fc2ブログ
     牛窓本蓮寺の文化交流

 鞆の浦を出航した朝鮮通信使大船団は、備前岡山池田藩の先導で一路牛窓(現瀬戸内市牛窓町)へ向かう。

  牛窓海遊
      瀬戸内海中央の要港・牛窓

 牛窓は、小豆島の北方対岸にあり、福山藩の鞆の浦と姫路藩の室津を結ぶ要所で、瀬戸内海の東西の中央に位置した天然の良港である。

  本蓮字2
      牛窓港から見る本蓮寺 

 朝鮮通信使船団が牛窓に入港、上陸、歓迎の宴会までの様子を地元の記録は次のように記している。
 
 「牛窓の西の岬にのろしが上った。鞆の浦まで派遣されていた家老の船の先導で、三使とその荷物を分載した6隻の大船、対馬守の乗船を大小1056隻の船でとりまき警護しながら、入港してきたのである。高らん付きの特設桟橋から三使以下残らず上陸ののち、対馬守も上陸。町筋はよく清掃され、道のまん中にはうすべりが敷かれ、提灯にあかりがともされている。一行は海浜に設けられた7棟からなるお茶屋に入り、32畳の饗宴の間で三使と対馬守の盛大な宴会が催されたのであった」(『邑久郡誌』)

 幕府は、朝鮮通信使の特別迎接所として、牛窓と駿河国興津(現清水市)の清見寺の2か所を指定した。  

 特別迎接所は風光明媚な所が選ばれ、長旅の疲れを癒し、道中の慰安を目的としたものであったから、逗留期間が長く、さまざな人々との多様な交流が繰り広げられたようである。

 1624年、第3次朝鮮通信使一行がはじめて牛窓に上陸し、正使らの宿舎饗宴の場となったったのは本蓮寺である。本蓮寺は京都の法華宗本能寺の末寺で、西日本・九州地方で最も古い名刹とされている。

 9次通信使(1719年)の製述官・申維翰は本蓮寺について、

「傍らに一堂あり、上に銅柱を立て半空に高く突き出ている。名を本蓮寺という。西の港口に一舎を設け、絶勝である、、左右には浴室や厠があり、ともにそれぞれ精妙である。庭には蘇鉄(ソテツ)やその他の草木が異香を放ち、疎秀淡潔の感がある」(『海遊録』)

 備前藩の儒学者らが本蓮寺に押しかけて、使節員らと連日連夜にわたって詩文の唱和をくり広げた。熱い交流の様子は庭の樹齢300年を超える蘇鉄だけが静かに眺めていた。

 ソテツ
      本蓮寺書院前の蘇鉄

 本蓮寺には、池田藩の儒学者たちと通信使の交流を偲ばせる通信使の遺墨9点が残されている。

 その中の一点、5次通信使(1643年)従事官・申濡(シン・ユ)の七言絶句が本蓮寺書院に掛かっている。

    牛頭寺古残僧少
    翠竹蒼藤白日昏
    宿客不眠過夜半
    蚊雷蔭々振重門
         遇客為妙上人題

 (牛窓の古寺さびて僧侶もわずか、青青とした竹や藤が生い茂り日の光をさえぎって静寂そのもの、投宿の旅人は夜半が過ぎても蚊が雷のようにブーンブーンと飛び回り、奥深い部屋でも羽音がやかましく眠れなかった。妙上人のために作る)

  木蓮寺三
       本蓮寺境内・三重塔

 このユーモラスな漢詩を残した申濡の書の横に、彼の10代子孫・申柄植(シン・ビョンシク)の書が掛かっている。

 韓国光州市に住む申柄植は、1986年、朝鮮通信使牛窓寄港350周年際のおりに招かれて牛窓にやって来た。

 申柄植は、先祖のお蔭で日本に来られたことを喜び、先祖の書と対面して大変感激したという。そして来日するまで日本と韓国の善隣友好の歴史に疎かったことを深く反省し、これからは朝鮮通信使の勉強をすると決意して帰国した。

 その後、申柄植から書簡が本能寺に送られてきた。現在本蓮寺書院に申濡の書とともにその書が掛けられているのである。

 最近になって申濡と申柄植は、朝鮮の歴史上に名を成した人物・申淑舟(シン・スクチュウ)の子孫であることが分った。

 申淑舟は、朝鮮王朝(李朝)4代世宗大王(1418~1450)から信頼され、ハングル(朝鮮語・韓国語)文字の創作に貢献した中心人物である。

 申淑舟は、室町時代(1338~1573)に派遣された朝鮮通信使(1443年)の書状官として京都まで来たことがあり、当時の日本の事情や風俗などを記した『海東諸国記』を編纂した。この書は、室町時代の日本の状況を知るうえで貴重な資料となっている。

 彼は中国、琉球、対馬を往来し外交官としても活躍し、朝鮮王朝政権の最高の地位・領議政(総理大臣)にまで出世した人物であった。

    申淑舟
       領議政・申淑舟 画

 申淑舟は、余命いくばくもない時、国王の成宗(1468~1494)が枕元で言い残すことはないかとたずねると「願わくば日本との善隣友好を絶やしませぬように」と遺言したと言う。

 申淑舟の遺言は、凡そ500年以上前のものであるが、7代子孫の申濡は江戸時代に、現在は17代子孫の申柄植によって守られていると言えるだろう。
 これからは、申淑舟の遺言は申家の子孫だけでなく、日朝、日韓の両国民が善隣友好、文化交流促進ために生かしていくべきであろう。
   つづく
 

 
  朝鮮通信使の船団・瀬戸内海を行く
     
   高麗船の よらで過ぎ行く 霞かな

 この俳句は、瀬戸内海を航行する朝鮮通信使の船団が、群衆の目のまえを過ぎて、春霞のなかに消えてゆく情景を詠ったものである。(高麗船は朝鮮通信使船)

   蕪村
        与謝野蕪村 画

 江戸時代中期の俳人・与謝野蕪村(1716~84年)の一句である。
 
 おそらく蕪村は旅の途中、西日本のどこか瀬戸内海の沿岸で10回目(1748年)か11回目(1764年)の朝鮮通信使の船団を偶然に見る機会があったと思われる。

  航海8
        朝鮮通信使船団

 玄界灘を波濤を超えて日本にやってきた朝鮮通信使一行は、木造大型船6隻、案内する対馬藩の船と各藩の案内・護衛船、大小の船約千余隻が延々と連なり航行していた。
 
 はじめて見る異国の船団を見物しようと、押し寄せた群衆の歓声と華やかな朝鮮楽隊の音が聞こえてくるようであり、大小の船が次から次へと目の前を走馬灯のように通過し、やがて彼方に消え行く。まるで映像を見ているかのような当時の様子を映し出している。

  航海3
       朝鮮通信使 正使船

 しかし、通信使の船団を迎えて、少しでも近くで見学しようとして事故も発生した。
 
 船に近寄ってはならないとの厳しいお触れにも関わらず、「備前日比沖で小舟に乗り込んだ見物人が、書を求めて朝鮮船に近ずき、底深い大型船に吸い込まれ、沈没寸前に朝鮮水夫の艪で甲板にひきあげられ、命がけで使節員の書をもらった」という話もあり、

 また、1764年4月、「加古川の二子村の見物船が通信使船に吸い寄せられて下敷になりそうになり、大人、子供ら7,8人が通信使船の甲板に引き揚げられ難をのがれた」という事故も記録されている。(1764年、11次通信使『海搓日記』)

  航海7
      朝鮮通信使護衛 対馬藩主船

 朝鮮通信使一行の旅は、海路・陸路の江戸まで半年から一年もかかる長旅、道中で言葉が通じないことや文化の違いから、思いもよらぬトラブル、いざこざも少なからずあったと推測される。

 しかし、沿道諸藩の歓待・もてなしや庶民の熱狂的な歓迎は、通信使一行の励ましとなり、使節員と日本の民衆との歌・踊りなどの交歓の場が設けられたり、筆談唱和や書画の交換など文化交流も盛んに行われた。
 それらの事実を裏付ける遺跡、遺物、文化遺産が通信使が通過した地方各地に存在して、歴史探索の名所となっている。

  PA084873.jpg
      朝鮮通信使船団 瀬戸内海航路

 17世紀~19世紀中葉、12回も朝鮮通信使が日本を往来した江戸時代は、日本と朝鮮は善隣友好の外交が行われた時代であり、日本も朝鮮も戦争のない平和が保たれた時代であった。
 そして、近世の東アジアの平和が保たれた時代でもあった。
   つづく
    鞆の浦は「日東第一景勝」

 朝鮮通信使船団が下蒲刈を出航すると、次の寄港地は鞆の浦(鞆の津)である。   

  福禅字1
      断崖に建つ福禅寺

 鞆の浦は、広島県福山市の南、沼隈半島の南端に位置する史跡が多い港町である。大阪へ上る船、九州へ下る船も満潮に乗って入港し、干潮に乗って港を出る潮待ちの良港である。
    
 朝鮮通信使一行の宿舎となった福禅寺は鞆港の東端・海を見下ろす断崖の上に建っている。福山藩水野勝種は本堂に隣接するところに、通信使のための迎賓館・「対潮楼」を特別に設けた。

 対潮楼の座敷からは、東に仙酔島、弁天島、西側に巴形の鞆港、大小さまざまな島と、遠く四国の連山をパノラマのように眺望できる。その絶景はしばし時のたつのを忘れさせるという。ここに宿泊した朝鮮通信使一行はその景観を激賞し、その感激を詩文に書き残した。

  対潮楼
       対潮楼からの眺望

 1711年、第8次朝鮮通信使の正使ら上官8人が、福禅寺楼閣からの眺めは日本一であると衆議一致し、従事官・李邦彦(リ・バンオン)が「日東第一景勝」(日本一の景勝)と書いた六字の書を額装にして客殿に掲げた。 

 それから100年後、李邦彦の書の傷みがすすみ、なくなるのを心配した福山藩は、木額の「日東第一景勝」を作製して掲げた。その木額が今日まで客殿に掲げられている。

  書家2
      福禅寺扁額 李邦彦書
 
 1748年、第10次朝鮮通信使の正使・洪啓禧(ホンケヒ)は、海岸の崖上に立つこの書院造り客殿を「対潮楼」と命名した。そして子息の書家・洪景海(ホンキョンヘ)は、特別に準備された木の硯に墨をたっぷり含ませた特大の筆で「対潮楼」の字をいっきに書き下ろした。福山藩が扁額に仕立てて座敷に掲げた。その扁額は今日まで続けて掲げられ有名となっている。

  書家
      10次朝鮮通信使 洪景海書

 洪啓禧は、次のような漢詩文を書き残した。
「楼は鞆浦の東南間の崖上に在って、山の一つの麓が海に臨んで絶え、曠然として高い楼閣がその上にそびえている。前の使臣が此処に来て語った者は、皆この寺の楼を洞庭湖の岳陽楼に比べており、今見るに過ぎたる言ではない。雲が通り過ぎ、月が上ると甚だ広い蒼波が絹を広げたようで、千百隻の帆掛け船が岸の下に停泊し、点々と燈火を掲げて即ち下界の星の光が有るので、人として飄々として神仙になって天に登る気分になる」(『奉使日本時見聞記』)

 1812年、福山藩儒の管茶山は、漢詩と書の普及をめざして、拓本刷りができるよう通信使の漢詩を模刻して木版を製作した。町人たちは競って通信使の漢詩集を木版に作成した。

 福禅寺には数多くの陰刻、陽刻の木版が保存されており、対潮楼の座敷内には多くの漢詩文の扁額が掛けられている。芸術性の高い通信使の漢詩文作品が4方の壁にズラリと並び見学できるようになっている。

 江戸時代、対潮楼の漢詩文や遺墨を鑑賞するために、全国の有名無名の詩人や書家が訪れた。また、対潮楼で詩会もたびたび開かれた。対潮楼には通信使の漢詩の韻をふんで作詩された作品も残されている。
 福山藩校の塾生たちは、漢詩や書を学ぶため訪れ、対潮楼は移動教室のようであったと言う。

  鞆の浦
     生きた通信使博物館・鞆港の風景

 現在、鞆町は江戸時代の建物や波止場、雁木、常夜灯、町並、道路も当時のままであり、往時の姿で朝鮮通信使がパレードをしても、全く違和感のない風情だという。

 福禅寺は、1940年「鞆朝鮮通信使宿館跡」として広島県史跡に指定され、1994年には「朝鮮通信使遺跡鞆福禅寺境内」として国の史跡に指定された。

 1990年、広島県史跡「鞆朝鮮信使宿館跡」保存修理工事が開始された。福禅寺は資金が足りず全国的な募金活動に依存すことになった。、地元の「対潮楼の解体再建を支援する会」や「対潮楼再建カンパの会」(青丘文化ホール・辛基秀)を中心に全国的なカンパ活動が展開された。朝鮮通信使の研究者や通信使ゆかりの地域から積極的な支援もあって目標額が達成された。
 1993年、新装なった「対潮楼」が完成した。


  せとないかい
     瀬戸内海 鞆の浦付近地図

 福禅寺は、境内に通信使の遺品が数多く存在することから生きた博物館として注目されている。

 最近、朝鮮通信使が残した日・朝親善の生きた博物館・福禅寺対潮楼を訪れる外国人観光客が増加しつづけている言う。
 つづく

 
    下蒲刈の「御馳走一番館」
  
 広島県呉市にある下蒲刈島は、人口2300、周囲16キロの小さな島である。現在この島に朝鮮通信使資料館があり、「御馳走一番館」とも呼ばれる。

  下蒲刈島
         下蒲刈島全景

 なぜ、朝鮮通信使資料館を「御馳走一番館」と呼ぶのだろうか? 

 瀬戸内海を航行する朝鮮通信使は、赤間関(現下関)にてしばらく滞在したのち、上関に寄港する。ここまでの使節団一行の案内・護衛・接待は長州藩が担当した。

 上関を出航すると、長州藩に替わって安芸広島藩の案内で、瀬戸内海を本土よりの航路を東に進み、次の寄港地・安芸の下蒲刈島三ノ瀬(現呉市下蒲刈町)に向かう。 
 この海域は、瀬戸内海でも水路が狭く、島また島の潮流が複雑に変化する「安芸地乗り」と云う航行の難所であった。

 朝鮮通信使船6隻を中心に千隻の大船団が事故もなく無事航行できたのは、対馬藩のベテラン船頭や各藩の船手組、朝鮮の船頭たちの協力と、なによりも広島藩送迎船団の熟練船頭たちの高度な海上保安技術と導きによるものであった。

  瀬戸広島
      瀬戸内海 下蒲刈島付近地図

 広島藩は、西国の大藩を自認し、その面目にかけて朝鮮通信使の接待は他藩に負けじと対馬、壱岐、赤間関、上関に人を派遣して接待の様子を探らせた。使節員の好みはなにか、とくに正使の好き嫌い、酒の好みなどを調べて他藩以上の通信使歓迎、接待をしようと下準備を徹底したのであった。
 
 朝鮮通信使一行の下蒲刈寄港は11回、往復ともすべて寄港した。

  松渚園
     朝鮮通信使資料館のある松濤園 手前
 
 広島藩は通信使の来日が決まると、到着5か月前から準備にとりかかった。
 通信使御馳走人、酒菓子奉行、賄い青物奉行、蝋燭奉行、活畜奉行、諸道具奉行、料理人ら759人が島に渡り接待準備に専念した。

 迎賓館となる宿舎・お茶屋を通信使が来島するたびごとに新築状態に改築したという。金銀屏風、火鉢、燭台、筆墨などの調度品も整えられた。
 
 平地の少ない島に、接待関係者ら2000人がひしめき合って作業した。島民は彼らのために、住居を明け渡し山奥の仮設小屋に生活をよぎなくされた。
  
 朝鮮通信使一行は、牛肉をなによりも好物にしている情報を得て、牛2頭を食用に飼育し、長崎から豚をとりよせ、犬肉を珍重することも知り犬も飼った。使節員たちは生きた雉(キジ)が好物であるとの情報が入り、雉の捕獲に莫大な費用を投入した。雉1羽=3両で300羽を調達したという。

 朝鮮通信使一行が到着すると、使節員約500人、案内役の対馬藩と接待の広島藩関係者4000人の大勢の人が来島したので、狭い「島が沈む」とまでうわさされたという。
 
 広島藩の経済的負担は莫大であったが、藩主をはじめ関係者は、他藩との接待競争で負けないと意気込みをみせ、同時に失礼や失敗、事故のないよう神経もつかったようである。

 通信使が到着すると、400余個の提灯が点灯し、宿舎のお茶屋まで毛氈170枚が敷かれ、廊下には紫幕が張りめぐらされた。

 歓迎宴では正使、副使、従事官三使に「七・五・三の膳」の饗宴食が出され、朝鮮人参で合醸された忍冬酒(にんとうしゅ・度数高く風味芳醇)、日本伝統の醸造酒もふるまわれた。通信使一行は「安芸州之酒味日東一」(広島の酒は日本一)(任守幹『東搓録』)と称賛した。
 
 三使の朝夕は「七・五・三」、昼は「五・五・三」の膳、引替に「三汁一五采」の豪華な料理(白米、酒、肉、魚、貝、野菜、漬物、菓子その他)が出された。官位によって料理の種類に差がつけられた。

 通信使一行が江戸に着いたとき、将軍から各地の接待の様子をたずねられた際、同行の対馬藩主が「安芸蒲刈御馳走一番」と答えた。これは「食」を含めた接待全体が安芸国の下蒲刈が一番よかったということである。

  3汁15
      三汁十五菜 通信使接待料理

 朝鮮通信使に随伴し各地・各藩の接待を実際に見て体験した対馬藩主の評価は、客観的であり、そのまま幕府の評価でもあった。

 安芸下蒲刈の接待が「御馳走一番」と評価されたのは、国賓の外国使節を「おもてなし」の心で精一杯接待した広島藩の並々ならぬ努力と島民の協力、涙ぐましい支援があったからである。

    一番館
        御馳走一番・朝鮮通信使資料館


 現在、下蒲刈島は全島の庭園化計画がすすみ、松濤園内の朝鮮通信使資料館・御馳走一番館を中心にテーマパーク化されている。
 朝鮮通信使資料館の展示物のなかで「七・五・三の膳」、「三汁一五菜の膳」と朝鮮通信使船の十分の一の摸型、本陣と通信使行列の人形等は圧巻である。

 2000年,下蒲刈と本土をつなぐ吊橋・安芸灘大橋が完成し、朝鮮通信使資料館を見学する観光客が急増した。

 とくに2017年、朝鮮通信使資料がユネスコの「世界の記憶遺産」登録後は朝鮮通信使に対する関心が高まり、下蒲刈は通信使の停泊地として注目され、観光客がますます増えているという。

  行列模型
       朝鮮通信使行列人形

 毎年、呉市下蒲刈において、朝鮮通信使をテーマにした「文化と歴史の祭典」が開催されている。

 今年は17回目の祭典、10月20日11時、朝鮮通信使再現行列が
 下蒲刈市民センター前を出発、つづいてステージイベントが開催される。
  つづく

    朝鮮通信使と赤間関

  通信の船
         朝鮮通信使復元船

 江戸時代(1603~1868)、日本を往還した朝鮮通信使は12回におよぶ。
 毎回、400~500名の大使節団で、凡そ6ヵ月~1年をかけて江戸まで海路、陸路を往還した。通信使は日朝間の善隣外交にとどまらず、学問、芸術を通じた文化交流も実現させた。

  関門橋
     本州―九州結ぶ関門大橋

 朝鮮通信使一行は、釜山を出航して対馬に渡り、対馬藩の案内で壱岐ー藍島を経て、本州最初の寄港地・赤間関(現下関)に至る。
 赤間関は本州最西端に位置する海陸交通の要衝で九州への渡航口、朝鮮半島との交流の窓口として役割を担っていた。

 玄界灘を航行してきた朝鮮通信使船6隻に乗る使節員一行は、九州の北端の水際に築城された壮麗な小倉城を海上から見ながら、赤間関に入港上陸する。

  赤間神宮
      赤間神宮 元阿弥陀寺

 赤間関の民衆は、異国の文化をひと目見ようと殺到し、入港する通信使船を熱狂的に歓迎したと言う。
 
 赤間関を管轄する長州藩は、通信使来日の情報を得て小倉藩境から芸州響境までの通信使船の海上警護を行い、停泊地では使節団一行をいたりつくせりの「もてなし」接待をしたと言われている。
 
 1711年の8次通信使の来日の際には、長州藩主毛利吉元が自ら接待にあたり、「長門下之関御馳走一番」(長州藩のごちそうが一番)と評されたという。

 当時の赤間関は、小江戸と言われるくらい一大都市で大いに賑わっていた。通信使一行は、はじめて見る都市美と賑わいに感嘆したと言う。

 赤間関には由緒ある阿弥陀寺があり、通信使一行の宿館となっていた。

 阿弥陀寺は、源平の戦いで壇ノ浦に入水した安徳天皇を祀る寺院であった。

 豊臣秀吉による朝鮮侵略戦争後、対馬藩の招請により朝鮮からやってきた義兵僧・松雲大師は、将軍徳川家康の招き応じて会談(1605年)のため京都伏見に向かう途次、阿弥陀寺に宿泊した。

 松雲大師が、阿弥陀寺で安徳天皇の事績詩文「敬吊安徳天皇廟霊」を詠んだことが前例となり、以後、阿弥陀寺を客館とした通信使たちは、必ずその由諸を聞き、壇ノ浦懐古詩文を詠むことが通例となった。松雲大師の詩文の韻を踏んで作詩することを常としてつづけられたという。

 こうして、最後の対馬の「易地通信」を除く、すべての朝鮮通信使の正使・副使・従事官の三使と上官らが詠じた真筆詩文17通が阿弥陀寺の寺宝として保存されていた。

 長州藩の藩士や藩校明倫館の文士らは、阿弥陀寺を訪れ使節員らと夜を徹して交流した。そして、日頃は阿弥陀寺に残された通信使の詩文を閲覧筆写して先進的な朝鮮文化を学んだという。

 しかし、明治初年の神仏分離の際に通信使が残した詩文はすべて逸散してしまったとされている。その後、阿弥陀寺は廃されて赤間神宮となった。
 
 最近になって、赤間神宮に8次通信使(1711年)の副使任守幹(イム・スガン)が詠じた詩文「安徳祠次前使臣韻」が、唯一存在することが確認された。

  漢詩
     8次朝鮮通信使副使任守幹の詩文

 明治維新後、阿弥陀寺が消えたこともあって、長い間、赤間関の民衆から最大の歓迎をうけた朝鮮通信使の史実は忘れ去られていた。
 
 最近になって、朝鮮通信使のゆかりの阿弥陀寺の碑を建立したいと云う、地元市民と在日コリアンからの要望の声がたかまった。

  記念碑
     朝鮮通信使記念碑 阿弥陀寺公園

 2001年、赤間神宮前、阿弥陀寺公園に韓国から取り寄せた石で朝鮮通信使の記念碑・「朝鮮通信使上陸掩溜(滞在)の地」が市民の手で建立された。