府の関係悪化により密陽からの中学生の参加が見合わせとなったが、ソウルの柳韓工業高校の生徒が初めて参加してパレードを盛り上げたと言う。

朝鮮通信使再現パレード本蓮寺入場
パレードの「正使」役を務めたパク・キジュン総領事は、「日韓の政治関係が難しい中、牛窓の地域の人たちの思いをうれしく感じます。今後も多様な民間交流につながっていってほしい」と話した。

牛窓港の現代の風景
これからも、平和と善隣友好の歴史を伝える朝鮮通信使の再現パレードや多様な文化の民間交流は、政治状況に左右されることなくつづけられることを願ってやまない。
つづく
1992年の春、岡山県瀬戸内市牛窓町に海遊文化館がオープンした。同年の秋には、江戸時代の朝鮮通信使行列を再現するパレードが行われるようになった。

牛窓海遊文化館 後ろ本蓮寺三重塔
海遊文化館は、朝鮮通信使牛窓寄港350周年祭(1986年)のときに開設した朝鮮通信使資料館を充実させると共に、牛窓町に伝えられるだんじり(山車)を展示する博物館である。
朝鮮通信使船団が瀬戸内海を往来した中で、牛窓に寄港したのは17回に及ぶ。
海遊文化館の名称は、第9次(1719年)の朝鮮通信使の製述官申維翰(シン・ユハン)の『海遊録』(日本往還の記録)に因み、「海」と「遊び心」を加味して名付けられたと言う。
海遊文化館は、牛窓港の近く本蓮寺への道すじにある。白壁に窓はステンドグラスをはめた洋風のモダンな建築物(国登録有形文化財)、明治時代に警察署とし建てられ使用された施設である。
内部の朝鮮通信使資料室には、通信使の牛窓寄港時の交流資料と通信使の正使、副使の等身大の人形のほか、朝鮮通信使行列を50体の人形や馬で再現している。

通信使正使・副使の人形
パネル展示では、瀬戸内海を航行する船団図、入港する様子を描いた絵図、通信使行列絵巻、牛窓町筋絵図のほか、韓国国立中央博物館に所蔵されている搓路勝区図(10次朝鮮通信使画員李聖麟の画集)の牛窓場面の複製や写真などが展示されている。
とくに注目されるのは、朝鮮通信使に由来する「唐子人形」を全国各地から収集展示していることである。
京都の伏見人形・人形名「朝鮮通信使」、広島県福山の常石張子・「ラッパ男」、滋賀県五個荘町・小幡人形「唐子人形」、山形県米沢市の相良人形・「虎乗り唐子」、奈良県桜井市の出雲人形・「唐子」など、八か所の地域から16種類の人形が並んでいる。

新たに作られた牛窓唐子人形
ラッパを吹く様子や、馬に乗った唐子、てっぺんの高い帽子をかぶった人形など、朝鮮王朝(李朝)時代独特の風俗をうかがい知ることができる楽しみな展示である。
海遊文化館は、国際交流や地域文化の新たな拠点としてオープンして以来、毎年入場者が増えつづけていると言う。
また一方、海遊文化館のオープンした同年秋から、善隣友好の歴史を伝える朝鮮通信使行列を再現したパレードが行われようになった。

チマ・チョゴリ姿で日・韓・在日コリアンの行進
このパレードは、地元の人々はもちろん、瀬戸内市と交流関係を結んでいる韓国・密陽市から中学生らが毎年派遣され、神戸市にある駐日韓国総領事が「正使」役として参加し、岡山朝鮮学校の生徒、在日コリアンが加わり盛大に行われていると言う。
今年のパレードには、日韓両政府の関係悪化により密陽からの中学生の参加が見合わせとなったが、ソウルの柳韓工業高校の生徒が初めて参加してパレードを盛り上げたと言う。

朝鮮通信使再現パレード本蓮寺入場
パレードの「正使」役を務めたパク・キジュン総領事は、「日韓の政治関係が難しい中、牛窓の地域の人たちの思いをうれしく感じます。今後も多様な民間交流につながっていってほしい」と話した。

牛窓港の現代の風景
これからも、平和と善隣友好の歴史を伝える朝鮮通信使の再現パレードや多様な文化の民間交流は、政治状況に左右されることなくつづけられることを願ってやまない。
つづく
2019.11.04
朝鮮通信使71
牛窓の「唐子踊り」
瀬戸内市牛窓町紺浦の疫(やく)神社の秋祭りに、毎年,地元の子供二人による童子舞「唐子踊り」が奉納される。

疫神社前 「唐子踊り」
この「唐子踊り」は、朝鮮通信使三使の総務係・小童(日本の小姓)の「小童対舞」によく似ていると言われる。
羽織ふうの袖なし衣装やだぶついた水色のズボン、円錐形の帽子などの特徴は、朝鮮の風俗に見られるものとほぼ同じであること。
また、囃子の歌詞の中に「オーシャンデー」、「ワーシューンレー」など朝鮮語の「やって来られた」を意味する言葉であること。
そして「唐子踊り」は、江戸時代のころから伝えられていることから、朝鮮通信使の「小童対舞」の影響を受けて始まり、今日まで受け継がれたものと推測されている。
本蓮寺の住職・日譚(にったん)は疫神社の「唐子踊り」は、「通信使の踊りを見よう見まねで再現したもの」と説明している。
それでは、「唐子踊り」とはどんな踊か? 動画を見てください。
9次朝鮮通信使の製述官・申唯翰は随行の小童二人が浜辺で舞いを披露した様子について、
「夜、湾岸の板を敷いたところに出て、楽士たちに鼓笛を奏でさせ、二人の童子を対舞させた。日本の群衆が雲ように集まった」(『海遊録』)と記している。
異国の音楽、踊りを、はじめて見学した民衆の驚きと感動は如何なるものであっただろうか?
彼らに強烈なインパクトを与え、そして牛窓の広範囲な人々の中に長らく語り継がれた。
現在、朝鮮通信使の貴重な置き土産である「唐子踊り」を後世に伝えようと、 地元保存会が結成され、その努力で若い世代に受け継がれていると言う。
今年の秋祭りでは、踊り手の交代期にあたり新旧4人の子供による「唐子踊り」奉納されたという。
善隣友好・文化交流の象徴として、いついつまでも続けられることを願ってやまない。
つづく
瀬戸内市牛窓町紺浦の疫(やく)神社の秋祭りに、毎年,地元の子供二人による童子舞「唐子踊り」が奉納される。

疫神社前 「唐子踊り」
この「唐子踊り」は、朝鮮通信使三使の総務係・小童(日本の小姓)の「小童対舞」によく似ていると言われる。
羽織ふうの袖なし衣装やだぶついた水色のズボン、円錐形の帽子などの特徴は、朝鮮の風俗に見られるものとほぼ同じであること。
また、囃子の歌詞の中に「オーシャンデー」、「ワーシューンレー」など朝鮮語の「やって来られた」を意味する言葉であること。
そして「唐子踊り」は、江戸時代のころから伝えられていることから、朝鮮通信使の「小童対舞」の影響を受けて始まり、今日まで受け継がれたものと推測されている。
本蓮寺の住職・日譚(にったん)は疫神社の「唐子踊り」は、「通信使の踊りを見よう見まねで再現したもの」と説明している。
それでは、「唐子踊り」とはどんな踊か? 動画を見てください。
9次朝鮮通信使の製述官・申唯翰は随行の小童二人が浜辺で舞いを披露した様子について、
「夜、湾岸の板を敷いたところに出て、楽士たちに鼓笛を奏でさせ、二人の童子を対舞させた。日本の群衆が雲ように集まった」(『海遊録』)と記している。
異国の音楽、踊りを、はじめて見学した民衆の驚きと感動は如何なるものであっただろうか?
彼らに強烈なインパクトを与え、そして牛窓の広範囲な人々の中に長らく語り継がれた。
現在、朝鮮通信使の貴重な置き土産である「唐子踊り」を後世に伝えようと、 地元保存会が結成され、その努力で若い世代に受け継がれていると言う。
今年の秋祭りでは、踊り手の交代期にあたり新旧4人の子供による「唐子踊り」奉納されたという。
善隣友好・文化交流の象徴として、いついつまでも続けられることを願ってやまない。
つづく
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