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       富士山と夕日と雲30

    秋の夕日

  9月22日、日曜日、
  風が強く、雲が飛ぶように流れる、
  夕方、「富士山と夕日と雲」の
  神秘的な風景が広がった。
  数分間で撮った画像10枚を
  ストーリー風に編集して見ました。
  ご覧ください、
 
  

  同じ光景は2度は見られない、
  しかし、神秘的な風景はまた現れる、
  問題は、その瞬間を逃さないことである。
     朝鮮通信使の終了


 江戸時代、日本と朝鮮の交隣関係を築いた朝鮮通信使は、初代将軍徳川家康から始まり、1811年の第12次朝鮮通信使・対馬での「易地通信」が最後となった。

   通信使路
       朝鮮通信使の行程図

 その間、新将軍が誕生すると、幕府が対馬藩を通じて朝鮮国に要請し、それに応えるかたちで朝鮮通信使が派遣されてきた。
 
 対馬における「易地通信」から明治新政府が樹立されるまでの57年の間、徳川家将軍は家斉ー家慶ー家定ー家茂ー慶喜へと交替した。

 1837年、家斉が在位50年で引退し、世子家慶に将軍職を譲った。新将軍家慶には世子家定がおり、徳川家にとって3御所が同時に存在するというめでたい年になった。
 
 幕府は、これを祝う朝鮮通信使の派遣を要請するよう対馬藩に命じた。対馬藩の使者が釜山に渡り朝鮮側と交渉した結果、1846年に13次朝鮮通信使の派遣、対馬での易地通信を行うこと合意した。何としても易地通信の存続をはかりたい対馬藩の粘りづよい交渉の結果と言われている。

 ところが、大御所の家斉が1841年に没したため、通信使派遣計画は消滅した。
 家斉没後、幕閣の実権を握った水野忠邦は、「天保の改革」とともに朝鮮通信使を対馬ではなく、大阪で迎えるという「大阪聘礼」案をもちだした。 
 対馬での国書交換では、対馬までの幕府の使節派遣にかかる費用が大きく節約できないというのが理由であった。しかし水野の本当のねらいは、西国の諸大名に通信使の接待費用を負担させることで、揺らぎはじめた幕府の立て直しと権威誇示をはかろうとの目論みであった。。

 日本側の勝手な交渉に怒った朝鮮側は、10年先の1856年に通信使を派遣すると返答してきた。
 
 仲介役の対馬藩は、何んとか朝鮮を説得しょうと交渉中、「大阪聘礼」案を出した水野が罷免されたために、その計画もご破算となってしまった。

 1858年、家茂が新将軍に就任したときも、対馬での易地通信が合意されたがこれも家茂死去で消滅した。

 その後も、対馬藩と朝鮮側訳官使が互いに対馬―釜山間を往来し外交の窓口は開かれ交渉はつづいた。
 
 しかし、江戸時代の終焉まで通信使の使行が実現しなかった。その理由はさまざま上げられるが、主な要因としは日・朝ともに、華やかな通信使の行列や交流をくり広げる余力が残っていなかったためだと思われる。

 1867年、最後の将軍徳川慶喜が大政を返上(大政奉還)し、徳川幕府は消滅した。同時に善隣友好の日朝通信使外交の幕も閉ざされた。

   徳川慶喜
       徳川家最後の将軍慶喜
 
 1868年、明治新政府が誕生した。新政府は対馬藩を通じて日本が王政復古をしたことを知らせる国書(書契)を朝鮮国に通達した。
 
 書契を見た朝鮮国は、形式が先例と異なり、とくにその内容が対等な交隣関係ではなく、朝鮮を格下にみる「皇」、「勅」の字が含まれていたため、その受け取りを拒否した。

 1872年、対馬藩が外交実務を返上し、対馬藩が管理運営していた釜山の「草梁倭館」は、着任した外務省の花房義賢によって接収された。

  倭館1
     江戸時代 釜山にあった「草梁倭館」
 
 明治新政府内に、「征韓論」(武力による朝鮮侵略)が急速に高まっていた。
 つづく

  対馬1
     一衣滞水の隣国・日本と朝鮮半島

 次回から江戸時代の260年、12回の朝鮮通信使が日本各地に残した遺物・事跡・文化について記していきたいと思っています。ひきつづきよろしくお願いいたします。
    富士山と夕日と雲29



 高層アパートの自宅ベランダから撮りつづけた、
 「富士山と夕日と雲」の画像から、10枚を選び、
 いつものようにストーリー風に編集して見ました。
  ご覧ください、

 

 富士山がいつでも見られる環境が、
 ブログをつづけることを可能にしているのだろう。、
    対馬における日朝文化交流


 12次朝鮮通信使は、対馬までの易地通信であったが、対馬にとっては沈滞した経済を活性化する絶好のチャンスとなった。

 港湾の改修、道路の整備、宿館の新築、宗氏藩邸の大改築など幕府資金12万両が投じられた。
 通信使の饗宴の調度品である、茶碗、皿,おひつなどはすべて新調された。焼物の多くは信楽(滋賀県)の窯で作られたものであった。

  対馬府中
       対馬府中 現在の厳原

 通信使一行の328人が府中に到着し、幕府から派遣された役人、儒者、芸人や荷役船頭ら3千数百人が島外から訪れ対馬は大いに賑わった。

 通信使一行の人数は以前より少なかったが、構成員は変わらなかった。
 製述官(文才、筆談唱和、文章の起草に当たる)
 写字官(書字に長けた者)・画員(画家)
 良医(医術精通者)・楽工(楽器手)・吹手(角笛吹き)
 押物官(輸送担当通訳)・訳官(通訳)
 小童(三使・堂上・製述官に従い沿道で踊りを披露)など有能な人材が選ばれてきた。
 
 通信使一行は、対馬府中に入ると制服を揃え、伝統的な吹奏と舞のパレードを行い威容を誇った。

 対馬島主は下船宴を張り、日本の鳴り物と遊戯を披露した。これに答え踊りの上手な小童が戦笠をかぶり踊りを踊ると、江戸の使者と島人たちは皆称賛し喝采したと言う。
 
 国書伝令式後、朝鮮の力士(軍官)が手で碁石を握り潰す怪力を発揮し朝鮮の力を誇示する与興があった。

 当時の「文化交流」とは、自国の特技を自慢することであった。島主は日本の技術水準を見せる「絡繰(からくり)人形」を披露した。
 『使行録』には「・・内部に機輪を装置して美人が琴を弾く形態を作り、運転に従って音が出るので、すがすがしく聞くに値するものである」と記している。「絡繰り人形」は当時、ヨーロッパの技術と肩を並べる精巧さを持っていたと言われる。使臣たちはその高い技術に驚いたようである。

 幕府の使臣も、文化交流のために江戸の芸人や大阪の演芸人を連れてきて遊戯を見せた。太鼓、琴、三味線、笛の音が耳慣れないため奇異の感にうたれた使臣たちは、演技者らにさまざまな品物を褒美として与えたという。

 しかし、朝鮮通信使が考える文化交流とは、通信使の得意とする詩文によって日本の文士と唱和することであった。
 
 対馬府中で詩会が開かれた。この場には、朝鮮側は製述官李顕相(リヒョンサン)はじめ数名が参加し、日本側は、以酊庵長老や幕府が送った林家(羅山)7代大学頭林述斎をはじめ、昌平坂学問所の教授古賀精里、加賀藩の三宅橘園、会津藩の樋口留川、佐賀藩の草場凧川ら幕府が選抜した当時の優れた儒官が遠くからやってきた。
 
 詩会の詳しい内容は記録に残っていないが、以酊庵長老が使臣に送った律詩が『使行録』に載せられている。
 「隣好皇華答聖朝」(善隣の使臣は聖朝にこたえる)という一句で、ここにいう「皇華」は「天使の使臣」のことで、通信使を「天使の使臣」と称えた美辞麗句で、使臣の自尊心を満足させるものであったため、この詩だけが記録されたようである。

 *以酊庵=対馬にあった禅寺、1636年、幕府は五山の碩学(=学僧)をここに派遣して、朝鮮との往復書簡のことや朝鮮からの使者の接待などにあたらせた。現在の対馬市厳原町西山寺。

 幕府の儒官の中で、主役は「寛政の三博士」の一人、古賀精里で、彼は『李退渓書抄』全10巻を持ってきて、李退渓(朝鮮朱子学の大家)の陶山書院(韓国慶尚道安東市)へ伝えてくれるよう使臣に託した。『李退渓書抄』10巻は、現在も「陶山書院」に保管されている。

  李退渓
       韓国紙幣に載る李退渓

  安東
       陶山書院 慶尚道安東市

 当時、幕府は「寛政の改革」の一環として1790年、朱子学を正学とし、湯島聖堂において正学以外の異学の教授を禁じた。この「寛政異学の禁」を推し進めた人物の一人が古賀精里であった。
 「李退渓書抄」が日本で編纂されるほどであったから、使臣たちは朱子学があたかも日本の学問の主流であるかのように理解したのである。
 しかし、官学の朱子学とは異なり、自主的に成長した国学は、日本の思想界に新たな気運をまきおこしつつあった。国学者らは、朝鮮、中国に背を向け通信使を好ましくない存在として見ていた。

 狭い対馬に限られた易地通信では、日本の情勢を詳しく把握できない状況にあったのである。そのため通信使らは、このような日本の思想界の新たな気運を全く感知するこなく文化交流を終え帰国することになった。

  厳原1
      対馬厳原港祭り 毎年8月初

 その後も朝鮮は、訳官らを対馬に派遣して、幕府の関係者と接触したが、日本国内の情勢・状況を把握できず、新しい時代の対応に遅れをとる要因の一つなったと思われる。
 つづく